第1話 終わった朝、王宮の封蝋が届く
「すまない、ヴェルティナ。やはり今夜も、クラウディアの容態が芳しくなくてね」
婚約者は、すでに馬車の中にいた。
王家主催の春の夜会。王都の未婚令嬢なら誰もが、今宵のために髪飾りを選び、手袋の皺を伸ばし、家名に恥じぬ笑みを練習する。その夜に、ジェフリー・ル・グレイス侯爵令息は、私ではなく、余命半年と告げられた幼馴染の屋敷へ向かおうとしていた。
これで、9度目だった。
「行ってらっしゃいませ」
私は頭を下げた。
馬車の窓越しに、ジェフリー様はほっとした顔をした。謝罪を受け取ってもらえた人の顔ではなく、許された人の顔だった。整えられたはずの金茶の前髪が、今夜は妙に乱れている。何を慌ててこの寒さの中を駆けてきたのか、襟元が薄く湿っていた。
「君なら、分かってくれると思っていた」
「ええ」
分かっておりますわ。
あなた様が、私の沈黙をいつも都合よく優しさと呼ぶことも。
扉が閉まり、車輪が夜霜を砕いて遠ざかる。馬車灯の橙が門の向こうに消えてから、侍女のリオンが銀盆を抱きしめるようにして言った。きっちり結った黒髪の後れ毛が一筋、頬で凍っている。
「お嬢様、よろしいのですか」
「構わないわ。あの方の幼馴染は、お命が長くないのですもの」
声は震えなかった。
震えなかったことだけが、私の失敗だった。
リオンが何か言いかける前に、私は手袋を外した。白い絹の指先は冷えていた。爪の先が、夜霜を少し分けてもらったように白い。
「招待状を」
「はい」
銀盆の上には、まだ封蝋の艶を残した王宮の招待状が載っている。使われなかった夜会の招待状。踊らなかった靴。誰にも見られないまま戻るドレス。
私は招待状の裏を返し、小さな革表紙の手帳を開いた。
第9回。王家主催春の夜会。
ジェフリー・ル・グレイス様、クラウディア・ド・モルニー嬢の容態不良を理由に欠席。
発言者、本人。時刻、午後7時12分。場所、フォーリュア伯爵邸馬車寄せ。
そこまで書いて、羽ペンの先が一度だけ止まった。
冷たいね、君は。
いつかの彼の声が、硝子の内側で凍るように蘇る。
冷たい女なら、9度も数えたりしない。
私はインクが乾くのを待ち、手帳を閉じた。手帳は復讐のためではない。少なくとも、今夜までは。私が私の痛みを、誰かの美談に差し出さないための、最後の礼儀だった。
「お嬢様」
「お父様にお伝えして。今夜、お話ししたいことがございます、と」
「婚約のことでございますか」
リオンの声が、ほんの少しだけ揺れた。銀盆の縁を押さえる指の関節が、白く浮く。
私は微笑んだ。鏡の前で練習した夜会用の笑みではなく、これから刃になる言葉を鞘に収めるための笑みで。
「ええ。9度目まで、待ちましたもの」
その夜、私は初めて、ジェフリー様との婚約を終わらせると決めた。
壁時計の針が10を打つ頃、私は執務室の扉を叩いた。
扉の向こうから、新聞をたたむ乾いた音が返ってくる。父はいつも、扉が叩かれてから数拍のあいだ、新聞をたたむ。判断を急がない人の音だった。
「お入り」
応えてくれたのは、父より先に兄のリュカだった。深い椅子に沈んでいる父の隣に、兄が革張りの書類入れを片手で押さえて立っている。私と同じ銀茶の髪が、ランプの光を受けて鈍く輝いていた。袖口にはいつもの書類の匂いと、今夜はもう一つ、葉巻を吸わなかった夜の苦さが混じっている。
「夜会衣装のままで来たのか、妹よ」
「招待状の裏を、机にしたものですから」
兄は短く笑った。笑ったのに、目は笑わなかった。
「父上」
「うん」
父は新聞を膝の上で正方形にたたみ終えてから、ようやく顔を上げた。深い椅子に沈んだ体は重そうに見えるのに、眉だけは動かない。眉が動かないということは、家令が動かないということで、家令が動かないということは、家がまだ静かでいるということだった。
