第3話 明朝までに、九度の夜を差し出せと
5度目の夜会の欄だけ、インクがわずかに滲んでいた。
王宮証言保全室へ提出するため、私は9度の記録を清書していた。発言者、場所、時刻、欠席理由、同席者、周囲の反応。必要事項は、驚くほど少ない。けれど書き写すたびに、王宮大広間の壁際の冷たさが指先へ戻ってくる。
第5回。王立音楽院慈善夜会。
ジェフリー様、クラウディア嬢の発熱を理由に欠席。
発言者、本人。時刻、午後6時58分。場所、フォーリュア伯爵邸馬車寄せ。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
なぜ滲んだのか、覚えていなかった。涙ではない。私は泣かなかった。あの半年、泣くほど不正確なことはしなかった。
「お嬢様」
隣に控えていたリオンが、銀盆を持つ手を少しだけ強くした。盆の縁が、ちいさく鳴る。
「その日は、紅茶を3度お替えいたしました」
「紅茶?」
「はい。お嬢様は一口も召し上がりませんでした。冷めるたびに私が替えました。3度目です」
私は顔を上げた。
夜半過ぎの書斎は、机上の灯だけが白く、壁紙の藍は影に沈んでいる。リオンは銀盆を胸の前に下げ、侍女として完璧な姿勢で立っていた。ただ、その指先だけが、私の手帳と同じくらい白かった。
「そのようなこと、記録には不要でしょう」
「王宮には、不要かもしれません」
彼女は静かに言った。
「ですが、お嬢様が一人で冷えた席に座っていたわけではないことを、私は覚えております」
胸の奥で、何かが小さく崩れた。
私は9度すべてを一人で数えていたつもりだった。誰にも見せず、誰にも頼らず、ただ正確に残していたつもりだった。けれど、私の手帳の外側にも、夜は残っていた。冷めた紅茶。使われなかったドレス。扉の外で待っていた侍女の手。
「リオン」
「はい」
「あなたの日誌には、その日のことが?」
彼女は腰の小ぶりな帳面に、そっと手を当てた。深い藍の表紙は、私の革表紙より一回り薄い。
「侍女日誌でございます。お嬢様の朝のお支度、午後の紅茶、夜会のお戻りの時刻。私の役目は、それを忘れないことでございますから」
「公式には、ならないものね」
「ええ。ですが、差し出すなら、手帳だけでは足りません」
仕える者の口調ではなかった。
証言者の口調だった。
◆
扉の向こうで、控えめな足音が止まった。
書斎の灯が薄く廊下に漏れ、絨毯の縁を金色に照らしている。私は手帳の角を親指で押さえながら、扉の方を見た。長身の影が、灯の下に立っているのが分かる。銀のステッキの先が、絨毯を一度だけ突いた。それきり、動かない。
兄リュカの声が低く聞こえた。
「妹の部屋の前で徹夜する婚約者など、聞いたことがない」
「同席者2名、扉開放、廊下幅3歩分。規則上は問題ありません」
「真顔で言うな」
兄の声に、苛立ちと諦めが半分ずつ混じっていた。私は思わずペン先を紙の縁に置いた。インクが小さく一滴落ちる。
紙のすれる音がした。
「これを、お預けします」
「王宮様式か」
「証言保全室の正式書式でございます。発言者、時刻、場所、同席者、周辺事象、補助資料。記載例も同封いたしました。提出時には、ヴェルティナ嬢ご自身が手帳の該当箇所を指で示してくださると、書記官の作業が早まります」
「補助資料、というのは」
「侍女日誌、家令の出納帳、花屋の請求控え。本記録の照合先になります」
兄が黙った。
書類の角を揃える音が、廊下の絨毯を一度だけ叩く。怒りを紙に閉じ込める癖だった。
「セバスチャン」
「はい」
「俺は、お前を友人としては信用している」
「光栄です」
「だが、妹の婚約者としては、まだ決めかねている」
「承知しております」
応える声は淡々としていた。診断書を読み上げる時と同じ温度。けれど、その温度のまま彼は続けた。
「妹君のご証言は、妹君ご自身のものでございます。私は廊下で待ちます。今夜、扉の内側へは入りません」
「待つだけか」
「私が入れば、ヴェルティナ嬢の手帳は、婚約者の助言を受けたものになります」
兄が短く息を吐いた。
「……そうか」
苦い納得の声だった。
私は紅茶のカップへ目を落とした。リオンが、いつの間にか温かいものに替えてくれている。湯気が、夜更けの灯の中で揺れていた。
触れない男の方が、私の名誉を知っている。
兄も、それに気づいた夜だった。
私はペンを握り直す。指先より先に、頬の方が温かくなったことに、少し遅れて気づいた。彼が扉を開けてくれる方が、たぶん簡単だった。けれど、開けてくれない人を選んでしまったらしい。それも自分でも驚くほど、迷いがなかった。
◆
深夜、私は9度目の欄を書いていた。
暖炉は、もう炭を継ぎ足していない。赤い熾火だけが、机の脚元で静かに息をしている。リオンは私の斜め後ろで、銀盆を膝に置いて控えていた。眠っていない。眠らせるつもりもない、と本人が静かに告げたから。
第9回。王家主催春の夜会。
ジェフリー様、クラウディア嬢の容態不良を理由に欠席。
発言者、本人。時刻、午後7時12分。場所、フォーリュア伯爵邸馬車寄せ。
ここまでは、半年のあいだに何度も書いた行だ。けれど、王宮様式は最後にもうひとつ欄があった。
「発言の引用」。
私はペン先を、その欄の上で止めた。
あの夜、王宮大広間の柱の影で、彼が私の手の甲を撫でながら言った言葉。「あと2か月だそうだ」。私が「承知いたしました」と答えた、あの瞬間。
書けば、消える。
書かなければ、消えない。
書くという行為は、今だけ奇妙に逆さまだった。あの夜の言葉を王宮の様式へ乗せた瞬間、それは私の記憶ではなく、誰かに照合され保存される台帳の一行になる。私が忘れても、誰かが覚えている。
ペンを握る指の関節が、白くなった。
「お嬢様」
「大丈夫よ、リオン」
「大丈夫の声では、ございません」
声のなさは、いつも私の側にいた人にしか分からない。私は微笑みかけて、止めた。微笑むのに、相応しい欄ではなかった。
ペン先が、紙へ降りる。
『あと2か月だそうだ。発言者、ジェフリー・ル・グレイス侯爵令息』
書き終えてから、私は手帳の角を、いつもより強く押さえた。閉じるためではなく、開かれることに耐えるための仕草だった。
扉の外の足音は、まだ動かない。
「お父様にお伝えして」
私は誰にともなく言った。
「明朝までに、私はこの夜を差し出します。手帳と、リオンの侍女日誌と、清書様式と。9度の夜を、私の言葉で渡します」
返事は、廊下の方からだった。
「承知しました」
短い返事は、父のものではなかった。私の父は、まだ何もご存知ないふりを続けていらっしゃる。返事をくださったのは、扉一枚を隔てた婚約者の方だった。
封蝋皿の上で、青い小さな印が乾いていた。王宮証言保全室の、開いた本に細い鍵が置かれた紋章。明朝、それが私の手帳の表紙に押される。押されれば、手帳はもう、私だけのものではなくなる。
冷めた紅茶のカップが、私の指先で静かに鳴った。
王宮台帳には、7件の診断書が並んでいるという。
その中の1件だけ、家名欄が黒く塗られていることを、私はまだ知らない。




