第5話 封蝋の下にある名を
ル・グレイス家の封書を開いた音は、小さな悲鳴に似ていた。
応接間の冬の光が、机の上の紙に薄く落ちている。曇天の午前、窓のカーテンは半分だけ引かれ、5人分の沈黙が部屋の空気を重くしていた。ヴェルティナ、セバスチャン様、リュカ、お父様、そしてロベール様。椅子と椅子のあいだに、紙が一枚。
金額が、最初に見えた。次に、借用目的。
『モルニー男爵令嬢クラウディア・ド・モルニー嬢療養費、薬剤費、神殿祈祷奉納費、見舞い支度金として』
美しい言葉が並んでいた。療養。薬剤。祈祷。見舞い。どれも、人を責めづらくする言葉ばかりだ。
けれど、金額は責める。日付も責める。封蝋も責める。
私は手帳を開いた。第7回の夜会欠席日。ジェフリー様はその日、「クラウディアの祈祷に付き添わねば」とおっしゃった。時刻は午後7時3分。発言者、本人。
借用書の日付は、その翌日だった。
「優しさは、金額で残ってしまうのですね」
言ってから、自分の声がひどく冷たかったことに気づいた。
ロベール様の肩がわずかに揺れた。彼は兄ではない。あの夜、私を壁際に置いた人ではない。それでも、この紙を持ってきた時点で、彼は家の罪を自分の手に載せている。
黒手袋の親指が、署名欄の上に戻った。覆うでもなく、離れるでもなく、境界線の上に乗っている。
◆
リオンが銀盆を運んできた。曇天の光の中で、湯気だけが白く立っている。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
ロベール様はカップへ手を伸ばしかけ、止まった。
「ル・グレイス様、毒は入っておりません」
リオンは静かに言った。銀盆を持つ指先だけが、心持ち白い。
「お嬢様は、そのような不正確なことはなさいません」
短い間があった。ロベール様は小さく息を吐いた。それでも、カップには触れなかった。
お父様が低く言った。
「座りなさい、ロベール君」
ロベール様は椅子に腰を下ろした。背が少し丸まっている。目元に眠れない疲れが滲んでいた。それでも背筋は折れていない。整った顔立ちはジェフリー様と同じ血の形だが、目の奥にあるものが違う。兄は美談に酔う目をしていた。弟は、崖の縁から家を見下ろす目をしていた。
◆
「第7回の夜会欠席日。ジェフリー様はクラウディア様の祈祷に付き添うと仰いました。時刻は午後7時3分。発言者、本人」
手帳を開かずに言えた。9度は、すでに身体の中に入っている。
「翌日の神殿奉納費の支払いが、この借用書の日付と照合できますか」
ロベール様の指が、封書の縁に一度だけ触れた。
「……できます」
かすれた声だった。
「第5回の欠席日の翌々日にも、見舞い花の控えがあるはずです。花屋の台帳に残っていれば、この借用書の別の項目と並べられます」
「できます、と言えます」
セバスチャン様が、わずかに息を吸った。銀のステッキの握りを、親指の腹で一度だけ撫でる。何かを言いかけて、止まった。待っている。私が、私の言葉で進むのを。
「ロベール様」
私は声を落とした。
「封蝋の下にある名を、確認させていただけますか」
ロベール様は、自分の黒手袋を見た。封書を膝の上に置き直す。折りかけた角を、ゆっくりと指で戻す。
「どうか、私の口から言わせないでください」
声は低く、けれど逃げていなかった。
応接間が静まり返った。
リュカが立ち上がりかけた。私は視線だけで兄を止めた。ここで代わりに立たれると、ロベール様の覚悟の行き先が変わる。
私は手帳を閉じた。その音が、小さな合図になった。
「分かりました」
言った自分の声が、驚くほど熱を持っていないことに気づいた。怒りではない。焦りでもない。
「その紙が、いつ開かれることになっても、私の記録はここにあります。日時、場所、発言者。封蝋の下がどなたであっても、照合できる位置に」
ロベール様は私を見た。
ジェフリー様の目と違う。責めていない。恨んでもいない。ひどく疲れた顔で、ほんの少しだけ息を吐いた。その呼吸が、何かに似ていると思った。手帳に9度目を書き終えた夜の、私の呼吸に。
凪いでいた、というのは嘘である。
ただ、凪いでいるふりができるようになっただけで、この応接間の重さは、私の手帳と同じだけの夜を抱えている。
紅茶は冷めていた。ロベール様のカップも、私のカップも、誰も一口も飲まないまま。
封蝋の下にある名を、彼は今日は言わなかった。言わなかった紙は、それでも、応接間の机の上に残った。
◆
ロベール様が応接間を辞した後、廊下に足音が遠ざかった。
私も立った。リオンが目で問う。頷いて、廊下へ出た。
冬の廊下は冷えていた。窓から差す光が、石床に薄い白い帯を引いている。暖炉の届かない場所の空気は、応接間より一段か二段、温度が低い。
セバスチャン様は突き当たりで立ち止まっていた。こちらへは向いていない。長身の背中が少し固く、銀のステッキが窓の光を細く拾っている。
「セバスチャン様」
振り向いた彼の目は、応接間にいた時より温度があった。診察灯ではなく、もう少し柔らかいもの。
「明日、同席の申請を出します。婚約者としてではなく、医師団主席として。手帳の照合補助として」
「承知いたしました」
一拍。
「今、おっしゃりたいことがおありですか」
「あります」
もう一拍。
「ですが、今は順番が違います」
私はその言葉の意味を、数秒かけて理解した。今言うべきことと、後で言うべきこと。彼の中で、きちんと分けられている。婚約者である前に、明日の証言のために正しい距離を保っている。だから、言いたいことを今言わない。
それが、どれほど不器用な誠実さか。
「では、明日が終わりましたら、聞かせてください」
言いながら、胸の奥に何か温かいものが落ちた。落ちたことに、3秒遅れて気づいた。
セバスチャン様の耳が、わずかに赤くなっていた。廊下の光のせいかもしれない。そういうことにしておいた。
石床に伸びる銀のステッキの影は、明日は王宮証言保全室の床に落ちる。あの部屋で私は、9度分の夜を並べる。封蝋の下にある名を知らないまま、知っていることだけを差し出す。
今日より冷えた場所で。それでも、今日よりひとりではなく。




