あなたがいなくても
治療院の廊下を、患者が歩いていた。
自分の足で歩ける者は壁際を一列になって進み、看護師が前後についている。
その横を、二台の寝台が逆方向へ運ばれていく。
怒鳴り声はない。
走っている者もほとんどいない。
だが、全員が急いでいた。
「第二処置室、移動完了!」
「第三病室、あと二人です!」
「歩ける人は南棟へ! 荷物は置いてください!」
廊下の中央に立つニナは、次々に飛んでくる報告を聞きながら手元の患者表へ印を付けていた。
「第五病室は?」
「三人ともまだです!」
「一人は動かしていい。二人は治療を切れません」
「では治療台ごと?」
「いいえ。今動かす方が危険です。そこは残します」
看護師が一瞬迷った。
「結界が落ちたら?」
「落とさないために技師がいる。完全に駄目になった時は私が治療を切る」
ニナは顔を上げる。
「今は動かさない」
「分かりました!」
看護師が戻っていく。
治療院の北棟には、魔術事故や魔力障害を受けた患者を扱う部屋が集まっている。
そのため、普通の病室とは違う設備が一つあった。
浄化結界。
治療中の患者から漏れる不安定な魔力や、処置によって切り離された有害な魔力を病室の外へ流し、別の患者へ触れないようにするためのものだ。
病を治す魔術ではない。
誰かが掛けた呪いでもない。
治療院を安全に使うための設備だった。
その結界が、十五分ほど前から崩れ始めている。
原因はまだ分からない。
ただ、直前に供給魔力が二秒ほど落ち、戻った時に一度強く流れた。
東区で続いている異常と同じだった。
今は北棟の結界だけで持たせている。
だが、このまま完全に壊れれば、病室から集めた不安定な魔力を外へ流せなくなる。
患者へすぐ致命的な害が出るわけではない。
しかし治療を続けるには危険すぎる。
だから、動かせる者から別棟へ移していた。
「ニナ先生!」
階段側から声がする。
グレンが救難隊員を連れて入ってきた。
「外の経路は確保しました。南棟まで二本使えます」
「助かります」
「残りは?」
「自力移動が四人。寝台が三人。第五病室に二人残します」
「動かせない?」
「今やっている治療を中断する方が危険です」
グレンは一度だけ第五病室を見る。
「分かりました」
理由を聞き返さない。
誰を動かせるかはニナの専門だった。
「では二人は最後までここに残す。その病室までの道を一本空けます」
「お願いします」
「隊員二人を入口へ。何か変わったらすぐ運べるようにします」
それぞれの判断が重なる。
誰も、一人の指示だけを待っていない。
ニナは次の患者へ向かった。
北棟の奥では、テオが結界の制御部を開いていた。
床には測定具が三つ並び、そのうち一つが不規則に明滅している。
「戻せる?」
横にいる技師が尋ねる。
テオは手を動かしたまま首を振る。
「今は無理です」
「切り替えは」
「予備側へ全部渡すと、こっちが切れる瞬間に負荷が乗ります」
「なら分ける?」
「それをやります」
テオは壁際へ伸びる二本の経路を見た。
浄化結界そのものを直す時間はない。
なら今動いている部分だけを残し、壊れかけた側を切り離す。
残った負荷を予備へ逃がす。
「五分欲しい」
「持たないだろ」
「分かってる」
「何分」
テオは表示を見る。
「今のままなら二分あるかどうか」
「間に合わない」
「だから全部直さない」
テオは工具を一つ置いた。
「北側だけ捨てます」
隣の技師が顔を上げる。
「そこ交換になるぞ」
「人が残ってる状態で全部失うよりいい」
「……分かった」
「予備側の準備をお願いします。切った瞬間に受けてください」
「任せろ」
技師が離れる。
テオは一人になった。
表示はまた弱くなっている。
戻る。
まだ戻る。
だが、戻るたびに少しずつ遅くなっていた。
