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【断章-01】紅の断罪者、遠き日の残火 / BLEEDING VERDICT  作者: 星乃ふみ


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第02話:断ち切った過去、繋ぎ止めた未来 / SEVERED BONDS

 やがて、母は横たわったまま動けなくなった。


 湿った寝床に沈む彼女の体からは、かつての陽だまりのような匂いは消え失せ、代わりに焦げ付いたオイルと、鉄が雨に打たれたような金属臭が漂い始めていた。


 自分の背丈ほどもある重い水瓶を運び、震える小さな手で母の額を拭う妹。

 その健気な看病の姿を見るたび、ヤマトの胸は引き裂かれるような痛みに支配された。

 何もできない無力さが、酸性雨のように、じわじわと彼の心を溶かしていく。


(……俺が、なんとかしなきゃいけないんだ)


 ヤマトは夜明け前から街へ飛び出した。


 スリ、運び屋、汚物の清掃。

 小銭になるなら魂だって売る。


 かつて父が命を落とした炭鉱の跡地へ行き、荒くれ者の大人に混じって重い瓦礫を運び続けた。


「……坊主、いい根性してるじゃねえか。明日から炭鉱の下層で働いてみるか? 俺からお上(かみ)に言っといてやるよ」


 大人と同じ過酷な仕事。

 それは、母に高価な薬を買い、妹に腹一杯の飯を食わせるための「力」を手に入れるチャンスだった。



 翌日。

 ヤマトは坑夫に連れられ、炭鉱の管理事務所を訪れた。


 煤けた鉄格子の向こう側で、役人が汚れた紙切れを無造作に差し出す。

 新品の厚い手袋だけが、周囲から不自然なほど浮いていた。


「今日からお前は『これ』だ。私から上に口添えしてやったのだ。お前のようなガキに、若い番号の労働枠が与えられることを、ありがたく思え」


『08』。

 少年の「個」は記号に塗り潰され、高天原(たかまがはら)という巨大なシステムを維持するための、ただの「部品」へと成り下がった。


 労働枠を与えられた帰り道。

 ヤマトは家路を急ぐ途中、ゴミ捨て場の汚泥(おでい)の中で、「花の形」をした、安っぽい飾りを見つけた。


(あいつ、喜ぶかな)


 泥だらけの顔に、場違いな微笑みが浮かぶ。

 しかし、その微かな幸福は、自宅の扉を開けた瞬間に打ち砕かれた。


「お母さん! お母さん、おきてよぉ!!」


 妹の絶叫。

 背中が粟立ったヤマトは、泥だらけのまま母の枕元へ滑り込んだ。

 母の瞳は虚空(こくう)を彷徨(さまよ)い、何かを伝えようと唇を震わせる。


「お袋……! 今、薬を買ってくるから……俺、仕事が決まったんだ、だから……!」


 ヤマトは必死に耳を母の口元へ寄せた。

 だが、僅かに上がった口角から漏れ出したのは、言葉ではなかった。



 ──ギギ、ギギギ……ッ。



 金属が擦れ合う、冷たく不気味な軋(きし)み音。

 鉱血症は、ついに母の慈愛(じあい)に満ちた声帯(せいたい)までも、|無機質な鉄へと変えてしまったのだ。

 

