↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/31

棺へ入れる本

「そこに名前を書け」


「嫌だ」


「子供か」


「七十五だ」


シャワルは机の向こうに座るオルドを見た。


数日前、自分が似たようなことを言った気がする。


窓の外はよく晴れていた。


昼前の光が居間へ入り、机の上に広げた数枚の書類を照らしている。


どれも特別なものではない。


家の扱い。

残った金銭。

仕事関係の記録。

死亡した場合の連絡先。


前線常駐を外れたことをきっかけに、長いこと放置していた身辺書類を整理し直しただけだった。


その最後の一枚だけを、オルドが睨んでいる。


「俺はな」


オルドが太い指で紙を叩く。


「お前の家の手すりを付けるためなら名前でも何でも書く」


「手すりに署名はいらん」


「黙れ。今いいこと言ってる」


「続けろ」


「でも、自分の名前の横に『シャワル・ミレイス死亡時』なんて書いてある紙へ署名するのは嫌だ」


シャワルは紙を見る。


確かに書いてある。


その下には、死亡後の手続きを任せる者としてオルドの名前を記入する欄があった。


「死ななかったら使わん」


「当たり前だ!」


「なら問題ないだろ」


「ある!」


声が大きい。


シャワルは茶を飲んだ。


朝からこれで三度目のやり取りだった。


オルドは内容そのものに反対しているわけではない。


それは分かっている。


自宅の地下にある金庫。


予備鍵。


中にある『風見鶏の街道』第十二巻。


自分が死んだら、それを開かずに棺へ入れる。


そこまではすでに何度も話している。


オルド自身が予備鍵を持っている。


それでも、紙へ書くとなると別らしい。


「何で急にこんなもん書き始めた」


「急じゃない」


「この前まで何十年も書いてなかっただろ」


「仕事の書類を更新しろと言われた」


「仕事は仕事だ。これは葬式だ」


「ついでだ」


オルドの顔が引きつった。


「自分の葬式をついでで決めるな」


「別の日にやる方が面倒だろ」


「そういう問題じゃねえ」


シャワルは少し考えた。


「じゃあ何の問題だ」


オルドが黙った。


答えを持っていなかったらしい。


あるいは、言いたくなかったのかもしれない。


窓の外から、荷車の音が聞こえる。


近所の家では洗濯物が風に揺れていた。


特別な日ではない。


シャワルも、今日死ぬ予定はない。


身体は少し疲れやすくなったが、朝食も食べた。

階段も自分で上り下りできる。昨日は『風見鶏の街道』第四巻を半分ほど読んだ。


今日の午後も続きを読むつもりだった。


だからこそ、今やっておけばいいと思った。


「俺が死んだ後、お前に考えさせたくない」


オルドの目がこちらを向く。


「何を」


「十二巻をどうするか」


「聞いてる」


「口でな」


シャワルは紙を指した。


「お前が棺の前に立った時、俺はもう何も言わん」


「……そうだな」


「その時になって、本当にこれでいいのかと考えるだろ」


オルドは返事をしなかった。


シャワルには分かった。


たぶん考える。


何十年も読まなかった本。


もう死んでいるのだから、開いても本人には分からない。


中身を確認してから入れてもいいのではないか。


もっと別の場所に残した方がいいのではないか。


燃やしたり埋めたりするのは惜しくないか。


親友なら、そのくらい迷うかもしれない。


「決めるのは俺だ」


シャワルは言った。


「だから書いておく」


オルドが紙を見る。


「お前に決めさせるのは、頼んだことを実行するかどうかだけでいい」


「それが一番嫌なんだよ」


「何が」


「棺へ本を入れるところまで俺にやらせることだ」


シャワルは少し黙った。


そこは考えたことがなかった。


自分にとっては単純な手順だ。


死ぬ。

オルドが金庫を開ける。

本を取り出す。

棺へ入れる。


けれど実際にその場へ立つのは、自分ではない。


「他の奴にするか」


「そういう意味じゃねえ!」


即座に怒鳴られた。


「じゃあどういう意味だ」


「俺がやる」


「なら名前を書け」


「だから嫌なんだよ!」


話が戻った。


シャワルは思わず笑った。


オルドが睨む。


「笑うな」


「悪い」


「全然悪そうじゃねえ」


「話が進まんからな」


「お前のせいだ」


オルドは椅子へ深く座り直した。


しばらく紙を見ていたが、まだ筆は持たない。


机の端には別の紙があった。


シャワル自身の持ち物を書き出したものだ。


