第4話 ル・グレイスの次男が持ってきた紙
ル・グレイス家の次男が来た、と聞いた時、兄リュカは書類の角を折った。
いつもなら、彼は怒りを紙に出さない。紙は証拠になる。折れた角も、乱れた筆跡も、感情の痕跡として残る。そういう人だ。だから、その角の折れ方だけで、私は兄の怒りの深さを知った。
「追い返す」
「兄様」
「妹よ、あの家の人間を、今この屋敷に入れる理由があるか」
リュカの声は低かった。だが、お父様は新聞を畳んだだけだった。昨日の王宮封書を見た時と同じ、驚きのない顔。
「会う」
「父上」
「ロベール・ル・グレイスは、ジェフリーではない」
「同じ家の人間です」
「だからこそ、会う」
応接間の空気が、紅茶の湯気より重くなった。
私は膝の上の手帳に触れた。明朝、王宮証言保全室へ出頭する。手帳が正式な資料として扱われるかどうか、まだ分からない。けれど、証拠になれない記録が、証拠の場所を指し示すことはある、と私は思っている。
ル・グレイス家の次男が持ってくるものが謝罪だけなら、王宮を通せばよい。今、伯爵邸へ直接来る理由があるとすれば、それは紙だ。
家令が扉を開けた。
入ってきた青年は、ジェフリー様に似ていなかった。整った顔立ちは同じ家の血を感じさせたが、目の奥にあるものが違う。兄は美談に酔う目をしていた。弟は、崖の縁から家を見下ろす目をしていた。眠れていない疲れが目元に滲み、唇の色が悪い。それでも、背筋は折れていない。
「突然の非礼、お詫び申し上げます。ロベール・ル・グレイスです」
深く頭を下げる。手には黒手袋。その指先に、封蝋付きの封筒があった。
「謝罪なら、王宮へ」
「謝罪では足りません」
ロベールは顔を上げた。声は逃げていなかった。
「兄だけを切れば済む話なら、私はここへ来ておりません」
その一言で、応接間の温度が変わった。
私は微笑んだ。
「では、その紙は、どなたの名で書かれたものでございますか」
◆
ロベールは答えなかった。
代わりに、黒手袋の指が封書の角を折りかけて、止まった。折りかけて、また戻す。出す覚悟と、隠したい本能の間を、指だけが行き来している。その動きを、私は9度の夜会の間にも見ていた。自分の手の中に。壁際の椅子で手帳の角を押さえる時、閉じるべきか開くべきか分からなくなる、あの指と同じ動きだった。
リオンが銀盆を運んできた。曇天の光の中で、湯気だけが白く立っている。
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
ロベールはカップへ手を伸ばしかけ、止まった。
「ル・グレイス様、毒は入っておりません」
リオンが静かに言った。
「お嬢様は、そのような不正確なことはなさいません」
短い間があった。ロベールは、小さく息を吐いた。
「……そう、ですね」
それでも飲まなかった。お父様が低く鼻を鳴らした。笑わなかった。その余裕を、声ひとつで隠した。
「座りなさい、ロベール君」
ロベールは椅子に腰を下ろした。背が少し丸まっている。ジェフリー様には、そういう疲れがなかった。美談の中にいる間は、疲れを感じない。
「お兄様は、王宮証言保全室で陳述書を作成されました」
私は静かに言った。
「私はその内容を閲覧しておりません。ですが、私の手帳に記した日時と場所は、陳述書と照合できる位置にあると考えております。ロベール様がお持ちの紙が、同じ日時に関わるものであれば、王宮へ提出される方が早うございます」
「私は、王宮を経由しないために、ここへ来ました」
リュカの眉が動いた。聞き続けるための、意志の形。
「王宮が動けば、まず兄が切られます。兄だけが切られ、家は残ります。父は、そう処理しようとしています」
「あなたは、それを阻止したい?」
お父様が問う。声に刃はなかった。
「父の処理が正しいかどうか、私には分かりません」
ロベールは封書を膝の上に置いた。
「ただ、兄だけを切れば済む話では、ないのです」
◆
窓の外、曇天の光が薄く伸びていた。
応接間のカーテンは半分だけ引かれている。ロベールの横顔が、その明暗の境界線の上に立っていた。明るい方でも、暗い方でもない位置に。
「第7回の夜会欠席日。ジェフリー様はクラウディア様の祈祷に付き添うと仰いました。時刻は午後7時3分。発言者、本人」
手帳を開かずに言えた。9度は、すでに身体の中に入っている。
「翌日の見舞い花の請求控えは、私の手帳にはありません。ただし、花屋が記録を持っている可能性があります。第5回の夜会欠席時の見舞い花について、私の侍女が日誌に記しております」
「その花の費用が、どこから出たと思いますか」
「借用書、でございますか」
ロベールの指がほんの一瞬だけ動いた。封蝋の縁から、親指が離れる。黒手袋が、署名欄を覆うように戻った。
「ロベール様」
私は声を落とした。
「お答えにならなくて結構です」
彼が息を止める。
「ただ、一点だけ確認させてください。この紙の日付は、私の手帳が記す夜会の翌日と、照合できますか」
長い沈黙だった。
リュカは立ち上がりかけた。私は視線だけで兄を止めた。ここで代わりに立たれると、ロベールの覚悟の行き先が変わる。
「……できます」
かすれた声だった。
「封蝋の下にある名を」
ロベールは手帳ではなく、自分の黒手袋を見た。
「どうか、私の口から言わせないでください」
応接間が静まり返った。
私は手帳を閉じた。その音が、小さな合図になった。
「分かりました。その紙が、いつ開かれることになっても、私の記録はここにあります。日時、場所、発言者。封蝋の下がどなたであっても、照合できる位置に」
ロベールは私を見た。
ジェフリー様の目と違う。責めていない。恨んでもいない。ひどく疲れた顔で、ほんの少しだけ息を吐いた。その呼吸が、何かに似ていると思った。手帳に9度目を書き終えた夜の、私の呼吸に。
凪いでいた、というのは嘘だ。
凪いでいるふりができるようになっただけで、この応接間の重さは、私の手帳と同じだけの夜を抱えている。
紅茶は冷めていた。ロベール様のカップも、私のカップも、誰も一口も飲まないまま。
封蝋の下にある名を、彼は今日は言わなかった。言わなかった紙は、それでも、応接間の机の上に残った。