 ──それが、母がこの世に残した最期の「音」だった。


 母は二度と動かなくなった。

 狭い部屋に、妹の泣き叫ぶ声だけが虚しく反響する。


 ヤマトは叫びたかった。

 泣き崩れたかった。

 けれど、自分の腕の中には、震えが止まらない小さな命があった。


「……なあ。見てみろ、これ」


 ヤマトは溢れそうになる涙を喉の奥へ強引に押し込み、ポケットからあの飾りを取り出した。


「うっ、うっ……なあに、これ……?」

「花飾りだ。……お前にやるよ」


 震える手で、妹の指にそれを握らせる。


「俺さ、仕事が決まったんだ。これからは、俺が……俺が絶対に、お前を守る」

「…………うん」

「それと……今日から、お前の名前は『サクラ』だ」

「サクラ? なあに、それ」


 ヤマトは、かつて父が一度だけ話してくれた、遠い昔の物語を思い出した。

 かつてこの世界が灰色に染まる前、春という季節に咲き誇っていたという伝説の花。


「世界で一番綺麗で、みんなを幸せにする花の名前だ」

「……みんなが、しあわせになれるの? ほんとに?」

「ああ。いつか、俺が、本物を見せてやる。……だから、もう泣くな」


 サクラの頭に、父がヤマトにそうしてくれたように、そっと手を添える。

 すると、涙を溜めたままの妹に、壊れそうなほどの小さな笑顔が戻った。


 ヤマトはその時、確信した。

 この笑顔こそが、自分がこの地獄を生き抜く唯一の理由なのだと。


 その瞬間、ヤマトは自分の中の「子供」を殺した。


(絶対に守り通す。俺が、この世界のすべてを抉(こ)じ開けてでも……!)


 その日、少年の瞳に宿ったのは、天上界への憧れではない。

 地獄の底から「光」を強奪するための、狂気じみた執念(しゅうねん)だった。


 それからの毎日、ヤマトは大人に混じり、父が命を落とした炭鉱の近くで、細い腕で泥にまみれた岩を運び続けた。


 配給(はいきゅう)されるのは、石のように硬く、カビ臭いパンが一つ。

 ヤマトはその端を一度だけ齧(かじ)ると、残りを汚れた布(ぬの)で包み、大切にポケットに押し込んだ。


(サクラに、食べさせてやりたい)


 その一念だけが、彼の肺に冷たい蒸気(じょうき)を送り込む唯一の燃料だった。

 だが、運命という名の神は、下界(ハイヴ)の民に安息(あんそく)など許さない。


 ある日、作業中に足元から不気味な「声(こえ)」が響いた。

 地層(ちそう)が悲鳴を上げ、金属の配管(はいかん)がねじ切れる断末魔(だんまつま)。


「な、なんだ……!?」


 逃げる間もなかった。

 轟音(ごうおん)と共に頭上の世界が崩れ落ち、ヤマトの意識は一瞬で暗闇に塗り潰された。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 重い沈黙(しじま)の中で意識を取り戻したヤマトを、脳を直接灼(や)くような激痛(げきつう)が襲う。


「ぐっ……あ、……あぁ……!」


 霞む視界の先、落下してきた巨大な岩盤(がんばん)の下に、自分の右腕が根元から無残に押し潰されていた。


 引き抜こうとしても、岩はびくともしない。

 叫んでも、誰の応答もない。

 暗闇の中で、自分の温かい血が冷たい大地に吸い取られていく音が聞こえる。


(……ここで、終わるのか?)


 意識が遠のく中、脳裏にサクラの壊れそうな笑顔が浮かんだ。


 母の死を目の当たりにし、震えの止まらない体。

 救いのない暗闇の中、彼女にとっての唯一の光は、自分という存在だけなのだ。


(──死ねない。俺が死んだら、あいつは……一人で、暗闇に取り残される……!)


 ヤマトは残された左手で、瓦礫(がれき)の中に落ちていた鋭利(えいり)な鉄板(てっぱん)を掴んだ。


 荒い呼吸。

 凍てつくような決意。


 その瞳には、子供のそれとは思えない、理不尽な世界への「殺意(さつい)」が宿っていた。


「う……ぐぅ……おおおあああああッ!!」


 暗闇の底で、肉を断ち、骨を砕く凄まじい音が響く。


 ヤマトは、自分を地べたに繋ぎ止めていた右腕を、自ら肩から力任せ(ちからまかせ)に切り落とした。


 溢(あふ)れ出す鮮血(せんけつ)。

 崩れ落ちそうになる意識を、怒りだけで繋ぎ止める。


 ──その時だった。


 ヤマトの身体の奥底で、心臓とは異なる、重く濁った脈動が響いた。

 血を失い、凍りついていくはずの身体が、突如として内側から灼けるような熱を帯び始める。


 右肩から噴き出していた血が、何かに噛み締められたかのように勢いを失っていった。

 千切れた血管が、不自然に収縮している。


 それでも血は止まらない。

 痛みも消えない。


(……死ねない)