「お話ししたいことがございます」
「分かっている」
「分かっていらっしゃるのですか」
その言葉は、敬語のはずなのに、私の口から出た瞬間、皮膚の薄い場所を擦ったような感触で響いた。
兄が机の上に、革張りの書類入れを置いた。蓋を開ける音は、思ったより乾いていた。
「中を見ろ」
束ねられた紙は、思っていたよりずっと厚い。診断書の写し。薬剤師ギルドの帳簿の控え。ル・グレイス家の財務に関する小さな報告書。それから、よく知らない医師の名前。
「ベルナール、と」
父が低く言った。声量は落ちたのに、部屋の温度がひとつ下がる。
「医師団主席のセバスチャンが、外れた者だと書き添えてきている」
「ベルナール先生は、クラウディア嬢の主治医ですわ」
「そうだ」
私は紙を閉じた。閉じる手は、思ったより落ち着いていた。閉じる手だけが、と言うべきかもしれない。
「いつから」
「半年前から」
父は答えた。新聞の角と同じ正確さで。
「お前の婚約者が幼馴染の屋敷に通い始めた頃から、調べていた。お前に言わなかったのは――」
父が、私の前で言葉を選ぶのを、私は半年ぶりに見た。
「言えば、お前が婚約者の前で表情を作りすぎる。それでは、向こうが警戒する」
「私は、もう半年、表情を作っております」
「知っている」
知っている、と父が言った。それだけだった。
私は、自分の指先が温度を失い始めるのを感じた。
壁時計が、もう一度小さく鳴った。
「妹よ」
兄が、書類入れに手を置いたまま、私を見た。怒りを抑えた目元の細さが、母を亡くした頃の父によく似ていた。
「もう1度だけ、お前の口から終わらせてやれ。家のために動きたい者は、ここにいる」
兄は、書類入れの蓋を、指の腹でひと撫でした。怒りを紙に変えた箱の蓋を。
「父上は明日、王宮へ正式の申し立てを出される。だがその前に、お前自身の口で、あの男に終わりを告げろ。証拠は、貸す」
書類は、貸す。
言葉は、貸さない。
兄はそういう男だった。
「承知いたしました」
その声は、9度目に「行ってらっしゃいませ」と言った声と、同じ温度ではなかった。
王宮大広間に夜が降りるのは、ほかの場所より遅い。
高い天井のシャンデリアが、闇の代わりに金色の細かな霧を撒く。楽団の弦の最後の一音が、長い余韻を残して床へ落ちる。給仕たちは銀の盆をやや高い位置で揃え、王家の親族たちは扇の動きで他人の話を遮る。
その中央近くに、ジェフリー様は立っていた。
今夜の彼は、いつもの夜会用の青い上着ではなく、一段格を落とした濃灰の上着を選んでいた。胸元には、見舞用の白い花が一輪。クラウディア嬢の容態を、周囲に思い出させるための花だ。
「ヴェルティナ」
彼は声を低くしたつもりだったらしい。だが大広間の高い天井は、いつでも声を倍に拾う。近くの楽団員が一拍だけ手を止めたのを、私は背中で聞いた。
「お話、お受けいたしますわ」
私は壁の柱の方へ歩いた。柱の影は、半分の音を吸う場所だ。だが完全には吸わない。彼は私の選んだ位置に違和感を覚えなかったらしく、当然のようについてきた。
「率直に話すよ」
「ええ」
「私は、君との婚約を解消したい」
私は微かに首を傾けた。耳が遠いのではなく、相手にもう一度言わせるための首の傾けだった。
「クラウディアと、添い遂げてやりたい」
彼の指が、自分の上着の縁を撫でた。手を伸ばしかけて、引いた指だった。それを、誰かに触れる手と勘違いしかけたらしい。
「クラウディア嬢の容態は、よろしくないのですわね」
「ああ。先生方が、もう、長くはないと」
「具体的に、何か月ですの?」
彼の唇が、一瞬だけ止まった。
止まった唇が、次の言葉を選ぶ顔ではなく、自分が答えてよいと思った顔だった。
