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「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第2章 終わったはずの朝に、手帳は開かれる

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第8話 封蝋の下に、侯爵の名があった

 青い王宮台帳、革表紙の手帳、ル・グレイス家の借用書。


 3冊のように並べられた紙を見て、エリオット様は初めて黙った。


 王宮証言保全室は、今日も窓が少ない。壁一面の青い台帳が、柔らかな感情をすべて同じ厚さに整えている。薬光灯の白さが机を均等に照らし、紙の端に生まれた影だけが小さく揺れていた。昨日この部屋で、私の手帳は証拠ではないと告げられた。正しい判断だったのだろう。私の痛みは、私が書いたものにすぎない。


 けれど、痛みは場所を覚えている。


「第7回の夜会欠席。ジェフリー様は、クラウディア様の神殿祈祷に付き添うとおっしゃいました。時刻、午後7時3分」


 私は手帳の該当箇所を指先で押さえた。エリオット様の視線が借用書へ移る。翌日付で、神殿奉納費の支払い。名義はル・グレイス侯爵家。


「第5回。王立音楽院慈善夜会。欠席理由は発熱。ですが、その夜、クラウディア様の屋敷へ届けられた見舞い花の請求控えがございます。リオンの日誌にも、私が紅茶を3度替えた時刻が残っております」


「侍女日誌は補助資料扱いです」


「ええ。証拠ではなく、照合の補助ですわ」


 自分で言って、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 手帳は証拠ではない。けれど、無意味でもない。


 羽根ペンが、ようやく動いた。昨日閉じられた手帳が、今日は青い台帳の横で開かれている。エリオット様の袖口に付いた封蝋の粉が、灯の白さの中で小さく光った。


 照合は30分ほどかかった。手帳と借用書に、一箇所だけ日付のずれがある。第3回の欠席日と花代の支払いが2日分ずれていた。


「この差異は」


「花屋の納品が翌々日でございます。王都花街から届け先まで、馬車で半日はかかります。注文日と納品日の差でございます」


 昨夜、リオンが発注記録を一件一件確認してくれた。扉の外でセバスチャン様が清書様式を差し入れてから静かに離れるのを、気配で知っていた。3人で、同じ夜を整えていた。


 エリオット様の目が、台帳から私へ動いた。今まで証言者として見ていた目とは、わずかに角度が違った。


「照合記録として受理します」


 私は手帳の角を押さえていた指をゆっくり離した。



 ロベール様は部屋の隅に立っていた。


 整った顔立ちに、眠れない夜の疲れが滲んでいる。黒手袋の指を組み、侯爵家の封蝋付き借用書へ目を落としていた。敵家の次男。協力者。告発者。息子。どの名で呼べばよいのか、まだ分からない。


「ロベール様。署名欄を、確認してもよろしいですね」


 彼は目を伏せた。


 セバスチャン様は少し離れた位置に立ち、銀のステッキの握りを親指で一度だけ撫でた。口は開かない。その沈黙が、場をこちらへ渡している。


「封蝋の下にある名を」


 ロベール様の声は低く、廊下からの遠い光の中に消えそうだった。


「どうか私の口から言わせないでください、と申し上げるつもりでした」


 彼は黒手袋を外した。整った白い指が、署名欄の上からゆっくりと離れた。


 私は、彼が気の毒だと思った。この紙を抱えてここへ来るまでの夜、彼は家族の顔を一つ一つ思い浮かべていただろう。それは分かった。


 だが、気の毒だからといって、紙は消えない。


「兄だけではありません」


 一拍。ロベール様の喉が動いた。


「父も、署名しています」


 隠されていた署名欄が、台帳の上へ開かれた。ル・グレイス侯爵。署名の日付は、ジェフリー様が「余命2か月」を初めて口にした月の、3週間前だった。


 エリオット様の羽根ペンが、しばらく止まった。それから、低い声で「受領します」とだけ言って、書き継いだ。羽根ペンの先が侯爵の名を青い紙へ刻む音は、思ったより小さかった。


 ロベール様の顔から血の気が引いていた。唇が薄く開いて閉じる。黒手袋を外した指が、封筒の縁で折れかかっては戻る。あの仕草のままだった。


「ロベール様」


 慰めではない、と自分に言い聞かせながら口を開いた。


「正しいことをなさいました」


 嘘を優しさと呼ぶ者が正しいなら、この紙を持ってきた人間は、その何倍も正しい。それだけだ。


 彼は静かにうなずいた。顔は上げなかった。



 王宮回廊は冷たかった。


 証言保全室の退室後、夕刻の光が廊下の石床に斜めに差していた。回廊の奥から馬の蹄の音が遠く届き、衛兵交代の低い鐘が一度鳴る。空気の冷えが靴底から上がってくる。


 セバスチャン様は入室時と同じ位置で待っていた。長身の輪郭が逆光の中にある。銀のステッキが石床を一度鳴らした。


「お疲れです」


「いいえ」


「嘘です」


 返されて、私は少しだけ笑った。自分でも驚いた。


「疲れましたわ」


「知っています」


 彼は私の隣へ立った。1歩と少し分の距離がある。触れられない。触れない。


「次章以降、侯爵家が動きます。おそらく、あなたを標的にする」


「存じております」


「止めません」


 声の温度が、少しだけ変わった。灰色の目が、薬光灯の白より少し暗く、少し温かかった。


「止めたいですが。婚約者として、正直に」


 不器用な言い方だった。言い換えに失敗した時の彼に似ていた。


「隣に立ちます。医師としてではなく」


 私は一拍置いて、半歩だけ彼の方へ寄った。


 面会記録の距離には届かない。けれど、縮めようとした。


 銀のステッキが石床を一度だけ鳴らす。触れない距離で、私たちは初めて並んだ。


 ジェフリー様の「余命2か月」があの夜から、私はずっと一人で数えてきたつもりだった。手帳の角を押さえて、夜会の壁際で、記録することで壊れないようにして。


 たぶん、そうではなかった。


 衛兵の靴音が、規則正しく回廊の奥へ遠ざかっていく。封蝋の下に侯爵の名が出た今夜、終わったはずの事件はまた別の扉を開いた。次は、社交界がこちらを向く。


 それでも、今夜だけは。


 石床の冷えと銀のステッキの音と、1歩と少し分の温かい気配の中で、私は手帳を持つ手をただ降ろしていた。

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