第26話 婚約者としてではなく、と彼は言った
昨夜、彼は「医師として裁かれるかもしれません」と言った。
それきりだった。薬光灯が消え、鐘が鳴り、エリオット様の「時間です」という声に追われて、七件目の記録は机の上に残されたまま閉じられた。私はリオンに手帳を受け取られ、空白のページを抱えたまま夜を越えた。
翌朝、王宮医療資料室は昨夜より明るかった。
高い窓から朝の光が斜めに差し込み、薬光灯を補う。石床の冷えは夜の名残のまま這い上がってくる。棚の端に資料が積み上がり、インクと革と、昨夜残した薬草の匂いが空気に溶けていた。エリオット様は受付台の前に立ち、羽根ペンの先を几帳面に揃えている。砂時計はまだ傾けていない。
七件目は、机の上にそのまま置かれていた。
セバスチャン様は私が入る前からそこにいた。長身の輪郭が薬光灯の白い光の縁に立ち、淡い灰色の目が書類の上を静かに動いている。銀のステッキを右手に、左手は搬送記録の端に添えていた。
「昨夜の続きを」
私は手帳を開きながら言った。
「はい」
彼は一枚を、私の方へ向けた。薄い紙。日付、病名、薬剤名、受領者署名。そして末尾、細い文字。
セバスチャン・ド・カランデール。
今よりずっと頼りない、まだ手に慣れていない頃の筆跡だった。
私は手帳の端を、親指で押さえた。書くべきか。何を先に聞くべきか。問いを先に置く方が、今は正しい気がした。
「婚約者としてではなく、医師として、お答えくださるのですか」
「はい」
彼の声は、診断書を読む時と同じ速さで来た。感情を抑えているのではない。感情が、声の通る道を変えてしまっている。
「医師補の頃の署名です。正規の記録に見えました。病名も、封蝋も、医師署名も、すべて揃っていた。私は確認して、署名した」
「その薬が」
「別の家へ回りました」
それだけだった。本当に必要な患者へ届かなかった、という続きを、彼は言わなかった。言わなかったことが、言ったことより重く落ちた。
凪いでいた、というのは嘘である。凪いでいたのではなく、羽ペンを持つ指が、どこへ動いてよいか分からなかった。
「承知いたしました」
声は出た。出てから、低すぎたと気づいた。
「では私は、婚約者としてではなく、証言者として伺いますわ」
彼の灰色の目が、ほんの一瞬だけ止まった。自分の言葉が予想外の角度で返ってきた時の、静かな揺れが目の奥にあった。親指がステッキの握りを一度撫でる。いつもの癖だった。ただ今日は、その指の腹が白くなっていた。
そこへ、エリオット様が封筒を持ってきた。
灰色の封蝋。
「カランデール卿宛ての照会状です。王宮医務監査局より」
セバスチャン様は封を切らなかった。切らないまま、銀のステッキを石床に打った。
こつ。
昨夜と同じ音のはずなのに、何か違う重さが混じっていた。
◆
資料室を出た控え廊下には、まだ朝の空気が滞っていた。
セバスチャン様は歩きながら言った。
「面会の規則を、確認しておきたく」
リオンが銀盆をわずかに傾けた。何かを感じ取った気配がした。
「参考人として扱われる場合、婚約者間の接触は制限を受けます。適正な距離として――」
「公爵令息様」
リオンが、控えめだが過不足のない声で言った。
「そこまで測ると、診療室になります」
完璧な真顔だった。
私は一瞬、息を止めた。笑いを堪えたのではなく、この人がこんな廊下でそう言えることに、少し驚いた。
セバスチャン様は一拍、口を開けた。それから閉じた。
「……失礼いたしました」
「いいえ」とリオンは言い、袖口から同席札を取り出した。「こちらをお使いください。書式は整っております」
薄い白い紙。発言者、日付、同席者の名を記す欄がある。恋人たちのための書式ではない。それでも、この紙が2人の言葉を守る。
セバスチャン様が同席札を受け取る時、指が少しだけ触れた。触れてすぐ、彼は半歩だけ後ろへ引いた。手は届かない。声は届く距離。
その半歩が何を意味するか、昨日よりは少しだけ分かった気がした。
◆
カランデール公爵邸の診療録室は、石造りの邸の奥にあった。
窓は高い位置に小さく、外の光はほとんど届かない。薬光灯の白い光が机の上だけを切り、机を背に右手の棚、左手の壁、正面の扉という三方に囲まれた狭い室内だった。革表紙と古いインクと薬草の名残が棚の木に沁みている。空気の動かない部屋だった。私とセバスチャン様が机の前に並んだところへ、扉が開いた。
カランデール公爵が入ってきた。
濃色の上着、公爵家の印章指輪。腰には古びた鍵束。五十代の重い体格が扉口に止まり、息子と私の位置を一度だけ確認してから棚の一角へ目を移した。
「……父上」
「出なさい」
声は短く、低かった。
「その束には、まだ誰にも見せていない記録がある。今日は渡せません」
「理由を」
「フォーリュア嬢の前では言えません」
私は手帳を持ったまま、立っていた。
「公爵様」
私は口を開いた。
「今日、読めないのでしたら構いません。ただ、いつ読めるかだけを教えていただけますか」
公爵が私を見た。試している目だった。息子の足音の遅れを聞き分ける目と、同じ目だった。
「夜明けまで、待ちなさい」
答えではなかった。試験の続きだった。
銀のステッキが、石床を打った。
こつ。
朝の資料室で聞いた音と、違った。廊下で聞く音とも、違った。石の固さの中に、何かを堪える重さが混じっていた。
私は手帳の角を親指で押さえた。夜明けまで待つ。書かない。急かさない。それが今夜、私に許されている唯一の記録の形だった。
ただ、あの音だけは、もう昨日と同じには聞こえなかった。