「2か月だと、ベルナール先生は」
「2か月」
私は復唱した。声は柔らかかった。柔らかいだけだった。
「ご結婚式の段取りにも関わりますでしょう。私との婚約を解消なさるご意思は、あなた様ご自身のお考えでございますわね?」
「もちろんだ。私の意思だ」
「クラウディア嬢に強いられたわけでも、ご家門の方針でも、ベルナール先生のご指示でもなく」
「そうだ。私の意思だ。誓うよ」
ジェフリー様は、そこで初めて私の表情を覗き込んだ。彼は、私が泣くか、責めるか、せめて声を高くするのを待っていた。そうすれば「冷たい君に最後まで誤解されていた」と、彼自身の物語を仕上げられたはずだった。
私は微笑んだ。
「承知いたしました」
給仕の足音が、半歩、止まった。
楽団の弦は、すでに次の曲を始めている。
近くの王家のご親族の一人が、扇の縁を口元から離した。
ジェフリー様は安堵した。
私は、安堵した彼の顔を見て、もう1度、手帳を思い出した。
第10回、王宮大広間。
婚約者ご本人が、クラウディア・ド・モルニー嬢の余命を「2か月」と公言。
ご自身の意思によると断言。
証人、給仕、楽団員、王家ご親族。
時刻、午後9時43分。
書く前から、すでに書き終えた頁の方が、私の中で乾いていた。
待合室は、大広間より一段静かだった。
長い廊下を進み、銀盆が並ぶ控え室の手前で、私は壁際の柱の陰に身を寄せた。気付けの薬湯を飲むふりをするための柱だった。だが、柱の陰には先客がいた。
長身、細身、銀のステッキ。
医師団主席のセバスチャン・ド・カランデール公爵令息は、灰色の上着の襟元まできちんと留めていた。診察灯のように冷静な、淡い灰色の目が、私を認めた瞬間、ほんの一拍だけ揺れた。
「フォーリュア伯爵令嬢」
「カランデール卿」
彼の声は、夜会の場にしては低すぎた。声量を抑えているのではなく、必要以上の温度を入れない訓練のついた声だった。
「兄から、お話は」
「うかがっております」
彼はステッキの握りを、親指の腹で一度だけ撫でた。困った時に出る癖だ、と私は前から知っていた。彼は、診察台の前で死を告げる時にも、この仕草をするのだろうか。
「ベルナール医師の診断書を、写しで見ました」
「はい」
「結論から申し上げます」
彼は、結論から、と言いながら、結論をすぐには言わない。そういう男だった。
「クラウディア嬢に、余命を告げるべき所見はございません。ベルナール医師は3年前に医師団から外れた者です。彼が出した処方箋は、過去2年で42通。そのうち1通の薬名が、薬剤師ギルドの記録から消えております」
「薬名が消えるとは、どういうことですの」
「正規の流通から外れた、ということです」
私は、自分の指先が、さっきよりさらに冷えるのを感じた。冷えるのに、奇妙に呼吸が深くなった。
「灯は、心を照らしません」
彼は、続けてそう言った。
「照らすのは、紙と血と薬だけです。あなたの今夜のお声は、紙の方から見ても、血の方から見ても、嘘ではございませんでした」
私は、彼の灰色の目を見た。
「私は、冷たい女、なのだそうですわ」
「冷たい人は、9度の夜会を耐えません」
息が、止まる。
止まったのは、私の喉ではなく、半年間ずっと張り詰めていた、誰にも見せられない硝子の方だった。割れる音はしなかった。割れる代わりに、私の指先に少しだけ温度が戻った。
「数えていらしたのですね」
「医師団は、記録の生き物です。私の友人の妹君が、9度、壁際の椅子に座っていたことを、9回とも記録した者がおりました」
彼の耳の縁が、ほんの少しだけ赤い。診察灯のような目はそのままなのに、耳だけが、自分の言葉を裏切るように赤くなっている。
私は、半年ぶりに、声を出して笑いそうになった。
笑いは、結局、息で済んだ。
