第27話 銀のステッキは、何を支えているのですか
カランデール公爵邸への石段は、17段あった。
私がそれを数えたのは、セバスチャン様の足音が15段目で1拍遅れたからだ。
王宮の廊下では気づかなかった。あの石床では銀のステッキが先に音を立て、靴音がそれを追う。2つの音はいつも等間隔で、まるで時計の刻みのように正確だった。けれど段差のある石段では、隠しきれなかったらしい。ステッキの先が踏み変えた後、右足の着地だけがわずかに遅れた。半拍分、世界がずれる。
リオンが私の隣で小さく息を止めた。
気づいたのは、私だけではなかったということだ。
「お足元が」
「問題ありません」
セバスチャン様は振り返らなかった。灰色の目は前を向いたまま、声だけが降りてくる。答えの早さは、慣れていることの証だった。聞かれることにではない。「問題ない」と答えることに。
私は何も言わなかった。手帳の角を親指で押さえながら、残り2段を彼の後ろで上った。
彼は長身だった。公爵邸の玄関扉の前に立つと、その背が乳白色の曇り空を背負うように見える。上着の肩は薄く、けれど姿勢は乱れない。銀のステッキの先が石畳の上で静止し、右手はその握りをわずかに撫でていた。親指の腹が、白い。
玄関扉が内側から開いた。
カランデール公爵が立っていた。息子と同じ背丈、同じ灰の目。ただし眉の線が深く、口元に刻まれた皺が長い年月を語っていた。公爵は私を見て、わずかに頷く。歓迎とも値踏みとも取れない無言だった。
「フォーリュア嬢、よくいらっしゃいました」
「お招きに感謝いたします、公爵閣下」
「息子が世話をかけた」
「いいえ。私の方が、お時間をいただいております」
公爵は息子の方へ視線を移した。セバスチャン様のステッキの先が玄関の石床に触れ、音が均等に戻る。段差がなければ、遅れは消える。そういう種類の傷なのだと、私はその音で理解した。
「先に庭を見せよう」
薬草茶も勧められた。応接間の小机に、陶器の湯呑みが3つ並ぶ。公爵が自ら配合したという。私が口をつけると、予想の3倍苦かった。リオンが1拍だけ無言になり、それ以上何も言わなかった。言葉が出てこなかったのだと思う。
「閣下の配合でございますか」
「体が温まる」
温まる前に舌が降参する、と思ったが、口には出さなかった。敬語はときに、優しい盾になる。
公爵が先導して庭へ向かった。
薬草薔薇の庭は、公爵邸の北側にあった。低い石壁に沿って薔薇が並び、曇り空の下で蕾のまま立っている。花弁は1枚も開いていない。霜に縁を黒くした蕾が、どれも同じ傷を負ったように均等に痛んでいた。冬の残りを引きずった風が1本の枝を横から揺らし、乾いた葉が1枚落ちて芝へ沈む。
「今年は霜が早かった」
公爵が言った。振り向かず、庭の奥を見たまま話す。
「毎年この時期には、薬師組合の者が来て手入れをする。今年は来なかった」
「組合の方々も、ご多忙な季節でございましょう」
返しながら、私は薔薇の名札に視線を落とした。
木製の小さな名札。雨と霜で文字が薄れているが、読めないほどではない。
薬草薔薇。
その下に、細い字で。
ダルメル熱補助薬材。
息が、止まりかけた。
止めてはならないと思ったから、静かに吐いた。背後でリオンの気配が固くなる。手帳の角を押さえている親指に、知らず力が入っていた。
セバスチャン様は名札を見ていなかった。庭の奥の石壁を眺めている。銀のステッキの先が、朝露を含んだ芝へ少しずつ沈んでいた。石床では響く音が、土の上では黙ってしまう。沈む深さだけが、重さを教えていた。
「銀のステッキは」
私の口は、考えるより先に動いていた。
「何を支えているのですか。お体ですか、それとも沈黙ですか」
セバスチャン様が、ゆっくりと振り返った。
灰色の目がまっすぐにこちらへ向く。医師の目ではない。何かを診ているのでも、測っているのでもない。ただ、見ている。朝の薄い光の中で、その目だけが温度を持っていた。
「両方です」
声は静かだった。
「だから、まだ離せません」
公爵が小さく咳払いをした。息子の方ではなく、庭の奥を向いて。リオンが銀盆を持ち直す音が、遠くから届く。
私は手帳の角から親指を放した。今ここで記録すべきことではない。そう決めた瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなった。記録しないことが、この場では正しい選択だった。それでも、言葉を手放すことはいつでも痛い。
公爵が踵を返した。
「診療録室へ案内しよう」
廊下は薄暗かった。壁には古い羊皮紙の額が等間隔に並び、黒ずんだ木枠が年月を主張している。薬の古い気配だけが、石壁の奥から滲んでいた。
扉は廊下の突き当たりにあった。黒塗りの重い木で、鍵穴が2つ並んでいる。古い金属は錆を薄く纏い、長く触れられなかった扉の記憶を語っていた。
「鍵が2つ要る」
公爵が腰の鍵束から1本外した。鉄の重い鍵で、指先で受け取ると錆の粉が落ちた。
「もう1本は」
公爵は息子を見た。セバスチャン様の表情が、わずかに変わった。変わった、というより、止まる。灰色の目が鍵穴を見ている。
「セバスチャン」
「……分かりました」
彼は上着の内ポケットへ手を入れた。しかしその手が、途中で止まる。ポケットの中に鍵の輪郭が浮いているのは、布越しに見てもはっきり分かった。けれど指が、動かなくなった。
リオンが私の横で、小さく息を呑む。
私は待った。急かさず、促しもしない。手帳を両手に持ったまま、廊下の冷えた空気の中でただ立っていた。
「フォーリュア嬢」
セバスチャン様の声が、いつもより低かった。
「この扉の向こうに何があるか、私は知っています。それでも開けるべきかを」
「それでも、と仰るのでしたら」
私は先を引き取った。
「私もそこへ参ります」
長い沈黙が落ちた。廊下の奥で薬草の古い匂いがした。庭の薔薇ではない。もっと深い。何年もかけて積み重なった記録の気配だ。
セバスチャン様がようやく鍵を取り出した。指先が、わずかに白い。
2本の鍵が鍵穴へ入れられた。扉が重い音を立てて開く。
その内側から、薬光灯の青い光が差してきた。机の上に置かれた灯が、封を解かれていない古い記録を冷たく照らしている。
私は1歩踏み込んだ。
セバスチャン様の銀のステッキが、石床の上で、確かな音を立てた。




