第02話:断ち切った過去、繋ぎ止めた未来 / SEVERED BONDS
やがて、母は横たわったまま動けなくなった。
湿った寝床に沈む彼女の体からは、かつての陽だまりのような匂いは消え失せ、代わりに焦げ付いたオイルと、鉄が雨に打たれたような金属臭が漂い始めていた。
自分の背丈ほどもある重い水瓶を運び、震える小さな手で母の額を拭う妹。
その健気な看病の姿を見るたび、ヤマトの胸は引き裂かれるような痛みに支配された。
何もできない無力さが、酸性雨のように、じわじわと彼の心を溶かしていく。
(……俺が、なんとかしなきゃいけないんだ)
ヤマトは夜明け前から街へ飛び出した。
スリ、運び屋、汚物の清掃。
小銭になるなら魂だって売る。
かつて父が命を落とした炭鉱の跡地へ行き、荒くれ者の大人に混じって重い瓦礫を運び続けた。
「……坊主、いい根性してるじゃねえか。明日から炭鉱の下層で働いてみるか? 俺からお上に言っといてやるよ」
大人と同じ過酷な仕事。
それは、母に高価な薬を買い、妹に腹一杯の飯を食わせるための「力」を手に入れるチャンスだった。
翌日。
ヤマトは坑夫に連れられ、炭鉱の管理事務所を訪れた。
煤けた鉄格子の向こう側で、役人が汚れた紙切れを無造作に差し出す。
新品の厚い手袋だけが、周囲から不自然なほど浮いていた。
「今日からお前は『これ』だ。私から上に口添えしてやったのだ。お前のようなガキに、若い番号の労働枠が与えられることを、ありがたく思え」
『08』。
少年の「個」は記号に塗り潰され、高天原という巨大なシステムを維持するための、ただの「部品」へと成り下がった。
労働枠を与えられた帰り道。
ヤマトは家路を急ぐ途中、ゴミ捨て場の汚泥の中で、「花の形」をした、安っぽい飾りを見つけた。
(あいつ、喜ぶかな)
泥だらけの顔に、場違いな微笑みが浮かぶ。
しかし、その微かな幸福は、自宅の扉を開けた瞬間に打ち砕かれた。
「お母さん! お母さん、おきてよぉ!!」
妹の絶叫。
背中が粟立ったヤマトは、泥だらけのまま母の枕元へ滑り込んだ。
母の瞳は虚空を彷徨い、何かを伝えようと唇を震わせる。
「お袋……! 今、薬を買ってくるから……俺、仕事が決まったんだ、だから……!」
ヤマトは必死に耳を母の口元へ寄せた。
だが、僅かに上がった口角から漏れ出したのは、言葉ではなかった。
──ギギ、ギギギ……ッ。
金属が擦れ合う、冷たく不気味な軋み音。
鉱血症は、ついに母の慈愛に満ちた声帯までも、|無機質な鉄へと変えてしまったのだ。
──それが、母がこの世に残した最期の「音」だった。
母は二度と動かなくなった。
狭い部屋に、妹の泣き叫ぶ声だけが虚しく反響する。
ヤマトは叫びたかった。
泣き崩れたかった。
けれど、自分の腕の中には、震えが止まらない小さな命があった。
「……なあ。見てみろ、これ」
ヤマトは溢れそうになる涙を喉の奥へ強引に押し込み、ポケットからあの飾りを取り出した。
「うっ、うっ……なあに、これ……?」
「花飾りだ。……お前にやるよ」
震える手で、妹の指にそれを握らせる。
「俺さ、仕事が決まったんだ。これからは、俺が……俺が絶対に、お前を守る」
「…………うん」
「それと……今日から、お前の名前は『サクラ』だ」
「サクラ? なあに、それ」
ヤマトは、かつて父が一度だけ話してくれた、遠い昔の物語を思い出した。
かつてこの世界が灰色に染まる前、春という季節に咲き誇っていたという伝説の花。
「世界で一番綺麗で、みんなを幸せにする花の名前だ」
「……みんなが、しあわせになれるの? ほんとに?」
「ああ。いつか、俺が、本物を見せてやる。……だから、もう泣くな」
サクラの頭に、父がヤマトにそうしてくれたように、そっと手を添える。
すると、涙を溜めたままの妹に、壊れそうなほどの小さな笑顔が戻った。
ヤマトはその時、確信した。
この笑顔こそが、自分がこの地獄を生き抜く唯一の理由なのだと。
その瞬間、ヤマトは自分の中の「子供」を殺した。
(絶対に守り通す。俺が、この世界のすべてを抉じ開けてでも……!)