大した財産はない。


家。

多少の金。

昔使っていた仕事道具。

事故記録の写し。

本。


オルドがそれを引き寄せる。


「一巻から十一巻は?」


「まだ決めてない」


「決めてない?」


「ああ」


「十二だけ決まってるのか」


「十二は俺と一緒だ」


「十一までは」


「死ぬまで読む」


返事は早かった。


オルドは呆れたような顔になる。


「死んだ後の話をしてる」


「その時に考える」


「死んでるだろ」


「お前が」


「結局俺かよ!」


また声が響いた。


シャワルは少し笑いながら、一巻から十一巻のことを考えた。


誰かへ渡してもいい。


図書館へ寄贈してもいい。


オルドが処分しても構わない。


もっとも、簡単に捨てられたら少し腹は立つ。


「まあ、読んでくれる奴がいれば渡してもいい」


「誰か決めとけ」


「そのうちな」


フィアの顔が少しだけ浮かんだ。


最近、この家へ来るたび本の話をするようになった少女。


十二巻まで読み終えた後も、今度は七巻を借り直したらしい。


けれど、まだ決める必要はない。


あの十一冊は今も自分が読む本だ。


死後の所有者を決めるより、今夜読む巻を決める方が先だった。


オルドは書類の別の部分を読む。


「仕事道具は」


「使える物は現役へ回せ」


「古い物ばっかりだぞ」


「使えないなら捨てろ」


「お前、本と扱い違いすぎないか」


「道具は使う物だ」


「本も読んでるだろ」


「だから読めなくなったら直してる」


「そういうところだけ筋が通ってるな」


「だけとは何だ」


オルドは紙を置いた。


視線が地下へ続く廊下の方へ向く。


その先には金庫がある。


「なあ」


「何だ」


「十二巻、俺が預かっとくか」


シャワルは少しだけ眉を上げた。


「何で」


「どうせ読まないんだろ」


「ああ」


「だったら俺の家に置いといても同じだ」


「嫌だ」


また即答だった。


オルドが振り返る。


「何でだよ」


「俺の本だから」


「子供か!」


「七十四だ」


「その返し何回やるんだ」


シャワルは少し笑った。


だが、本を渡すつもりはなかった。


オルドなら開かない。


約束を破る男ではない。


それでも違う。


「読まないためには、そこにあってくれないと困る」


オルドが黙った。


シャワルは地下の方を見る。


「無くしたいわけじゃない」


「読まないのに?」


「ああ」


「何が違う」


「作者は最後を書いた」


「それは知ってる」


「その最後は、ちゃんとあっていい」


シャワルは茶の残りを一口飲んだ。


「俺が読まないだけだ」


本が燃えてしまえばいいとは思わない。


誰かが盗んで永遠に失われれば、むしろ腹が立つ。


作者が書いた最後を否定したいわけではない。


あの物語には、ちゃんと最後の一冊がある。


世界中の誰かは読んでいる。


フィアも読んだ。


それでいい。


ただ自分だけが、その頁を開かない。


「面倒な好き方だな」


オルドが言う。


「そうかもな」


「そこまで好きなら読めって普通は言うぞ」


「お前も昔から言ってる」


「聞かねえから諦めた」


「助かる」


「褒めてねえ」


シャワルは笑った。


オルドは十二巻の記載をもう一度読む。


『未開封のまま棺へ納めること』


簡単な一文だった。


セルマの名前もない。


なぜ読まないのかも書いていない。


必要がないからだ。


これは自分の思想を後世へ説明する文章ではない。


ただ、死後にどうしてほしいかを書いただけだ。


「火葬なら?」


オルドが尋ねた。


「一緒に焼け」


「土なら」


「一緒に埋めろ」


「本がもったいないとは思わんのか」


「思う奴は新しい十二巻を買え」


「お前のは」


「俺のだから一緒に行く」


「十一冊は置いてくのに」


「十二だけはな」


オルドはしばらく紙を見ていた。


「分からんな」


「分からなくていい」


「フィアと同じこと言われてる気分だ」


「お前は七十五だろ」


「歳の問題じゃねえ」


「そうだな」


シャワルは無理に理解させる気はなかった。


何十年付き合ってきたオルドですら、完全には分からない。


それで困ったこともない。


理解できなくても、約束は守れる。


自分だってオルドの全部を理解しているわけではない。


それでも親友ではいられる。


オルドが突然立ち上がった。


「紙もう一枚あるか」


「何に使う」


「俺も書く」


シャワルは一瞬意味が分からなかった。


「何を」


