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「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第2章 終わったはずの朝に、手帳は開かれる

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第5話 封蝋の下にある名を

 ル・グレイス家の封書を開いた音は、小さな悲鳴に似ていた。


 応接間の冬の光が、机の上の紙に薄く落ちている。曇天の午前、窓のカーテンは半分だけ引かれ、5人分の沈黙が部屋の空気を重くしていた。ヴェルティナ、セバスチャン様、リュカ、お父様、そしてロベール様。椅子と椅子のあいだに、紙が一枚。


 金額が、最初に見えた。次に、借用目的。


『モルニー男爵令嬢クラウディア・ド・モルニー嬢療養費、薬剤費、神殿祈祷奉納費、見舞い支度金として』


 美しい言葉が並んでいた。療養。薬剤。祈祷。見舞い。どれも、人を責めづらくする言葉ばかりだ。


 けれど、金額は責める。日付も責める。封蝋も責める。


 私は手帳を開いた。第7回の夜会欠席日。ジェフリー様はその日、「クラウディアの祈祷に付き添わねば」とおっしゃった。時刻は午後7時3分。発言者、本人。


 借用書の日付は、その翌日だった。


「優しさは、金額で残ってしまうのですね」


 言ってから、自分の声がひどく冷たかったことに気づいた。


 ロベール様の肩がわずかに揺れた。彼は兄ではない。あの夜、私を壁際に置いた人ではない。それでも、この紙を持ってきた時点で、彼は家の罪を自分の手に載せている。


 黒手袋の親指が、署名欄の上に戻った。覆うでもなく、離れるでもなく、境界線の上に乗っている。



 リオンが銀盆を運んできた。曇天の光の中で、湯気だけが白く立っている。


「どうぞ、お召し上がりくださいませ」


 ロベール様はカップへ手を伸ばしかけ、止まった。


「ル・グレイス様、毒は入っておりません」


 リオンは静かに言った。銀盆を持つ指先だけが、心持ち白い。


「お嬢様は、そのような不正確なことはなさいません」


 短い間があった。ロベール様は小さく息を吐いた。それでも、カップには触れなかった。


 お父様が低く言った。


「座りなさい、ロベール君」


 ロベール様は椅子に腰を下ろした。背が少し丸まっている。目元に眠れない疲れが滲んでいた。それでも背筋は折れていない。整った顔立ちはジェフリー様と同じ血の形だが、目の奥にあるものが違う。兄は美談に酔う目をしていた。弟は、崖の縁から家を見下ろす目をしていた。



「第7回の夜会欠席日。ジェフリー様はクラウディア様の祈祷に付き添うと仰いました。時刻は午後7時3分。発言者、本人」


 手帳を開かずに言えた。9度は、すでに身体の中に入っている。


「翌日の神殿奉納費の支払いが、この借用書の日付と照合できますか」


 ロベール様の指が、封書の縁に一度だけ触れた。


「……できます」


 かすれた声だった。


「第5回の欠席日の翌々日にも、見舞い花の控えがあるはずです。花屋の台帳に残っていれば、この借用書の別の項目と並べられます」


「できます、と言えます」


 セバスチャン様が、わずかに息を吸った。銀のステッキの握りを、親指の腹で一度だけ撫でる。何かを言いかけて、止まった。待っている。私が、私の言葉で進むのを。


「ロベール様」


 私は声を落とした。


「封蝋の下にある名を、確認させていただけますか」


 ロベール様は、自分の黒手袋を見た。封書を膝の上に置き直す。折りかけた角を、ゆっくりと指で戻す。


「どうか、私の口から言わせないでください」


 声は低く、けれど逃げていなかった。


 応接間が静まり返った。


 リュカが立ち上がりかけた。私は視線だけで兄を止めた。ここで代わりに立たれると、ロベール様の覚悟の行き先が変わる。


 私は手帳を閉じた。その音が、小さな合図になった。


「分かりました」


 言った自分の声が、驚くほど熱を持っていないことに気づいた。怒りではない。焦りでもない。


「その紙が、いつ開かれることになっても、私の記録はここにあります。日時、場所、発言者。封蝋の下がどなたであっても、照合できる位置に」


 ロベール様は私を見た。


 ジェフリー様の目と違う。責めていない。恨んでもいない。ひどく疲れた顔で、ほんの少しだけ息を吐いた。その呼吸が、何かに似ていると思った。手帳に9度目を書き終えた夜の、私の呼吸に。


 凪いでいた、というのは嘘である。


 ただ、凪いでいるふりができるようになっただけで、この応接間の重さは、私の手帳と同じだけの夜を抱えている。


 紅茶は冷めていた。ロベール様のカップも、私のカップも、誰も一口も飲まないまま。


 封蝋の下にある名を、彼は今日は言わなかった。言わなかった紙は、それでも、応接間の机の上に残った。



 ロベール様が応接間を辞した後、廊下に足音が遠ざかった。


 私も立った。リオンが目で問う。頷いて、廊下へ出た。


 冬の廊下は冷えていた。窓から差す光が、石床に薄い白い帯を引いている。暖炉の届かない場所の空気は、応接間より一段か二段、温度が低い。


 セバスチャン様は突き当たりで立ち止まっていた。こちらへは向いていない。長身の背中が少し固く、銀のステッキが窓の光を細く拾っている。


「セバスチャン様」


 振り向いた彼の目は、応接間にいた時より温度があった。診察灯ではなく、もう少し柔らかいもの。


「明日、同席の申請を出します。婚約者としてではなく、医師団主席として。手帳の照合補助として」


「承知いたしました」


 一拍。


「今、おっしゃりたいことがおありですか」


「あります」


 もう一拍。


「ですが、今は順番が違います」


 私はその言葉の意味を、数秒かけて理解した。今言うべきことと、後で言うべきこと。彼の中で、きちんと分けられている。婚約者である前に、明日の証言のために正しい距離を保っている。だから、言いたいことを今言わない。


 それが、どれほど不器用な誠実さか。


「では、明日が終わりましたら、聞かせてください」


 言いながら、胸の奥に何か温かいものが落ちた。落ちたことに、3秒遅れて気づいた。


 セバスチャン様の耳が、わずかに赤くなっていた。廊下の光のせいかもしれない。そういうことにしておいた。


 石床に伸びる銀のステッキの影は、明日は王宮証言保全室の床に落ちる。あの部屋で私は、9度分の夜を並べる。封蝋の下にある名を知らないまま、知っていることだけを差し出す。


 今日より冷えた場所で。それでも、今日よりひとりではなく。

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