その日、少年の瞳に宿ったのは、天上界への憧れではない。
地獄の底から「光」を強奪するための、狂気じみた執念だった。
それからの毎日、ヤマトは大人に混じり、父が命を落とした炭鉱の近くで、細い腕で泥にまみれた岩を運び続けた。
配給されるのは、石のように硬く、カビ臭いパンが一つ。
ヤマトはその端を一度だけ齧ると、残りを汚れた布で包み、大切にポケットに押し込んだ。
(サクラに、食べさせてやりたい)
その一念だけが、彼の肺に冷たい蒸気を送り込む唯一の燃料だった。
だが、運命という名の神は、下界の民に安息など許さない。
ある日、作業中に足元から不気味な「声」が響いた。
地層が悲鳴を上げ、金属の配管がねじ切れる断末魔。
「な、なんだ……!?」
逃げる間もなかった。
轟音と共に頭上の世界が崩れ落ち、ヤマトの意識は一瞬で暗闇に塗り潰された。
どれほどの時間が経っただろうか。
重い沈黙の中で意識を取り戻したヤマトを、脳を直接灼くような激痛が襲う。
「ぐっ……あ、……あぁ……!」
霞む視界の先、落下してきた巨大な岩盤の下に、自分の右腕が根元から無残に押し潰されていた。
引き抜こうとしても、岩はびくともしない。
叫んでも、誰の応答もない。
暗闇の中で、自分の温かい血が冷たい大地に吸い取られていく音が聞こえる。
(……ここで、終わるのか?)
意識が遠のく中、脳裏にサクラの壊れそうな笑顔が浮かんだ。
母の死を目の当たりにし、震えの止まらない体。
救いのない暗闇の中、彼女にとっての唯一の光は、自分という存在だけなのだ。
(──死ねない。俺が死んだら、あいつは……一人で、暗闇に取り残される……!)
ヤマトは残された左手で、瓦礫の中に落ちていた鋭利な鉄板を掴んだ。
荒い呼吸。
凍てつくような決意。
その瞳には、子供のそれとは思えない、理不尽な世界への「殺意」が宿っていた。
「う……ぐぅ……おおおあああああッ!!」
暗闇の底で、肉を断ち、骨を砕く凄まじい音が響く。
ヤマトは、自分を地べたに繋ぎ止めていた右腕を、自ら肩から力任せに切り落とした。
溢れ出す鮮血。
崩れ落ちそうになる意識を、怒りだけで繋ぎ止める。
──その時だった。
ヤマトの身体の奥底で、心臓とは異なる、重く濁った脈動が響いた。
血を失い、凍りついていくはずの身体が、突如として内側から灼けるような熱を帯び始める。
右肩から噴き出していた血が、何かに噛み締められたかのように勢いを失っていった。
千切れた血管が、不自然に収縮している。
それでも血は止まらない。
痛みも消えない。
(……死ねない)
それが自分の意志なのか。
それとも、自分ではない何者かの執念なのか。
幼いヤマトに、それを知る術はなかった。
視界の端に、瓦礫の下で物言わぬ骸となった坑夫が見えた。
ヤマトは這うようにしてその死体へ近づくと、震える左手と歯を使い、死者が纏っていたボロ布を力任せに引き剥がした。
死者の冷たさが残る布を右肩の切断面へ強く押し当て、残った左手と歯で、限界まで固く縛り上げる。
「こんなところで……死ねるかよ……!」
血の跡を引きずりながら、少年は崩落した炭鉱の闇をヨロヨロと這い始めた。
ようやく辿り着いた地上で見上げた空には、淀んだ重油色の雲が広がっているだけだった。
