第28話 診察灯の冷たさと、替えられた紅茶
薬光灯は、心までは照らさない。
そのことを、私は青白い光の下で知った。
カランデール公爵邸の診療録室は、王宮資料室よりも静かだった。高い窓には厚い布が掛けられ、外の光を遮っている。机の上に置かれた薬光灯だけが、古い診療録の封蝋を冷たく照らしていた。薬草の染みと年月の重さを含んだ紙が、青白い光の下で息を止めているように見える。室内に香りはない。ただ、古い紙と乾燥した空気だけがある。
セバスチャン様が、手袋なしの指先で封蝋の縁をなぞった。
「封蝋は破られていません」
声は淡々としている。机の向こうに立つ彼の顔は、薬光灯の青白さをまともに受けていた。灰色の目がいつもより深く暗く、頬骨の下へ影が落ちている。診察中の医師の顔だった。
「ただし、病名欄の薬剤印だけが後から押されています。紙の繊維の沈み方が違う」
病名欄が、薄い青に浮かび上がっていた。
ダルメル熱。
10年前の文字なのに、そこだけが昨日書かれたように生々しい。私は手帳を開いたまま、その病名を書き写す手を止めた。
「後から、病名を足したということですか」
「断定はできません。薬光灯で分かるのは、紙と薬剤反応だけです」
「心は、分からないのですね」
口にしてから、しまったと思った。
セバスチャン様の指が、灯の金具に触れた。消すのかと思ったが、彼は消さなかった。炎を少しだけ絞った。青白い光が弱まり、診療録の文字が影へ沈む。その所作があまりにも静かで、私はしばらく自分が息を止めていたことに気づかなかった。
「心を照らす道具は、医師団にはありません」
だから、あなたの言葉が要る。
そう続くのかと思った。けれど彼は言わなかった。
窓辺でカランデール公爵が低く問う。
「患者名欄は」
「反応しません」
セバスチャン様の声が、ほんのわずかだけ低くなった。
「病名欄は追記できる。だが患者名の改ざんには別の薬剤が要る。10年前の処方では、そこまでは消せなかったのかもしれません」
「あるいは」
公爵の声は、穏やかで、重かった。
「消す必要がなかったのかもしれない。名前より、病名の方が大事だったのだから」
空気が動かなくなった。
私は手帳の角を親指で押さえた。書くべき言葉はある。しかし書く前に確かめなければならないことがあった。名前を照らせないなら、照らせない理由も記録になる。
「では、心を照らすものは何ですの」
聞いた瞬間、セバスチャン様の目がわずかに動いた。診察灯のような冷たさが、ひと瞬間だけゆれた。
「……許可された証言です」
短い返答だった。完璧な敬語の中に、沈黙の長さの分だけ言えなかった何かが透けていた。私は、その言葉の前の間を、手帳には記さなかった。書けるものと書けないものは違う。少なくとも今日の私には、まだその区別がついていた。
彼の指が灯の金具へもう一度触れた。今度は、完全に消した。
室内に朝の自然光だけが戻り、診療録の病名も患者名も、等しく灰色へ沈んだ。明るいのに、どこか暗い。
リオンが扉の近くで銀盆を胸元に引き寄せていた。公爵は窓辺に立ったまま、古い表紙の角を指先で押さえている。その手には、黒革の診療録の鍵が握られていた。
◆
控え室へ通されたのは、日が中天に近づいた頃だった。
廊下に面した小部屋で、窓の外には公爵邸の庭が見える。昨日見た薬草薔薇の蕾は、朝の光の中でもまだ開かないままだった。霜が溶けきっていない。蕾の縁が黒ずんで、それでも折れずに枝にある。
椅子に座り、手帳を膝へ置いた。白紙のページが開かれたままになっている。
名前欄が光らなかった。
その事実を、どう記録すべきか分からない。記録する前に理由を知りたい。理由を知る前に許可を得なければならない。手帳の仕事は、いつもこの順番を守ることだった。
扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様」
