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違う最後

シャワルが黒い上着を出しているところへ、フィアがやってきた。


普段着にしている濃い色の上着とは違い、襟まできちんと形の整ったものだった。

机の上には黒い布と一通の知らせが置かれている。


玄関から居間へ入ってきたフィアは、それを見るなり足を止めた。


「どこか行くの?」


「明日な」


「仕事?」


「葬式だ」


シャワルは上着の袖を確かめながら答えた。


フィアの表情から、さっきまであった明るさが少し消えた。


「誰の?」


「昔、一緒に仕事をした奴」


「仲良かった?」


「顔を合わせれば酒を飲むくらいには」


「それ、仲良いんじゃない?」


「そうかもしれんな」


亡くなった男とは、若い頃に何度も同じ現場へ出た。

毎週会うような友人ではなかったが、数年ぶりに顔を合わせても昨日の続きのように話せる相手だった。


八十二歳。


数日前の朝、自宅で眠ったまま亡くなったという。


長く病床にいたわけでも、大きな事故に遭ったわけでもない。


家族から届いた知らせには、前日の夜まで普通に食事をしていたと書かれていた。


「事故じゃないの?」


「ああ」


「病気?」


「大きいのは聞いてない」


「じゃあ、なんで死んだの」


シャワルは上着から手を離した。


十一歳の問いは、時々ひどく真っ直ぐだった。


「歳だろうな」


「歳だけで死ぬの?」


「歳だけとは限らん。身体は少しずつ弱るからな。心臓だったかもしれんし、別の何かだったかもしれん」


「分からないの?」


「詳しく聞くことでもないだろ」


フィアは納得しきれない顔をしながら、いつもの椅子へ座った。


今日は図書館から借りた『風見鶏の街道』第七巻を持っている。

もう十二巻まで読み終えているのに、今度は好きな巻を読み返し始めたらしい。


シャワルはその変化を少し面白く思っていた。


初めて読む時には先が気になって頁を急いでいた少女が、今は知っている場面へ戻っている。


「お茶いるか」


「うん」


「菓子は」


「ある?」


「昨日オルドが置いてった」


「いる」


返事だけはいつも通りだった。


シャワルが湯を沸かして戻ると、フィアは机の知らせを読まずに眺めていた。

他人宛ての手紙へ勝手に手を伸ばさない程度の分別はある。


茶と菓子を置く。


少女は一つ取ったものの、すぐには食べなかった。


「シャワルさん」


「何だ」


「寂しい?」


シャワルは少し考えた。


「寂しいな」


「でも泣いてない」


「泣かない時もある」


「悲しくないの?」


「寂しいって言っただろ」


フィアが眉を寄せる。


「難しい」


「別に同じ顔になる必要はない」


「会えなくなるんでしょ」


「ああ」


それは寂しい。


次に会った時に昔の失敗を笑われることもない。

酒を飲んで、同じ話を何度も聞かされることもない。


それでも今すぐ涙が出るわけではなかった。


明日、棺を前にしたら違うかもしれない。


それも今は分からない。


シャワルは菓子を一つ取った。


「死んだ人のこと考えてても腹は減る」


「それ言っていいの?」


「腹に聞け」


フィアが少しだけ笑った。


ようやく自分の菓子を齧る。


しばらく二人で食べた。


話題は一度、『風見鶏の街道』へ移った。


七巻でフィアが気に入った人物の名前を、今度はちゃんと覚えてきたらしい。


「セドだよ。セド・レイカー」


「やっと覚えたか」


「前も顔は覚えてた」


「一番好きな奴の名前を忘れるな」


「シャワルさんはセルマばっかりだから覚えてるだけでしょ」


「他も覚えてる」


「じゃあ五巻で宿屋の裏から逃げた人」


「ハイン」


即答すると、フィアが悔しそうな顔をした。


「じゃあ三巻の市場の――」


「本の試験をしに来たのか」


「今考えてる」


「考えてから問題を出せ」


また少し笑う。


けれど、フィアは長くその話を続けなかった。


机の端に置かれた黒い布へ、また視線が戻る。


「シャワルさんも死ぬの?」


今度の問いに、シャワルは菓子を持ったまま止まった。


聞かれるとは思っていた。


それでも、言葉にされると少し違った。


「たぶんな」


フィアの顔が強張る。


「たぶん?」


「人間だからな」


「でも、魔術で止められるでしょ」


シャワルは首を振った。


「無理だ」


「だって最後を止めるんでしょ?」


「魔術の最後だ」