自宅に戻ると、サクラは兄の帰りを待ちきれずに、冷たい床の上で眠りに落ちていた。
(……ごめんな。すぐ、戻るから)
その無垢な寝顔を守るためなら、失った腕の代わりに何を繋ごうと構わない。
ヤマトは最後の「人間らしい形」に固執することを捨てた。
ヤマトは隣人のもとへ這いずり、震える手で、サクラのためにとポケットに守り通したカビたパンを差し出し、床に額を擦り付けながら懇願した。
「……頼む。これしかないんだ……。あいつを、サクラをほんの少しの間、見ていてくれ……!」
自らの飢えを凌ぐためのものではなく、愛する妹のために守り通した唯一の糧。
それさえも迷わず差し出し、土下座してまで頭を下げる少年の凄まじい気迫に、隣人は圧倒されながらも頷いた。
ヤマトは壁に肩を預けながら立ち上がり、よろめく足でスラムの闇へと歩き出した。
失われた右腕で、どうやってサクラを養う。
どうやってこの地獄から這い上がる。
ヤマトの脳裏を過ったのは、下層都市の闇市に流通すると聞く鉄の腕──「ジャンク・ドライブ」だった。
当然、子供が手に入れられる代物ではない。
ヤマトは闇に潜り、市場の影で、管理が甘い中古品をその命を削るような執念で盗み出した。
スリでコツコツと積み上げた金と、重い鉄の腕を手に、ヤマトは街外れの闇医者の扉を蹴り開ける。
「……構わないが、手術は地獄だぞ。神経を直接繋ぐんだ。途中でショック死しても、俺は知らねえぜ」
闇医者の冷酷な警告に、ヤマトはただ血走った瞳で言い放った。
「……いいから、早くやれ」
麻酔などという贅沢品は存在しない。
肉を裂き、剥き出しの神経に神経釘をねじ込む、拷問のような処置。
「がぁぁああああああッ!!」
叫び声が喉の奥で潰れる。
歯を食いしばり、口の端から鉄の味が溢れる。
だが、意識が飛びそうになるたびに、彼は自分に呪文をかけた。
サクラの笑顔、母の軋む声、父の温かな背中。
(負けてたまるか……俺が……俺があいつを守るんだ……!)
その凄まじい執念に、スラムの修羅場を見続けてきた闇医者さえも背筋を凍らせた。
数日間の高熱の果て、ヤマトが目を開けた時、右肩には自分の肉ではない、冷たく重い質感が宿っていた。
「……これが、俺の新しい腕か」
鈍い銀色を放つ「鉄の義手」。
その装甲の肩部分に、無機質な刻印があることに気付いた。
盗み出す時には必死で見逃していた記号。
『UNIT-08』
義手の肩に刻まれた文字を、生身の左手でなぞる。
かつて役人から投げ渡された紙切れと、寸分違わぬ番号。
「……そうか。俺はどこまでいっても、ただの『八番目の部品』ってわけだ」
単なる偶然か。
それとも、逃れられない何かが、この腕を自分のもとへ引き寄せたのか。
幼いヤマトに、それを知る術はなかった。
ただ一つ、少年の冷徹な理性が理解したのは、この一致が生き残るための武器になるということだった。
管理番号「08」の労働者が、同じ番号を刻まれた腕をつけている。
これなら盗品だと疑われても、正式な支給品だと言い張れる。
「上等だ」
ヤマトは鈍く光る鉄の拳を、ゆっくりと握り締めた。
「部品だっていうなら、この腕で世界の心臓をぶち抜いてやる」