訓練で見た、あの崩れ方と似ている。
最後まで直そうとするな。
直す仕事を捨てるのも仕事だ。
老人の声を思い出す。
「捨てるよ」
テオは誰もいない制御部へ呟いた。
「お前は今日で終わり」
古い結界へ言ったのか、自分へ言ったのか分からなかった。
中央詰所で連絡を受けたシャワルが治療院へ着いたのは、それから数分後だった。
玄関にグレンの部下が待っている。
「北棟です」
「状況」
「避難中。自力移動はほぼ完了。寝台二台を移動中。治療中で動かせない患者が二人残っています」
「結界は」
「まだ保っています。テオさんたちが切り替え作業中です」
シャワルは歩きながら聞く。
「俺は何をすればいい」
若い救助員が一瞬だけ黙った。
以前なら、そこから説明を始めたかもしれない。
今回は違った。
「完全破断が来たら、そこだけ止めてください」
シャワルが横を見る。
救助員は真面目な顔をしている。
「その間に技師が壊れた側を切ります。患者の移動はグレン隊長とニナ先生がやります」
シャワルは少し笑った。
「分かった」
それ以上、何も聞く必要がなかった。
北棟へ入る。
廊下はだいぶ空いている。
さっきまで並んでいた患者の姿はほとんどない。
グレンが向こうから来た。
「残り、寝台一台です」
「動かさない二人は」
「第五病室。ニナ先生がいます」
「テオは」
「奥です」
「俺は」
「制御部前でお願いします」
迷いがない。
シャワルは頷いた。
「何秒必要だ」
「テオ!」
グレンが奥へ声を飛ばす。
すぐ返事が来る。
「切断から切り替えまで四十秒!」
「余裕は!」
「十五欲しい!」
グレンがシャワルを見る。
「五十五秒で組みます」
「分かった」
それだけだった。
以前なら、
何分持つ。
どれくらい余裕がある。
本当にできるのか。
そういう質問が続いた。
今は誰も聞かない。
自分たちが何秒で終えるかだけを決めている。
制御部へ着く。
テオは床に膝をついたまま、シャワルを見上げた。
「来たんですね」
「呼ばれた」
「珍しくちゃんと待ってました?」
「失礼だな」
「オルドさんから聞いてます」
「余計なことを」
テオが少し笑う。
その間にも手は止まらない。
「状況は」
シャワルが尋ねる。
「ここは捨てます」
テオが壊れかけた側を指した。
「直さないのか」
「時間が足りません」
返事は早い。
「予備側だけ残します。患者がいなくなった後に全面停止して交換します」
シャワルは一度だけ制御部を見る。
「いい判断だ」
テオの手がほんの一瞬だけ止まった。
嬉しそうな顔をするかと思ったが、すぐ作業へ戻る。
「訓練で聞いたので」
「俺が決めたわけじゃないだろ」
「はい」
テオは工具を握り直した。
「自分で決めました」
「ならもっといい」
シャワルは制御部から少し離れた。
第五病室では、ニナが二人の患者を見ていた。
一人は魔術事故で身体の魔力が乱れ、外へ漏れ続けている。
もう一人はその魔力を整える処置の途中だった。
どちらも今すぐ命が危ないわけではない。
だが、治療を途中で止めて移動すれば状態が悪化する可能性が高かった。
助手が不安そうに廊下を見る。
「他は?」
「移動完了したって」
ニナは患者から目を離さない。
「じゃあ私たちだけですね」
「患者二人と私たち二人」
「結界、持ちますか」
ニナの手が止まる。
助手を見る。
「それは私たちの仕事じゃない」
「でも」
「持たせる人がいる」
ニナは患者へ視線を戻した。
「こっちを終わらせる」
言い切る。
助手も頷いた。
最後の寝台が北棟を出た。
グレンが確認する。
「移動完了!」
部下が答える。
「全員南棟へ入りました!」
「北棟、残り四人!」
第五病室の患者二人。
ニナ。
助手。
それだけ。
グレンは制御部へ走る。
「テオ!」