フィアが黙る。


シャワルは言葉を選んだ。


自分の仕事を見た子供なら、そう考えても不思議ではない。


壊れる直前の設備。

身体へ定着する直前の魔術障害。

落ちる直前の昇降台。


最後になる前に止めてきた。


なら、人間が死ぬ最後も止められるのではないか。


「俺が抑えられるのは、途中まで進んだ魔術が取り返しのつかない形になる、その最後だけだ」


シャワルは自分の胸へ指を当てた。


「心臓が止まる。身体が老いる。命が終わる。そういうものを同じようには扱えん」


「じゃあ、死にそうになっても?」


「怪我の原因が魔術なら、その魔術を止められることはある。あとは治療する奴の仕事だ」


「でも普通に死ぬ時は?」


「止められん」


言い切った。


フィアは俯く。


「……嫌だ」


小さな声だった。


シャワルはすぐに返事をしなかった。


「何が」


「シャワルさんが死ぬの」


「そうか」


「そうかじゃない」


少女が顔を上げる。


怒っている。


目の端には少しだけ涙が溜まっていた。


「もっと、なんかないの?」


「何かって」


「死なないとか」


「それは言えん」


「長生きするとか」


「努力はする」


「もっとちゃんと言って」


シャワルは困った。


できない約束をすれば、今だけは安心させられるかもしれない。


百歳まで生きる。


絶対に死なない。


お前が大人になるまで元気でいる。


どれも言うだけなら簡単だった。


だが、それを約束と呼ぶ気にはなれない。


「明日死ぬつもりはない」


フィアが黙る。


「来週も死ぬ予定はない」


「予定で決まるの?」


「決まらん」


「じゃあ駄目じゃん」


「そうだな」


また怒らせた。


フィアは袖で目の端を擦った。


「シャワルさん、怖くないの?」


その問いだけは、すぐに答えられなかった。


怖くないと言えば格好はつく。


七十四年生きた老人なら、死を静かに受け入れていてもおかしくないと誰かは思うかもしれない。


だが実際は違う。


「怖い時もある」


フィアが目を見開く。


「怖いの?」


「ああ」


「シャワルさんでも?」


「俺を何だと思ってる」


「最後を止める人」


「人間でもある」


シャワルは茶を一口飲んだ。


少し冷めていた。


「痛いのは嫌だ」


「うん」


「息ができなくなるのも嫌だな」


フィアは真面目に聞いている。


「オルドより先に死んだら、あいつが葬式で好き勝手言うだろうから、それも少し腹が立つ」


「そこ?」


「大事だ」


フィアの口元が少しだけ緩む。


シャワルも笑った。


「本も読めなくなる」


「……それは嫌そう」


「嫌だな」


一巻。

二巻。

三巻。


何度読んでも構わない本が、まだ十一冊ある。


新しい本だって世の中には出続ける。


死ねば、もうどれも開けない。


朝に茶を飲むこともない。


オルドとくだらない言い争いをすることもない。


フィアが突然家へ来て質問を始めることもない。


それらが全部無くなると考えれば、嫌だった。


「じゃあ」


フィアが言う。


「そんなに嫌なら、死ぬの嫌じゃん」


「嫌だぞ」


「でもさっき普通に話してた」


「嫌だから起きないことになるわけじゃない」


フィアは黙った。


シャワルは机の上の死亡通知を見る。


「怖いことと、起きないことにするのは別だ」


誰かが死んだ。


寂しい。


嫌だ。


会いたかった。


それでも、その人がまだ生きていることにはできない。


自分が死ぬのも怖い。


できれば痛くない方がいい。


できればまだ先がいい。


それでも永遠に来ないことにはできない。


フィアの顔はまだ晴れない。


「受け入れないと駄目なの?」


「それも知らん」


「え?」


「死ぬ時に俺がどう思うかなんて、今の俺には分からん」


「怖くて嫌だって言うかもしれない?」


「言うかもしれん」


「泣く?」


「それもあるかもな」


「逃げたいって思う?」


「思うかもしれん」


フィアが少し驚いた顔をする。


「格好悪い?」


シャワルが尋ねる。


少女はすぐ首を振った。


「別に」


「ならそれでいい」


死ぬ間際まで今と同じ考えでいる保証もない。


怖くなって取り乱すかもしれない。


誰かにそばへいてほしいと頼むかもしれない。


それはその時の自分に任せればいい。


生きている今から、立派な死に方まで決めておく気はなかった。


フィアは第七巻の表紙を指で撫でた。


