表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第5章 銀のステッキが隠した傷

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/28

第26話 婚約者としてではなく、と彼は言った

 昨夜、彼は「医師として裁かれるかもしれません」と言った。


 それきりだった。薬光灯が消え、鐘が鳴り、エリオット様の「時間です」という声に追われて、七件目の記録は机の上に残されたまま閉じられた。私はリオンに手帳を受け取られ、空白のページを抱えたまま夜を越えた。


 翌朝、王宮医療資料室は昨夜より明るかった。


 高い窓から朝の光が斜めに差し込み、薬光灯を補う。石床の冷えは夜の名残のまま這い上がってくる。棚の端に資料が積み上がり、インクと革と、昨夜残した薬草の匂いが空気に溶けていた。エリオット様は受付台の前に立ち、羽根ペンの先を几帳面に揃えている。砂時計はまだ傾けていない。


 七件目は、机の上にそのまま置かれていた。


 セバスチャン様は私が入る前からそこにいた。長身の輪郭が薬光灯の白い光の縁に立ち、淡い灰色の目が書類の上を静かに動いている。銀のステッキを右手に、左手は搬送記録の端に添えていた。


「昨夜の続きを」


 私は手帳を開きながら言った。


「はい」


 彼は一枚を、私の方へ向けた。薄い紙。日付、病名、薬剤名、受領者署名。そして末尾、細い文字。


 セバスチャン・ド・カランデール。


 今よりずっと頼りない、まだ手に慣れていない頃の筆跡だった。


 私は手帳の端を、親指で押さえた。書くべきか。何を先に聞くべきか。問いを先に置く方が、今は正しい気がした。


「婚約者としてではなく、医師として、お答えくださるのですか」


「はい」


 彼の声は、診断書を読む時と同じ速さで来た。感情を抑えているのではない。感情が、声の通る道を変えてしまっている。


「医師補の頃の署名です。正規の記録に見えました。病名も、封蝋も、医師署名も、すべて揃っていた。私は確認して、署名した」


「その薬が」


「別の家へ回りました」


 それだけだった。本当に必要な患者へ届かなかった、という続きを、彼は言わなかった。言わなかったことが、言ったことより重く落ちた。


 凪いでいた、というのは嘘である。凪いでいたのではなく、羽ペンを持つ指が、どこへ動いてよいか分からなかった。


「承知いたしました」


 声は出た。出てから、低すぎたと気づいた。


「では私は、婚約者としてではなく、証言者として伺いますわ」


 彼の灰色の目が、ほんの一瞬だけ止まった。自分の言葉が予想外の角度で返ってきた時の、静かな揺れが目の奥にあった。親指がステッキの握りを一度撫でる。いつもの癖だった。ただ今日は、その指の腹が白くなっていた。


 そこへ、エリオット様が封筒を持ってきた。


 灰色の封蝋。


「カランデール卿宛ての照会状です。王宮医務監査局より」


 セバスチャン様は封を切らなかった。切らないまま、銀のステッキを石床に打った。


 こつ。


 昨夜と同じ音のはずなのに、何か違う重さが混じっていた。



 資料室を出た控え廊下には、まだ朝の空気が滞っていた。


 セバスチャン様は歩きながら言った。


「面会の規則を、確認しておきたく」


 リオンが銀盆をわずかに傾けた。何かを感じ取った気配がした。


「参考人として扱われる場合、婚約者間の接触は制限を受けます。適正な距離として――」


「公爵令息様」


 リオンが、控えめだが過不足のない声で言った。


「そこまで測ると、診療室になります」


 完璧な真顔だった。


 私は一瞬、息を止めた。笑いを堪えたのではなく、この人がこんな廊下でそう言えることに、少し驚いた。


 セバスチャン様は一拍、口を開けた。それから閉じた。


「……失礼いたしました」


「いいえ」とリオンは言い、袖口から同席札を取り出した。「こちらをお使いください。書式は整っております」


 薄い白い紙。発言者、日付、同席者の名を記す欄がある。恋人たちのための書式ではない。それでも、この紙が2人の言葉を守る。


 セバスチャン様が同席札を受け取る時、指が少しだけ触れた。触れてすぐ、彼は半歩だけ後ろへ引いた。手は届かない。声は届く距離。


 その半歩が何を意味するか、昨日よりは少しだけ分かった気がした。



 カランデール公爵邸の診療録室は、石造りの邸の奥にあった。


 窓は高い位置に小さく、外の光はほとんど届かない。薬光灯の白い光が机の上だけを切り、机を背に右手の棚、左手の壁、正面の扉という三方に囲まれた狭い室内だった。革表紙と古いインクと薬草の名残が棚の木に沁みている。空気の動かない部屋だった。私とセバスチャン様が机の前に並んだところへ、扉が開いた。


 カランデール公爵が入ってきた。


 濃色の上着、公爵家の印章指輪。腰には古びた鍵束。五十代の重い体格が扉口に止まり、息子と私の位置を一度だけ確認してから棚の一角へ目を移した。


「……父上」


「出なさい」


 声は短く、低かった。


「その束には、まだ誰にも見せていない記録がある。今日は渡せません」


「理由を」


「フォーリュア嬢の前では言えません」


 私は手帳を持ったまま、立っていた。


「公爵様」


 私は口を開いた。


「今日、読めないのでしたら構いません。ただ、いつ読めるかだけを教えていただけますか」


 公爵が私を見た。試している目だった。息子の足音の遅れを聞き分ける目と、同じ目だった。


「夜明けまで、待ちなさい」


 答えではなかった。試験の続きだった。


 銀のステッキが、石床を打った。


 こつ。


 朝の資料室で聞いた音と、違った。廊下で聞く音とも、違った。石の固さの中に、何かを堪える重さが混じっていた。


 私は手帳の角を親指で押さえた。夜明けまで待つ。書かない。急かさない。それが今夜、私に許されている唯一の記録の形だった。


 ただ、あの音だけは、もう昨日と同じには聞こえなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