「準備できました!」
「シャワルさん!」
老人はすでに右手を上げる位置へ立っている。
「まだだ」
そう答えた。
グレンは何も言わない。
待つ。
テオも待つ。
結界の表示が大きく揺れた。
一度弱くなる。
戻る。
さらに弱くなる。
また戻る。
シャワルはその動きを見ている。
まだだ。
自分で戻ろうとしている。
テオも表示から目を離さない。
「次で来るかもしれません」
「そうだな」
低い震動。
結界の光が落ちた。
戻ろうとする。
途中まで戻る。
そこで止まった。
今までなら、もう一度押し返していた。
今度はない。
戻る力が消えた。
シャワルの右手が動く。
同時にテオが叫んだ。
「最後に入ります!」
二人の判断が重なった。
風が走る。
北棟を包んでいた浄化結界は、すでにあちこちで歪んでいる。
壊れかけた部分もそのまま。
集められた不安定な魔力も消えない。
ただ、完全に結界が失われる最後の瞬間だけに、薄い風が一枚重なった。
光の角度で、その縁だけが白く見える。
紙を一枚、頁の間へ差し込んだようだった。
「止めた」
グレンが即座に声を上げる。
「開始!」
テオが壊れた側の接続を外す。
隣の技師が予備側へ魔力を流す。
「第一切断!」
「受けた!」
「次!」
作業は速い。
シャワルは指示しない。
何を切るのかも知らない。
どの順で繋ぐのかも知らない。
知らなくていい。
それはテオたちの仕事だった。
「二十秒!」
グレンが時間を読む。
第五病室からニナの声。
「一人目、処置終了!」
助手が扉を開ける。
「移動できます!」
廊下に待機していた救助員がすぐ入る。
誰もシャワルの方を見ない。
一人目を治療台ごと押し出す。
「南棟へ!」
グレンが経路を空ける。
「三十秒!」
テオが二本目を外した。
「予備側、上げます!」
「まだ半分!」
別の技師が返す。
「急に上げるな!」
「分かってる!」
シャワルの風が一度大きく撓んだ。
内部に集まった魔力が出口を失いかけている。
長く止めるほど、安全になるわけではない。
むしろ今は、破断できない分だけ負荷が溜まっている。
右手が重くなる。
それでも黙って持たせた。
「四十!」
第五病室からまた声。
「二人目、終わります!」
ニナが処置を切り替える。
患者の身体から漏れていた魔力が弱まった。
「動かせます!」
助手が寝台を押す。
救助員がすぐ受け取る。
ニナ自身も病室を出る。
走らない。
患者の状態を見ながら最後についてくる。
「北棟の患者、全員移動!」
グレンが確認する。
「五十秒!」
テオが最後の接続へ手を掛ける。
「予備、完全に受けて!」
「受ける!」
「切る!」
乾いた音。
壊れた側の結界が制御から外れる。
一瞬、北棟全体の光が暗くなる。
すぐに別の柔らかな光が病室を包んだ。
予備側だけで成立した新しい流れ。
テオが表示を見る。
「切り替え完了!」
グレンが叫ぶ。
「全員退避!」
技師たちが制御部から離れる。
シャワルは風の向こうを確かめた。
壊れた部分はもう、残った結界へ繋がっていない。
これなら終わっていい。
右手を下ろす。
薄い風が消えた。
次の瞬間、切り離された古い結界だけが完全に砕けた。
光の破片が散る。
だが、予備側は揺れない。
病室を守る新しい結界も残っている。
誰も身構えたまま動かなかった。
テオが表示をもう一度確認した。
「安定してます」
グレンが息を吐く。
「終わり?」
シャワルは新しい流れを見る。
「ああ」
少し間を置いた。
「これは終わった」
誰かが笑った。
緊張が一気に抜けた。
ニナは南棟まで患者を送り届けてから戻ってきた。
制御部の前では、もう技師たちが次の作業へ移っている。
完全に壊れた側をどう撤去するか。
予備結界だけでどこまで治療を続けられるか。
今後の患者配置はどうするか。