「でも」


「何だ」


「本は?」


嫌なところへ戻ってきた。


「本がどうした」


「最後」


フィアがじっとシャワルを見る。


「人が死ぬのは、嫌でも起きるから、起きないことにしないんでしょ」


「だいたいな」


「じゃあ『風見鶏の街道』は?」


シャワルは答えなかった。


フィアが続ける。


「もう最後あるよ」


「ああ」


「作者さんが書いた」


「ああ」


「セルマがどうなるかも、ちゃんと決まってる」


「そうだな」


「なのにシャワルさんだけ読まない」


「ああ」


「起きたことを、起きてないことにしてない?」


シャワルは少し考えた。


鋭い。


以前のフィアなら、単に「読めばいいのに」で終わっていた。


今は、シャワル自身が言ったこととの違いを見つけている。


「してない」


「なんで?」


「本が終わったことは知ってる」


「でも最後は知らない」


「俺が知らないだけだ」


「それが違うの?」


「ああ」


シャワルは机の上に置かれた第七巻を見る。


「俺が十二巻を読まなくても、本の最後は消えん。フィアは知ってる。作者も書いた。ほかにも読んだ奴は山ほどいる」


「うん」


「俺が自分のところまで持ってこないだけだ」


フィアはしばらく考えた。


「じゃあ、人の死は?」


「俺が見なければ死んでない、とはならんだろ」


「うん」


「葬式へ行かなければ、あいつが生きてることにもならん」


シャワルは黒い上着を見る。


「だから明日は行く」


フィアは黙る。


シャワルは続けなかった。


これ以上言葉を重ねれば、正しい生き方を教えているようになってしまう。


自分のやり方は、自分のものだ。


ただ一冊だけ、最後を受け取らない。


それを他の何にまで広げる気もない。


「本の最後は?」


しばらくしてフィアがもう一度尋ねた。


「それは別だ」


「ずるい」


「そうだな」


即答すると、フィアが目を丸くした。


「認めるの?」


「何が」


「ずるいって」


「別に公平な生き方をしてるつもりはない」


「自分だけ?」


「自分だけ」


「わたしが同じことしたら?」


「好きにしろ」


「十二巻読んだけど」


「知ってる」


フィアはとうとう笑った。


涙の跡はまだ少し残っている。


「変なの」


「知ってる」


「ずるいし」


「それも今聞いた」


「頑固」


「オルドにも言われる」


「じゃあ本当だ」


「二対一で決めるな」


笑いが戻った。


それから二人で七巻の話をした。


フィアが好きなセド・レイカーは、値切る時だけ妙に強気なくせに、宿の主人から睨まれるとすぐ引き下がる。


シャワルはそこを「弱い」と言い、フィアは「賢い」と言った。


意見は最後まで合わなかった。


それでも、同じ本の同じ人物について別々に笑えた。


夕方近くになり、フィアが帰る支度を始めた。


玄関で靴を履きながら、もう一度シャワルを見る。


「明日、葬式行くんだよね」


「ああ」


「ちゃんと帰ってくる?」


「葬式から?」


「うん」


「帰ってくる」


今度は約束できた。


明日の予定なら、よほどのことがなければ守れる。


フィアは少し安心したように頷いた。


「じゃあ、その次は?」


「何が」


「明後日」


「予定はない」


「じゃあ生きてる?」


「そのつもりだ」


少女が眉を寄せる。


「言い方」


「難しい注文だな」


フィアは考え、それから言った。


「じゃあ、また来る」


「ああ」


「それなら予定になるでしょ」


シャワルは少し笑った。


「そうだな」


「明後日来るから」


「菓子はないぞ」


「持ってくる」


「なら待ってる」


ようやく満足したらしい。


フィアは手を振って帰っていった。


翌朝。


シャワルは黒い上着を着た。


鏡の前で襟を直す。


似合っているとは思わない。


葬儀用の服が似合うようになりたいとも思わなかった。


机には『風見鶏の街道』第七巻が置いてある。


昨日フィアが話していた場面を、夜に少し読み返した。


地下には十二巻がある。


そちらは今日も開かない。


シャワルは玄関で靴を履き、家を出た。


亡くなった男の葬儀へ向かう。


最後を見たくないからといって、会った人間の別れまで見ない理由にはならなかった。


黒い服の背を、朝の風が静かに押した。

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