第7話 この記録は、証拠にならないのですか
「私的記録は、証拠ではありません」
王宮書記官エリオット様は、私の手帳を閉じた。
音はしなかった。けれど胸の内側で、何かが硬く落ちる音がした。
王宮証言保全室は、予想より狭い部屋だった。応接間より2回り小さい石造りに、薬光灯が3つ吊られている。燈芯が白い光を四方へ押しつけ、窓は北に1枚だけ。そこから見える石畳の中庭には、今の時刻、陽が届かない。壁一面に青い台帳が並び、机の上には羽根ペン、封蝋皿、証言分類用の小札。感情が入り込む隙間のない、よく整った場所。
向かいに座る書記官エリオット様は、30代半ばと見えた。【修正①】目元は眠たげだが、書類へ落ちると別の色になる。インク染みのある白手袋、細い首に白いクラバット。机越しの姿勢だけが定規で測ったように真っ直ぐで、感情を出す余地を自分から閉じていた。
私は長椅子の右端に、膝の上へ手帳を置いて座った。リオンが左後ろに立ち、セバスチャン様が右の椅子に腰を下ろす。銀のステッキを膝の脇に静かに置く。同席申請書の通りの配置で、彼との間には椅子1つ分の空白がある。
「本日は、9度の夜会に関する発言記録の確認が目的です」
エリオット様の声は事務的で、波1つなかった。感情のない場所の方が、言葉は正確に扱われる。私はそれをいい徴候だと思った。
「こちらが、9度すべての記録です」
革表紙の手帳を卓上に滑らせた。
エリオット様は白手袋のまま受け取り、最初のページから読み始めた。発言者、時刻、場所、確認者。整然と並ぶ欄を、目が追う。5度目の夜会の記録だけ、字が少し滲んでいることを私は知っていた。彼の指が、そこで止まった。
「……発言者、時刻まで」
「ええ」
「照合はされましたか」
「記録した際の証人として、侍女リオン・ベルナが同席しておりました」
エリオット様はページをめくるのをやめ、手帳を静かに閉じた。台帳の横に置く。置き方が丁寧なことが、かえって不穏だった。
私の人差し指が、表紙の角を探して止まった。
「この記録は、あなたが書いたものにすぎません。第三者の署名、保全時の立会い、公証印――いずれもありません。単独では証拠能力を持ちません」
薬光灯の燈芯の音だけが残った。
「私的文書です。発言者・時刻・場所の正確さは認めます。しかし第三者機関による照合なしには、王宮書記局の公式記録への接続が困難で――」
「承知いたしました」
声が出た。自分でも、少し驚くほど静かだった。
エリオット様の口が止まった。
「続けてください」
彼は2秒間、私の顔を見た。それから台帳へ視線を戻し、残りを読み上げた。私的記録の定義。照合要件。受理保留の手続き。言葉は正確で、同情が1語も混じらなかった。
私は聞きながら、自分の指先を見た。
白くなっていた。
凪いでいた、というのは嘘である。顔だけが凪いでいて、指先は9度目の夜をまた歩いていた。発言者、ジェフリー・ル・グレイス。時刻、午後7時12分。彼の背中が扉の向こうへ消えた角度まで。9度分、正確に書いた。証拠にならないと、言われた。
右隣で、セバスチャン様がステッキの握りを1度だけ撫でた。
1秒遅れて気づいた。助け舟を出すかどうか迷っているのだと。出さなかった。その沈黙が、私に話す順番をくれていた。
◆
エリオット様が台帳を開き、羊皮紙1枚を卓上に広げた。
7件の診断書一覧だった。家名、日付、医師署名が縦に並ぶ。1件目から6件目まで読めた。7件目だけ、家名の欄が黒く塗り込まれていた。薬光灯の白さの下でも、その塗りだけがひときわ厚く沈んでいた。
「この7件目は」
「保護措置です」
「どなたの保護ですか」
「現時点では開示できません」
声は平らだった。ただし、台帳を押さえる指に、わずかに力が入るのを私は見た。
リオンが後ろで小さく息を吸った。声にはしなかった。しかしそれで分かった。彼女も同じものを見た。
「エリオット様」
リオンが口を開いた。部屋の空気が1度、温度を変えた。
エリオット様が彼女を見た。眠たげな目が、一瞬だけ書類から離れた。
「5度目の夜会の夜、お嬢様がお帰りになってから、私は紅茶を3度替えました。冷めたからではございません。お嬢様が1口もお飲みにならなかったので。これは私の日誌に記録がございます。補助資料として受け付けていただけますか」
エリオット様はわずかに黙った。
「侍女日誌は、記録局の判断次第で補助資料となります。書式を後日お渡しします」
「承知いたしました」
リオンが音もなく元の場所へ戻った。
私は後ろを振り返らなかった。振り返れば、顔を崩すと分かっていたから。彼女が何の資格もなく、この冷たい部屋で声を上げてくれた。それだけで、指先の白さが少し変わった気がしたが、気のせいにしておいた。
◆
「書記官殿」
セバスチャン様が初めて口を開いた。診断書を読む時と同じ、温度のない声だった。
「薬光灯では、心は照らせません。彼女の記録が証拠でないなら、その記録が指している場所を照合してください。場所は、彼女が示します」
1拍、遅れた。
彼は今、証言の場を私へ渡した。全部を、私の口から引き出すために、黙って待っていた。
「エリオット様」
手帳を引き寄せた。最初のページを開き、右端の細い欄を指でなぞった。
「第1回夜会の翌日、ジェフリー様からクラウディア嬢へ送られた見舞い用の花を手配した花屋が、この欄に記録しております。【修正②】王都花街のドゥボワ商会です。支払いが誰の名義で行われたか、帳簿で照合可能です」
エリオット様の羽根ペンが、止まった。
「第4回夜会の前後に、神殿への祈祷申請が3件行われています。申請者の氏名と日時は神殿記録に残るはずです。診断書に記載の医師名についても、王立医療所の出勤記録と照合できます」
「……照合先が、手帳に」
「この手帳は証拠ではございません」
声は平らだった。
「ですが、証拠にならない痛みでも、起きたことではございます。起きた場所へ至る道が、ここにあります」
エリオット様は私の顔を見た。台帳の向こうから、4秒ほど。眠たげだった目が、初めて書類の矛盾を追う時と同じ色になった。それから羽根ペンを持ち上げ、走らせた。
「照合先一覧を、書記局へ提出してください。様式はこちらです」
1枚の紙が、手帳の隣に置かれた。
私の親指が、表紙の角へ戻ってきた。今度は閉じるためでも耐えるためでもなく、次のページを開くために。
「承知いたしました」
セバスチャン様が、息を細く吐いた。音にならないほど小さな息で、私は聞こえなかったふりをした。なぜなら聞こえてしまったら、私まで息を吐きそうになったから。
窓の外の石畳に、午後の光が細く差し込み始めていた。
「7件目に関しましては」
エリオット様へ、もう1度だけ目を向けた。
「今しばらく、お待ちします」
黒塗りの欄には、まだ名がなかった。
しかし、名のない欄が存在すること自体を、私はもう手帳の次のページへ書き始めていた。
発言者、王宮書記官エリオット・マルタン。
時刻、午後2時17分。
7件目の家名は、不明。
不明、というのが記録だった。名のない家が、どこかにある。




