第6話 距離を測る人が、紅茶を替えた
紅茶一杯にも、同席者が要る。
リオンが真面目な顔でそう告げた時、私は思わず手帳を閉じた。
「紅茶一杯、ですか」
「はい。婚約解消直後の令嬢が、新たな婚約者候補と面会する場合、侍女または親族の同席が必要です。今回はセバスチャン様が既に婚約のお申し込みをなさっておりますので、なおさらでございます」
「候補ではなく、婚約者では?」
「正式公証前でございます」
リオンの声は容赦がない。
応接間には、椅子が3脚置かれていた。私の椅子。セバスチャン様の椅子。そして、リオンの椅子。椅子と椅子の間は、少し不自然なほど離れている。テーブルの上には同席札。時刻、面会目的、同席者名を書く欄まである。
恋とは、もう少し柔らかいものだと思っていた。
けれど、私の恋はどうやら、まず距離を測るところから始まるらしい。
「お嬢様、セバスチャン様がお見えです」
扉が開く。
セバスチャン様は、いつもの無表情で入ってきた。銀のステッキを片手に、もう片方の手には書類。視線は私の顔を一度見て、それから椅子の距離、同席札、紅茶の温度へ順に落ちた。
「椅子の距離は適切です」
「そこからですか」
思わず言うと、彼の耳がほんの少し赤くなった。
「順番を誤りました。ご機嫌はいかがですか、ヴェルティナ嬢」
「ええ。椅子の距離が適切なおかげで、たいへん健やかですわ」
リオンが銀盆を持つ手を震わせた。笑いを堪えているのだと分かる。
セバスチャン様は咳払いをし、私の前に置かれていた紅茶へ視線を向けた。
「冷めています」
「まだ、いただけます」
「いいえ」
彼はリオンへ目配せした。決して私の手には触れない。ただ、カップだけが静かに替えられる。温かい湯気が、二人の間の距離を埋めるように昇った。
「本当は」
彼が言いかけて、止まる。
「本当は?」
「あなたの手を――いえ、手帳を。王宮へ持参する際の注意をお伝えします」
言い換えた。その不器用な沈黙ごと、私の胸に温かいものが落ちる。
触れないことが、こんなにも優しい日が来るとは思わなかった。
◆
彼が広げた書類は2枚だった。
1枚目は王宮証言保全室の様式書。時刻の記入形式と、発言者氏名の書き方が細かく定められている。2枚目は、同席者の欄外記入見本だった。
「手帳の記録を様式書へ移す際、時刻は24刻法ではなく午前午後の2分法でお書きください。発言者の氏名は敬称を省き、正式な姓名で」
「承知いたしました」
私は手帳の新しいページを開き、書き留めた。ペンの先が少し滑った。気づかないふりをして、続きを書く。
セバスチャン様は私の手元を見ない。南窓から差し込む午後の光が、彼の横顔を薄く照らしている。灰色の目は遠くを向いたまま、声だけが淡々と言葉を継いでいた。
「九度の記録の清書は、王宮様式に沿う必要があります。ただし」
そこで一度止まる。
「あなたが書いた文字を、上書きする必要はありません。手帳はそのまま、写しを別に作成して提出してください」
ペンが、途中で止まった。
次の字を書くつもりだったのに、何を書くつもりだったか分からなくなった。
上書きしなくていい、と言った。九度分の文字を、王宮の様式で塗り替えなくていい、と。
「……ありがとうございます」
短く言うと、彼は少し間を置いた。
「手続き上の判断です」
「存じています」
それでも、礼を言った。
廊下で足音がした。革靴の、少し急いだリズム。扉が開く前に声が来る。
「これを書いたのはお前か」
リュカ兄様だった。同席申請書を手に持ち、応接間の入口に立っている。書類を読みながら歩いてきた顔だ。視線はまっすぐセバスチャン様へ向かっていた。
「はい」
セバスチャン様が振り返る。銀のステッキが床を一度だけ鳴らした。
「同席者名、侍女名、面会時刻、目的。それだけでなく、椅子の推奨距離まで記入してある」
「必要と判断しました」
「何が、だ」
「婚約解消直後の時期に、婚約予定者との面会が誤解を生まないための数字です。記録があれば、後日の申し開きが正確にできます」
リュカ兄様の眉が、ごくわずかに動いた。反論しかけて、止まった表情だった。
「好意を書類で出す男は初めて見た」
「書類以外の形では、誠実さを担保できません」
一拍の沈黙。
「……誠実でいらっしゃいます」
私が言うと、兄の表情がさらに複雑になった。不服と呆れと、何か別のものが混ざっている。彼はセバスチャン様を見て、私を見て、天井を仰いだ。
「分かった。分かった」
申請書を閉じて廊下へ戻っていく。扉が閉まる。
リオンの肩が小刻みに揺れていた。声を出さず、銀盆を持ったまま笑っていた。
◆
セバスチャン様は帰り際に、同席札を記入して私へ差し出した。
「次の面会まで、婚約者側が保管するのが通例です。正式公証前ではありますが」
「……そのご注記は不要では」
「いえ、正確に」
私は同席札を受け取り、開いた。時刻、面会目的、同席者名。その下に、細い字でもう一行ある。
『椅子間距離 三歩分 証言保全期間中につき、これを遵守する』
私はしばらく、その言葉を見た。
三歩分。傍から見れば、規則正しい記録にすぎない。けれど、もし誰かが「二人は近づきすぎていた」と言い立てたとき、この紙が答える。証言の中立性を疑われたとき、この数字が答える。
私が手帳に書き続けたのと、同じ理由だった。
廊下に銀のステッキの音が遠ざかっていく。規則正しく、少しだけ間の長い、あの歩き方。
凪いでいた、というのは嘘である。
「リオン」
音が聞こえなくなってから、私は言った。
「お嬢様」
「明日の持参品を確認しましょう。手帳の写しと、様式書と」
「はい。……一つ、よろしいでしょうか」
リオンの声はいつもの声だった。ただ、指先だけが膝の前で静かに組まれていた。
「私の侍女日誌も、持参いたしましょうか」
私は顔を上げた。
「証拠にはなりません。エリオット様もそうおっしゃいました。ですが」
「ですが」
「お嬢様の手帳の外に、私が書いたものがございます。紅茶を替えた時刻。お嬢様が一人で窓の外を見ていた時間。使われなかったドレスを畳んだ夜のことを」
胸の奥で何かが揺れた。
九度をすべて一人で記録してきたつもりだった。けれど、手帳の外にも、あの夜はあった。
「持参します」
私は手帳を閉じた。
「王宮は知らなくていい。でも、記録には残します」
翌朝、馬車に乗る前に、私はもう一度同席札を開いた。
三歩分の記録の下に、もう一行あった。
『面会目的 婚約者の名誉保全 証言の中立性を妨げないための面会に限る』
婚約者として来たのではない。名誉保全のために、婚約者の距離のまま来た。その区別を、彼は自分の字で紙に残していた。
私は同席札を手帳に挟んで、王宮証言保全室へ向かった。




