第2話 私の手帳を、王宮が求めるのですか
夜は、思ったより長かった。
昨夕、朝食室の机に置かれた王宮封書を、私はそのまま自室へ持ち帰っていた。封蝋はもう割れている。中の書簡と、添えられた診断書一覧の写しを並べ、九度の夜の手帳と見比べているうちに、リオンが何度か紅茶を替えに来た。何度目かで「もうお休みくださいませ」と頭を下げて去った後、ようやく私はそれに気づいた。
7件の診断書のうち、最後の1件だけ家名欄が黒く塗り潰されている。
四角い墨は、紙面のどの活字よりも重かった。
朝、執務室の扉を叩いた時、お父様はもう新聞を畳み終えていた。
「来ると思っていた」
お父様は低く言った。
昨夕、王宮封書を見ても驚かなかった声と、同じ声色だった。
「お父様」
「うん」
「7件のうち、最後の1件だけ、家名がございませんでした」
私は折り目をつけた写しを、机の上に滑らせた。
上から6件目までは、モルニー、ベルジュ、トーラン――聞き覚えのある家名が並ぶ。最後の1件だけが黒塗り。日付と症状名はあるのに、誰の家のことなのか、紙だけでは分からない。
お父様は、新聞を畳む時とほとんど同じ手つきで、紙の縁を撫でた。封蝋を撫でた指の動きと、よく似ていた。
「塗られている」
「ええ。塗られて、いますわね」
声が震えなかったことに、今朝は安堵しなかった。
震えないことが、いつから武器ではなく仮面になったのか、自分でも分からなくなっていた。
「お父様」
「なんだ」
「昨夕、封書をご覧になった時、驚かれませんでした」
お父様は、しばらく答えなかった。
答えない代わりに、紅茶の縁を見た。湯気はもう立っていない。リオンが朝、淹れ直したばかりのはずだった。冷えるのが早すぎる紅茶は、たいてい部屋の温度のせいだ。けれど今朝のそれは、お父様の沈黙のせいだと、私は思いたかった。
「王宮は、優しい場所ではない」
答えになっていない言葉だった。
凪いでいた、というのは嘘である。お父様の答えになっていない答えは、答えそのものより、ずっと多くを語っていた。
◆
昼前、寝室の机に、王宮証言保全室の指定様式を広げた。
発言者、場所、時刻、欠席理由、同席者、周囲の反応。書き写すだけのはずなのに、ペンを進めるたびに、王宮大広間の壁際の冷たさが指先へ戻ってくる。
第5回。王立音楽院慈善夜会。
ジェフリー様、クラウディア嬢の発熱を理由に欠席。
発言者、本人。時刻、午後6時58分。
そこまで書いて、ペン先が止まった。
手帳の第5回の欄だけ、インクが滲んでいた。
なぜ滲んだのか、覚えていない。涙ではない。あの半年、私は泣かなかった。泣くほど不正確なことはしなかった。
それでも、滲みは滲みのまま紙に残っている。書記官は、これをどう読むのだろう。痛みの記号として読むのか、記録の不備として番号を振り直すのか。
「お嬢様」
控えていたリオンが、銀盆を持つ手を、わずかに強くした。盆の縁が、ちいさく鳴る。
「その日のこと、私は覚えております」
控えめな声だった。ただ、その指先は、私の手帳と同じくらい白かった。
「紅茶を、3度お替えいたしました。お嬢様は一口も召し上がりませんでした。冷めるたびに、私が替えました。3度目です」
私は顔を上げた。
リオンは泣きそうな顔をしていなかった。侍女として完璧な姿勢で立っていた。
「そのようなこと、記録には不要でしょう」
「王宮には、不要かもしれません」
リオンは静かに言った。
「ですが、お嬢様が一人で冷えた席に座っていたわけではないことを、私は覚えております」
胸の奥で、何かが小さく崩れた。
私は九度すべてを一人で数えていたつもりだった。けれど、私の手帳の外側にも、夜は残っていた。冷めた紅茶。使われなかった薄青のドレス。扉の外で待っていた侍女の手。
◆
午後、玄関ホールに来訪を告げる鐘が鳴った。
兄リュカが書斎から下りてきて、家令から札を受け取り、書類の角を一度だけ揃えた。
「カランデール公爵令息」
昨夕、朝食室で同じ卓に着いた人が、王立医師団へ一度戻り、午後にはまた正式な札と共に戻ってくる。彼の慎重さに、私は呆れる前に困った。困ってから、わずかに笑いそうになった。
「明朝の出頭について、改めてご説明にあがった、と」
兄の声には、信用と警戒が同じだけ混ざっていた。
扉が開く。
セバスチャン様は、いつもの無表情で入ってきた。長身が玄関灯を一度遮り、灰色の目が私の顔を見て、それから手元の革表紙へ落ちる。
銀のステッキの握りを、親指で一度だけ撫でた。
「お早うございます、ヴェルティナ嬢」
「もう昼を回っておりますわ」
「順番を、誤りました」
その一言だけ、彼は迷わず認めた。
言葉そのものは淡々としているのに、灰色の目の奥は、昨夕、テーブルの遠い席で紅茶を替えてくださった時とよく似ていた。
「これを」
差し出されたのは、紙の束だった。
明朝の出頭日時。面会室の見取り図。同席者規定。そして――同席申請書。
「求婚より先に、申請書が上手い男だな」
兄が呟いた。耳に届くか届かないかの音量で、けれどわざと届くように。
「リュカ」
「妹よ、お前への好意まで様式で出してくる男を、俺は信用していいのか分からん」
「誠実でいらっしゃいますわ」
兄の顔が、さらに渋くなった。
「私が触れれば、あなたの記録まで私情に見えます。明朝、王宮証言保全室では、同席者として座ります。婚約者ではなく」
言葉そのものは冷たい。
けれど、その「触れない」一言を許可申請の様式に変えるために、彼が何枚の紙を整えてきたのか、私は数えなかったのに数えてしまった。
数秒遅れて、理解する。これは緊張で順番を間違えたのではない。間違えないために、順番を全部紙へ書いてきたのだ。
「承知いたしましたわ」
答えると、セバスチャン様の耳が、ほんの少しだけ赤くなった。
無表情のまま、銀のステッキの握りをもう一度撫でる。
「明朝、私はあなたの隣ではなく、同席者の席に座ります。けれど、紅茶が冷めれば、替えます」
扉の外で、リオンが銀盆を構え直した。
膝の上の革表紙が、手のひらの下で、わずかに温度を持ち始めている。
明朝までに、私は9度の夜を、王宮の文字へ移し替えなければならない。
誰でもなく、私自身の言葉で。