リオンが銀盆を持って入ってくる。きっちり結んだ黒髪が、廊下の光を受けて艶やかに揺れた。白磁のカップから湯気が立っている。砂糖は1つだけ添えられていた。
「セバスチャン様からでございます」
「ご本人は」
「入室なさいません。未婚の証言者と事件関係医師の私的面談に当たるため、と仰いました」
私はカップに触れた。温かい。
けれど、温めた人は扉の外にいる。規則を口実にして近づかない人が、こちらのためだけに砂糖の数を数えた。その距離が優しさだと分かるのに、胸の奥だけが冷えた。凪いでいた、というのは嘘である。
「リオン」
「はい」
「婚約者が紅茶を替えて、ご本人は入ってこないとは」
「恋もなかなか、同席札が要りますもので」
リオンが先に返した。私の言葉が終わる前に。銀盆を持ったまま、口元だけをわずかに緩めた顔で。
こんな朝に笑えることが、少し羨ましかった。その小さな揺れに、胸が少しだけほどけた。
両手でカップを包む。白手袋越しに温度が伝わってくる。口をつける前に、廊下から銀のステッキの音がした。
こつん。
1歩。
こつん。
扉の前で、止まった。
私はカップを持ったまま動かなかった。扉は開かない。規則が開けさせない。それでも音は止まっている。
指先が温まった瞬間に、廊下の音が止まる。
偶然だと言えばそれまでだ。けれど私は9度の夜会を数えた女である。人が誤魔化そうとする1拍を、見逃すほど鈍くはなかった。
この人は、扉の外で紅茶が届いたかどうかを確かめていた。
気づくのが、少し遅かった。
気づいたとき、もう足音は廊下を遠ざかっていた。こつん。こつん。1歩ずつ、遠く。
◆
予備審問通知が届いたのは、昼を過ぎた頃だった。
書斎へ向かう廊下の突き当たりで、リオンが「王宮からの使者がいらしています」と告げた。紺色の官服を着た若い男が、書斎の扉の前に立って1枚の封筒を差し出している。
灰色の封蝋。
それを見た瞬間、温度が変わった。
両手に包んでいた紅茶の温もりが、もう遠くなった気がした。
宛名は私ではない。
セバスチャン・ド・カランデール、王立医師団主席。
セバスチャン様はすでに書斎の前に立っていた。カランデール公爵父と並んで廊下の奥にいる。午後の光が窓から斜めに差し込み、2人の影を長く伸ばしていた。セバスチャン様の背筋は真っすぐで、銀のステッキは石床へ静かに添えられている。
驚いていなかった。驚かないほど、予期していたのだと思う。
使者が封筒を差し出す。彼が受け取る。指先が封蝋の角にひと瞬間だけ触れた。開封する前から、何が書かれているか分かるような顔をしていた。
「承知しました」
読み終えた彼が封筒を公爵へ渡した。声に揺れはなかった。けれど銀のステッキを握る手の甲が、白くなるほど固まっている。私は、その指先を見て、手帳の角を親指で押さえた。
使者が去る。廊下から足音が消え、扉の向こうへ静寂が戻った。
誰も口を開かなかった。
リオンが私の後ろで銀盆を持ち直した。小さな音だったが、怒っているのが分かった。私も怒っている。けれど今ここで感情を声にすれば、それが記録になる。婚約者として動揺すれば、彼の証言をさらに傷つけることを、私たちは知っていた。
セバスチャン様が、ゆっくりこちらを向いた。
謝ろうとしているのか、説明しようとしているのか、それとも離れるよう告げようとしているのか、まだ分からない。ただ、灰色の目の奥だけが、薬光灯の炎を絞ったときよりも静かに、自分だけを裁いていた。
廊下の窓台に、控え室から持ってきた紅茶の残りが置かれている。湯気は、もうない。
私はその白磁のカップを見ながら、診療録室での問いを思い出していた。
病名欄は光った。封蝋の後追記も光った。けれど患者の名前だけが、薬光灯の下で答えを返さなかった。
名前欄が光らなかった理由を、私はまだ知らない。
知らないままで、次の朝が来ようとしていた。