「遺言だよ」


「急だな」


「お前が言うな!」


棚から紙を出す。


オルドは机へ戻ると、筆を取った。


「家は娘に任せる」


「お前、娘いたな」


「いるよ!」


「知ってる」


「今一瞬忘れてただろ」


「冗談だ」


「お前の冗談分かりづらいんだよ」


ぶつぶつ言いながら、オルドは書き始める。


家。

工具。

昔の設計記録。


途中で手が止まった。


「この工具箱どうするかな」


「弟子にやれ」


「誰に」


「一番欲しがる奴」


「三人いる」


「じゃんけん」


「遺産をじゃんけんで決めるな」


「なら三つに分けろ」


「工具を均等に分けられるか」


さっきまでシャワルの遺言へ文句を言っていた男が、自分の遺品で悩み始める。


今度はシャワルが横から口を出す番だった。


「腰の支えは」


「捨てろ」


「一緒に棺へ入れるか」


「絶対嫌だ」


「世話になっただろ」


「死んでまで巻きたくねえ」


「なら書いとけ」


オルドが睨み、それから吹き出した。


シャワルも笑う。


二人で紙を書く。


たったそれだけの午後になった。


死ぬ話をしているはずなのに、暗くはなかった。


誰へ何を残すか。


何を捨てていいか。


何を絶対に捨てるなと言うか。


あれこれ話しているうちに、昼を過ぎた。


「腹減った」


オルドが言う。


「死ぬ準備してる最中に腹減るな」


「生きてるからな」


シャワルはその言葉に少し笑った。


「そうだな」


台所へ立つ。


昨日のパンが残っている。


卵もある。


オルドが後ろからついてきた。


「俺の分も」


「自分で作れ」


「客だぞ」


「勝手に来た」


「遺言の証人だ」


「まだ署名してない」


「細かいな」


「書く気になったか」


オルドは返事をしなかった。


昼食を終え、茶を淹れ直す。


机の上には二人分の遺言が並んでいる。


オルドは自分の方へ先に署名した。


それからシャワルの紙を引き寄せる。


筆を持つ。


今度は、長く止まらなかった。


オルド・ヴァレン。


太い字で名前が書かれる。


シャワルはそれを見る。


「やっと書いたな」


「気が変わったら言え」


「何が」


「十二巻」


「変わらん」


「まだ分からんだろ」


「分かる」


「死ぬ間際でも?」


以前なら、ここでまた同じやり取りになっていただろう。


シャワルは少し考えた。


「その時に俺が違うことを言ったら、その時の俺に従え」


オルドが顔を上げる。


「いいのか」


「ああ」


「じゃあ読むって言うかもしれない」


「言わんと思うが」


シャワルは紙を見る。


「遺言は、死んだ俺が生きてる俺へ命令するためのものじゃない」


まだ生きている。


その時になれば、その時の自分が決める。


ただ、今の自分の答えは決まっていた。


「何も言えないまま死んだ時は、ここに書いた通りで頼む」


オルドはしばらく黙っていた。


それから頷く。


「ああ」


今度の返事には、冗談も文句もなかった。


シャワルも、それ以上何も言わなかった。


書類をまとめる。


必要な一枚は決めた場所へしまった。


オルドが持つ予備鍵も確認する。


それで終わりだった。


「じゃあ帰る」


「自分の遺言忘れるな」


「持って帰る」


「工具のじゃんけんも書いとけ」


「書くか!」


玄関まで見送る。


オルドは靴を履き、扉を開けた。


外へ出る直前に振り返る。


「シャワル」


「何だ」


「明日は何する」


妙な質問だった。


「明日?」


「予定」


シャワルは考える。


仕事の呼び出しは今のところない。


保守班は供給側の調査中。


フィアが来るとも聞いていない。


「本屋へ行く」


「本買うのか」


「補修紙が切れそうだ」


「本屋じゃなくて文具屋だろ」


「ついでに本も見る」


オルドは少しだけ笑った。


「そうか」


「ああ」


「じゃあまたな」


扉が閉じた。


家の中が静かになる。


机の上には、自分の死後について書いた紙はもうない。


しまったからだ。


地下には、十二巻がある。


今日も開いていない。


シャワルは本棚の前へ行った。


一巻から十一巻までを眺める。


どれにするか少し迷い、第六巻を抜いた。


椅子へ座る。


眼鏡を掛ける。


頁を開いた。


棺へ入れる本は、もう決めた。


けれど、それはまだ先の仕事だった。


今読む本は、第六巻だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。