表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第5章 銀のステッキが隠した傷

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/28

第28話 診察灯の冷たさと、替えられた紅茶

 薬光灯は、心までは照らさない。


 そのことを、私は青白い光の下で知った。


 カランデール公爵邸の診療録室は、王宮資料室よりも静かだった。高い窓には厚い布が掛けられ、外の光を遮っている。机の上に置かれた薬光灯だけが、古い診療録の封蝋を冷たく照らしていた。薬草の染みと年月の重さを含んだ紙が、青白い光の下で息を止めているように見える。室内に香りはない。ただ、古い紙と乾燥した空気だけがある。


 セバスチャン様が、手袋なしの指先で封蝋の縁をなぞった。


「封蝋は破られていません」


 声は淡々としている。机の向こうに立つ彼の顔は、薬光灯の青白さをまともに受けていた。灰色の目がいつもより深く暗く、頬骨の下へ影が落ちている。診察中の医師の顔だった。


「ただし、病名欄の薬剤印だけが後から押されています。紙の繊維の沈み方が違う」


 病名欄が、薄い青に浮かび上がっていた。


 ダルメル熱。


 10年前の文字なのに、そこだけが昨日書かれたように生々しい。私は手帳を開いたまま、その病名を書き写す手を止めた。


「後から、病名を足したということですか」


「断定はできません。薬光灯で分かるのは、紙と薬剤反応だけです」


「心は、分からないのですね」


 口にしてから、しまったと思った。


 セバスチャン様の指が、灯の金具に触れた。消すのかと思ったが、彼は消さなかった。炎を少しだけ絞った。青白い光が弱まり、診療録の文字が影へ沈む。その所作があまりにも静かで、私はしばらく自分が息を止めていたことに気づかなかった。


「心を照らす道具は、医師団にはありません」


 だから、あなたの言葉が要る。


 そう続くのかと思った。けれど彼は言わなかった。


 窓辺でカランデール公爵が低く問う。


「患者名欄は」


「反応しません」


 セバスチャン様の声が、ほんのわずかだけ低くなった。


「病名欄は追記できる。だが患者名の改ざんには別の薬剤が要る。10年前の処方では、そこまでは消せなかったのかもしれません」


「あるいは」


 公爵の声は、穏やかで、重かった。


「消す必要がなかったのかもしれない。名前より、病名の方が大事だったのだから」


 空気が動かなくなった。


 私は手帳の角を親指で押さえた。書くべき言葉はある。しかし書く前に確かめなければならないことがあった。名前を照らせないなら、照らせない理由も記録になる。


「では、心を照らすものは何ですの」


 聞いた瞬間、セバスチャン様の目がわずかに動いた。診察灯のような冷たさが、ひと瞬間だけゆれた。


「……許可された証言です」


 短い返答だった。完璧な敬語の中に、沈黙の長さの分だけ言えなかった何かが透けていた。私は、その言葉の前の間を、手帳には記さなかった。書けるものと書けないものは違う。少なくとも今日の私には、まだその区別がついていた。


 彼の指が灯の金具へもう一度触れた。今度は、完全に消した。


 室内に朝の自然光だけが戻り、診療録の病名も患者名も、等しく灰色へ沈んだ。明るいのに、どこか暗い。


 リオンが扉の近くで銀盆を胸元に引き寄せていた。公爵は窓辺に立ったまま、古い表紙の角を指先で押さえている。その手には、黒革の診療録の鍵が握られていた。



 控え室へ通されたのは、日が中天に近づいた頃だった。


 廊下に面した小部屋で、窓の外には公爵邸の庭が見える。昨日見た薬草薔薇の蕾は、朝の光の中でもまだ開かないままだった。霜が溶けきっていない。蕾の縁が黒ずんで、それでも折れずに枝にある。