でも、彼は気づいた。気づいて、また順番を間違えた。
「フォーリュア令嬢、結婚なさるおつもりはございますか」
私は瞬きを2回した。
「婚姻届の窓口は、王宮内で午前中のみです。父上には、同日の昼までに署名いただければ、手続きは間に合います」
「順番が、少々」
「順番を、誤りました」
彼は静かに言った。ステッキの握りを、もう1度撫でる。
「ご無礼を申しました。お慕いしております、と先に申し上げるべきでした」
私は、半歩、彼に近づきかけて、引いた。
半歩引いたのは、嫌だったからではない。婚約を切る場で、別の婚約を口にしてはいけないと、その瞬間にだけ思い出したからだった。
でも、指先には、もう霜の跡がなかった。
彼は私の半歩の遠さを、診断書のように正確に読んだ。だから、それ以上は近づかなかった。代わりに、銀盆から温かい紅茶を取り、私の前の小卓に置いた。私の手が触れる位置に、ではなく、私が手を伸ばせば触れられる位置に。
触れない優しさだった。
◆
奇跡は、3日後の茶会の席に現れた。
白い袖、白い衿、白い手袋。クラウディア・ド・モルニー嬢は、全身の薄い色の中で、帯飾りだけが妙に豪奢だった。緋色の絹に、金糸の月桂樹。誰がこの家にこれを贈ったのかを、書きとめておきたくなる飾りだった。
茶会の主催は王宮所属の貴婦人会。位の高い奥方が、淡い緑の温室で扇を緩く揺らしている。湿った緑の匂いの中に、温室の硝子越しの陽が斜めに落ちていた。
「皆様、お聞きくださいまし。お薬が、効いたのです」
クラウディア嬢の声は小さかった。小さい声だから、誰もが身を乗り出す。乗り出した瞬間、彼女の話は具体性を失った。
「お医者様が……それから、皆様のお祈りが……」
「お薬の名は」
扇の陰から、義姉になる予定の侯爵令嬢、カトリーヌ様の声がした。柔らかい問いの形をしていたが、扇は半分閉じていた。彼女が情報を引き出す時の合図だ、と兄が以前こぼしていた。
「私、薬の名は、覚えておりませんの。ただ、信じていただけですの」
クラウディア嬢は、胸元の白い祈祷紐を握った。握ると、紐の結び目が、彼女の指の関節で歪む。
「神様が、私の祈りを聞き届けてくださったのです」
「奇跡ですわね」
カトリーヌ様の扇の縁が、私の頬の方へ少しだけ向いた。扇の奥で、口角だけが上がる。
「ヴェルティナ様、おめでとう。いろいろな意味で」
私は微笑んだだけだった。
その昼過ぎ、王立医療所からの再診の使者が、モルニー男爵家へ静かに向かったことを、私は知らなかった。
知らないままで、よかった。
夕刻、街角の掲示板に布告の紙が貼られた。
モルニー男爵家令嬢クラウディア・ド・モルニーの病状について、王立医師団主席の再診により、診断書に重大な疑義あり。発行者ベルナール医師は医師団資格を有さず。詐病の容疑にて調査中。
布告の紙は、薄い茶色の紙だった。
茶色の紙の上では、奇跡という言葉が、奇跡と呼ばれていなかった。
◆
ジェフリー様が伯爵邸の門を叩いたのは、その翌朝の早い時刻だった。
応接間の窓から差し込む朝の光は、まだ青みが残っていた。リオンが運んできた紅茶は、3度替えられかけて、私が止めた。
「これ以上温めると、紅茶ではなく決意になりますわ」
「お嬢様……」
リオンの口元は、微かに震えていた。怒りを抑える時、彼女はいつも銀盆の縁を指で押さえる。指の腹に銀の冷えを当てて、自分の声を抑える人だった。
その応接間に、ジェフリー様は乱れた髪のまま入ってきた。袖口に、薄い染みが見える。たぶん馬車の中で、震える手で何かを呷った跡だ。
「ヴェルティナ、聞いてくれ」
彼は、椅子に座る前から手を伸ばしていた。
「私は、騙されたんだ。ベルナール先生に、それから、クラウディアにも。君なら分かってくれるだろう? 私たち、まだ戻れる」