 それが自分の意志なのか。

 それとも、自分ではない何者かの執念なのか。


 幼いヤマトに、それを知る術はなかった。


 視界の端に、瓦礫の下で物言わぬ骸(むくろ)となった坑夫が見えた。

 ヤマトは這うようにしてその死体へ近づくと、震える左手と歯を使い、死者が纏っていたボロ布を力任せに引き剥がした。

 死者の冷たさが残る布を右肩の切断面へ強く押し当て、残った左手と歯で、限界まで固く縛り上げる。


「こんなところで……死ねるかよ……!」


 血の跡を引きずりながら、少年は崩落した炭鉱の闇をヨロヨロと這い始めた。


 ようやく辿り着いた地上で見上げた空には、淀(よど)んだ重油色の雲が広がっているだけだった。

 自宅に戻ると、サクラは兄の帰りを待ちきれずに、冷たい床の上で眠りに落ちていた。


(……ごめんな。すぐ、戻るから)


 その無垢な寝顔を守るためなら、失った腕の代わりに何を繋ごうと構わない。

 ヤマトは最後の「人間らしい形」に固執することを捨てた。


 ヤマトは隣人のもとへ這いずり、震える手で、サクラのためにとポケットに守り通したカビたパンを差し出し、床に額(ひたい)を擦(こす)り付けながら懇願(こんがん)した。


「……頼む。これしかないんだ……。あいつを、サクラをほんの少しの間、見ていてくれ……!」


 自らの飢えを凌ぐためのものではなく、愛する妹のために守り通した唯一の糧(かて)。

 それさえも迷わず差し出し、土下座(どげざ)してまで頭を下げる少年の凄まじい気迫に、隣人は圧倒されながらも頷いた。


 ヤマトは壁に肩を預けながら立ち上がり、よろめく足でスラムの闇へと歩き出した。


 失われた右腕で、どうやってサクラを養う。

 どうやってこの地獄から這い上がる。


 ヤマトの脳裏を過ったのは、下層都市(ハイヴ)の闇市に流通(りゅうつう)すると聞く鉄の腕──「ジャンク・ドライブ」だった。


 当然、子供が手に入れられる代物ではない。


 ヤマトは闇に潜り、市場(いちば)の影で、管理が甘い中古品(ちゅうこひん)をその命を削るような執念(しゅうねん)で盗み出した。

 スリでコツコツと積み上げた金と、重い鉄の腕を手に、ヤマトは街外れの闇医者(やみいしゃ)の扉を蹴り開ける。


「……構わないが、手術は地獄だぞ。神経を直接繋ぐんだ。途中でショック死しても、俺は知らねえぜ」


 闇医者の冷酷な警告に、ヤマトはただ血走った瞳で言い放った。


「……いいから、早くやれ」


 麻酔(ますい)などという贅沢品は存在しない。

 肉を裂き、剥き出しの神経に神経釘(ニューラル・スパイク)をねじ込む、拷問(ごうもん)のような処置。


「がぁぁああああああッ!!」


 叫び声が喉の奥で潰れる。

 歯を食いしばり、口の端から鉄の味が溢れる。

 だが、意識が飛びそうになるたびに、彼は自分に呪文(じゅもん)をかけた。


 サクラの笑顔、母の軋む声、父の温かな背中。


(負けてたまるか……俺が……俺があいつを守るんだ……!)


 その凄まじい執念に、スラムの修羅場を見続けてきた闇医者さえも背筋を凍らせた。


 数日間の高熱(こうねつ)の果て、ヤマトが目を開けた時、右肩には自分の肉ではない、冷たく重い質感が宿っていた。


「……これが、俺の新しい腕か」


 鈍い銀色を放つ「鉄の義手」。

 その装甲(プレート)の肩部分に、無機質な刻印があることに気付いた。

 盗み出す時には必死で見逃していた記号。


『UNIT-08』


 義手の肩に刻まれた文字を、生身の左手でなぞる。

 かつて役人から投げ渡された紙切れと、寸分違わぬ番号。


「……そうか。俺はどこまでいっても、ただの『八番目の部品』ってわけだ」


 単なる偶然か。

 それとも、逃れられない何かが、この腕を自分のもとへ引き寄せたのか。


 幼いヤマトに、それを知る術はなかった。


 ただ一つ、少年の冷徹な理性が理解したのは、この一致が生き残るための武器になるということだった。

 管理番号「08」の労働者が、同じ番号を刻まれた腕をつけている。

 これなら盗品だと疑われても、正式な支給品だと言い張れる。


「上等だ」


 ヤマトは鈍く光る鉄の拳を、ゆっくりと握り締めた。


「部品だっていうなら、この腕で世界の心臓をぶち抜いてやる」

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