 椅子に座り、手帳を膝へ置いた。白紙のページが開かれたままになっている。


 名前欄が光らなかった。


 その事実を、どう記録すべきか分からない。記録する前に理由を知りたい。理由を知る前に許可を得なければならない。手帳の仕事は、いつもこの順番を守ることだった。


 扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様」


 リオンが銀盆を持って入ってくる。きっちり結んだ黒髪が、廊下の光を受けて艶やかに揺れた。白磁のカップから湯気が立っている。砂糖は1つだけ添えられていた。


「セバスチャン様からでございます」


「ご本人は」


「入室なさいません。未婚の証言者と事件関係医師の私的面談に当たるため、と仰いました」


 私はカップに触れた。温かい。


 けれど、温めた人は扉の外にいる。規則を口実にして近づかない人が、こちらのためだけに砂糖の数を数えた。その距離が優しさだと分かるのに、胸の奥だけが冷えた。凪いでいた、というのは嘘である。


「リオン」


「はい」


「婚約者が紅茶を替えて、ご本人は入ってこないとは」


「恋もなかなか、同席札が要りますもので」


 リオンが先に返した。私の言葉が終わる前に。銀盆を持ったまま、口元だけをわずかに緩めた顔で。


 こんな朝に笑えることが、少し羨ましかった。その小さな揺れに、胸が少しだけほどけた。


 両手でカップを包む。白手袋越しに温度が伝わってくる。口をつける前に、廊下から銀のステッキの音がした。


 こつん。


 1歩。


 こつん。


 扉の前で、止まった。


 私はカップを持ったまま動かなかった。扉は開かない。規則が開けさせない。それでも音は止まっている。


 指先が温まった瞬間に、廊下の音が止まる。


 偶然だと言えばそれまでだ。けれど私は9度の夜会を数えた女である。人が誤魔化そうとする1拍を、見逃すほど鈍くはなかった。


 この人は、扉の外で紅茶が届いたかどうかを確かめていた。


 気づくのが、少し遅かった。


 気づいたとき、もう足音は廊下を遠ざかっていた。こつん。こつん。1歩ずつ、遠く。



 予備審問通知が届いたのは、昼を過ぎた頃だった。


 書斎へ向かう廊下の突き当たりで、リオンが「王宮からの使者がいらしています」と告げた。紺色の官服を着た若い男が、書斎の扉の前に立って1枚の封筒を差し出している。


 灰色の封蝋。


 それを見た瞬間、温度が変わった。


 両手に包んでいた紅茶の温もりが、もう遠くなった気がした。


 宛名は私ではない。


 セバスチャン・ド・カランデール、王立医師団主席。


 セバスチャン様はすでに書斎の前に立っていた。カランデール公爵父と並んで廊下の奥にいる。午後の光が窓から斜めに差し込み、2人の影を長く伸ばしていた。セバスチャン様の背筋は真っすぐで、銀のステッキは石床へ静かに添えられている。


 驚いていなかった。驚かないほど、予期していたのだと思う。


 使者が封筒を差し出す。彼が受け取る。指先が封蝋の角にひと瞬間だけ触れた。開封する前から、何が書かれているか分かるような顔をしていた。


「承知しました」


 読み終えた彼が封筒を公爵へ渡した。声に揺れはなかった。けれど銀のステッキを握る手の甲が、白くなるほど固まっている。私は、その指先を見て、手帳の角を親指で押さえた。


 使者が去る。廊下から足音が消え、扉の向こうへ静寂が戻った。


 誰も口を開かなかった。


 リオンが私の後ろで銀盆を持ち直した。小さな音だったが、怒っているのが分かった。私も怒っている。けれど今ここで感情を声にすれば、それが記録になる。婚約者として動揺すれば、彼の証言をさらに傷つけることを、私たちは知っていた。


 セバスチャン様が、ゆっくりこちらを向いた。


 謝ろうとしているのか、説明しようとしているのか、それとも離れるよう告げようとしているのか、まだ分からない。ただ、灰色の目の奥だけが、薬光灯の炎を絞ったときよりも静かに、自分だけを裁いていた。


 廊下の窓台に、控え室から持ってきた紅茶の残りが置かれている。湯気は、もうない。


 私はその白磁のカップを見ながら、診療録室での問いを思い出していた。


 病名欄は光った。封蝋の後追記も光った。けれど患者の名前だけが、薬光灯の下で答えを返さなかった。


 名前欄が光らなかった理由を、私はまだ知らない。


 知らないままで、次の朝が来ようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