戻れる。
彼はそう言った。
私は、紅茶のカップを置いた。置く音は、自分でも驚くほど穏やかだった。半年ぶりに、自分でも驚くほど熱がない、と気づいた瞬間でもあった。
「ジェフリー様」
「ああ」
「あなた様ご自身が、王宮大広間で、クラウディア嬢の余命を2か月と仰いましたわね」
「それは……ベルナール先生が……」
「ご自身のご意思によるとも、誓ってくださいました」
彼は、私に手を伸ばしかけた。私は、半歩、椅子の側を引いた。半歩だけだった。半歩は、彼の手が届かない距離で、彼の言葉が届かない距離だった。
扉の向こうから、父の声がした。
「貴公の誓いは、王家ご親族のお耳にも届いていた」
父は応接間に入ってきた。後ろには、兄と、銀のステッキを持った人影。
父の手には、革張りの書類入れと、新しい一冊の冊子があった。冊子の方は、ル・グレイス家紋の透かしが入った借用書の写しだった。
「私の怒りでは足りぬ。貴公自身の言葉が要る」
父はそう言った。
ジェフリー様の顔から、優しい侯爵令息と呼ばれていた皮膚が、薄く、剥がれていった。
「父はまだ、この件を認めていない」
ジェフリー様は最後にそう呟いた。呟いた相手は、私ではなかった。彼自身の影だった。
応接間の扉が閉まる時、銀のステッキの音が、廊下の奥で一度だけ鳴った。
朝食室に通されたのは、それからしばらく経った後のことだ。
窓際のカーテンが、風で薄く膨らむ。テーブルの上には、まだ湯気の立つ紅茶と、王都の朝刊。
朝刊の見出しには、黒い活字で、ル・グレイス家の婚約破棄と、モルニー家令嬢の詐病疑惑が並んでいた。隣の小さな段落には、ル・グレイス家次男のロベール様が、新たな当主候補として名を挙げられている、とある。
兄は新聞をたたまずに置いた。父は新聞をたたんでから置いた。
セバスチャン様は、テーブルの一番遠い席にいた。婚約者として呼ばれた、ではなく、呼ばれてもよい距離に、彼自身が椅子を引いた。
「ヴェルティナ様」
「はい」
「お疲れさまでございました」
彼の声には、診察台の温度がまだ残っていた。それでも、私の指先は冷えなかった。冷えるのではなく、温かい紅茶の方へ自然に動いた。
「お嬢様」
リオンが、銀盆を持って入ってきた。
銀盆の上には、紅茶の替えではなく、一通の封書があった。
封蝋は、深い赤だった。朝刊の活字の黒よりも、ずっと鮮やかな赤。中央には、家紋ではなく王家の小ぶりな印が押してある。
「王宮、証言保全室。宛名は、ヴェルティナ・フォーリュア伯爵令嬢様。それから――」
リオンの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「ご持参いただきたい記録、として、お嬢様の手帳の名がございます」
手帳。
私の指先が、ほんの一瞬だけ、また冷えた。
冷えた指の上に、隣の席のセバスチャン様が、温かい紅茶のカップを差し替えた。触れずに、紅茶だけを。
「ここから先は、医学ではなく証言保全の領分です」
彼は静かにそう言った。
父は、封蝋を一度だけ撫でて、私の方へ向き直った。
「ヴェルティナ」
「はい、お父様」
「王宮は、お前の手帳の書き方を、知っている」
知っている、と父は言った。
私が半年間、誰にも見せずに書き続けた手帳の、書き方を。
封筒の内側からは、もう一枚、薄い紙が覗いていた。父の指が、その一枚をそっと滑らせる。
ベルナール医師による同様の診断書、過去3年で7件確認。
7件。
私は、その数字を、ゆっくりと声に出した。
「私の手帳を、王宮が求めるのですか」
誰も、すぐには答えなかった。
答えなかった代わりに、テーブルの上で、紅茶の湯気だけが、まっすぐ細く立ちのぼっていた。
封蝋の赤は、朝刊の黒より、ずっと鮮やかだった。