事故は終わった。
仕事はまだ続いている。
シャワルは壁際の椅子へ座っていた。
ニナはその前に立つ。
「手」
「何だ」
「見せてください」
「患者じゃない」
「今から患者になる前に」
「ならない」
「いいから」
シャワルは諦めて右手を出した。
指先はかなり震えている。
ニナが眉を寄せる。
「無理しました?」
「五十五秒くらいだ」
「時間を聞いてません」
「ちゃんと終わった」
「それも聞いてません」
いつの間にか、こういう言い合いにも慣れていた。
ニナは脈を確認する。
大きく乱れてはいない。
ただ、疲労は明らかだった。
「今日は帰ってください」
「俺の仕事は終わった」
「珍しく素直ですね」
「最近よく言われる」
「成長しましたね」
「七十四に言うな」
ニナが少し笑った。
グレンも近づいてきた。
「ありがとうございました」
「俺、いらなかったな」
ニナの顔が変わった。
「何言ってるんですか」
「最後を止めてたでしょう」
「そこじゃない」
シャワルは制御部を見る。
テオが若い技師と次の手順を話している。
廊下ではグレンの隊員たちが移動経路を片付けている。
ニナの助手も患者の記録をまとめていた。
「俺が来てから、誰にも何をしろって言わなかった」
グレンが少し考える。
「そういえば」
「お前が避難を決めた。ニナが残す患者を決めた。テオが何を捨てるか決めた」
シャワルは右手を軽く握る。
「俺は最後だけだった」
ニナが眉を寄せたまま言う。
「だから、それがあなたの仕事でしょう」
「ああ」
「じゃあ必要だった」
「そうだな」
シャワルは笑った。
ニナは余計に分からない顔をする。
「何なんですか」
「いや」
シャワルはもう一度、周囲を見る。
自分が来るまで止まっていた者はいなかった。
自分が来たから急に正解が生まれたわけでもない。
皆が先に考えていた。
自分の場所を決めていた。
最後が来た時だけ、そこを渡された。
「楽になったと思ってな」
「魔術は全然楽そうじゃありませんでしたけど」
「そっちは別だ」
ニナは呆れた。
テオも作業を終えて近づいてきた。
「シャワルさん」
「何だ」
「北側、交換になります」
「そうか」
「もう直しません」
「うん」
「もったいないですけど」
シャワルは壊れた結界を見る。
長く治療院を守ってきた設備だった。
何人の患者を守ったのかは知らない。
今日で役目を終えた。
「終わっていい物もある」
テオが頷く。
「はい」
迷いはなかった。
古いから捨てるのではない。
使えなくなったから替える。
それだけだった。
その日の夕方。
シャワルが治療院を出る時、北棟ではもう一部の病室へ患者が戻り始めていた。
全部ではない。
予備結界だけで安全に使える範囲へ減らしている。
廊下を歩く看護師がいる。
寝台を運ぶ救助員がいる。
技師もまだ残っている。
ニナは入口までついてきた。
「一人で帰れます?」
「帰れる」
「本当に?」
「家までそんなに遠くない」
「途中で倒れないでくださいね」
シャワルが立ち止まる。
「縁起でもないこと言うな」
「あなたが言います?」
「俺は自分の葬式の話をしただけだ」
「十分です」
二人とも少し笑った。
シャワルは通りへ出る。
数歩進んでから振り返った。
治療院の窓には灯りが点いている。
自分がいなくても治療は続く。
自分がいなくても患者は運ばれる。
自分がいなくても壊れた設備は切り離され、新しいものへ繋がる。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
ただ本当に最後が来る時だけ。
その時だけ、自分を呼んでくれればいい。
シャワルは前を向いた。
右手を外套のポケットへ入れる。
震えは、まだ完全には止まっていなかった。




