第25話 十年前の病名が、なぜここにあるのですか
七件目の原本を裏返した時、セバスチャン様の足音が止まった。
夜の王立医療資料室は、昼よりも白く見える。薬光灯の光が机の上だけを照らし、高い天井は闇に溶けていた。窓の外の王都は黒い硝子の向こうに沈み、かすかに馬蹄の音が届く。エリオット様は受付台の前に立ち、砂時計を手のひらで傾けている。「閲覧は鐘が鳴るまで」と、今夜すでに3度口にしていた。砂はあと半分を切っていた。
一件目から六件目まで、私たちは黙って確認した。診断書の端をセバスチャン様の指先が示し、私が手帳に写す。病名、余命欄の数字、主治医の署名。婚約延期、相続操作、見舞金の根拠。美談には必ず数字があり、数字には必ず誰かの名があった。
六件目が終わっても、セバスチャン様の立ち方は変わらなかった。長身の輪郭は薬光灯の白い光の中で静かで、灰色の目は文字だけを追っている。銀のステッキを親指で軽く撫でる癖も、いつもと同じだった。リオンは扉の脇に控え、白いハンカチを袖口で押さえていた。
七件目だけ、まだ誰も手を触れていなかった。
昨日の作戦室でも、七件目は裏返しのままだった。「発言者から始めます」と私が言った時、彼は初めてはっきり反対の目をした。廊下に出てから彼は「ベルナール医師と私の名が、同じ書類に並ぶ可能性があります」と言った。書類の上の危うさを、前もって告げた声だった。
その時と、今夜は、違う気がした。
なぜそう思うのか、まだ分からなかった。分からないまま、白い紙の端に指を掛けた。
◆
七件目。患者名、空欄。家門名、空欄。主治医署名、一部欠落。病名欄。
ダルメル熱。
十年前、王都で流行した病の名。セバスチャン様が特効薬を完成させたと、社交界でも語られる名。かつて私自身も高熱で生死の境を彷徨い、彼が薬を届けてくれた夜に繋がる名。
「なぜ」
声が漏れた。声を抑えるより先に、言葉が出ていた。
「十年前の病名が、ここにあるのですか」
セバスチャン様は答えなかった。
彼は薬光灯を消した。ぱちり、と小さな音がして、病名の文字が暗くなる。隠すように。いいえ、これ以上見れば何かが壊れると知っている人の手つきで。
薬光灯の消えた室内は、窓の外の王都の灯りだけを映して、急に冷えた色になった。エリオット様の砂時計が、遠くで砂を落とし続けている。
「セバスチャン様」
「今夜は」
彼の声は、私が知るどの診断よりも硬かった。
「婚約者としては、答えられません」
銀のステッキが、石床を叩いた。乾いた音だった。いつもより少し遅い足音に、私はその時初めて気づいた。彼が、ステッキに体重を掛けてこの部屋を歩いていたのだと。
手帳を持つ指が、止まった。
凪いでいた、というのは嘘である。凪いでいたのではなく、どんな問いを差し出せばよいか、初めて分からなかった。私はいつも、相手が言葉を持つ前に質問を置く。言葉の隙間に記録を挟む。それが私の戦い方だったはずなのに、今は、彼の背中に向かって差し出すべき言葉が重くて、宙に浮いたまま落ちなかった。
「診断ですか」
それでも声は出た。
「それとも、沈黙ですか」
彼の肩が、一息のあいだだけ強張った。
「では、医師としては?」
彼は目を伏せた。灰色の目が、机の上の七件目を見た。いいえ、見ていなかった。その向こうにある、十年前のどこかを。
「医師としてなら、私は裁かれるかもしれません」
銀のステッキを握る指が白くなっていた。
昨日、彼が言ったのは未来の書類の話だった。今夜、彼が見ているのは十年前の病名だ。同じ言葉の形をしていても、向いている方向が全く違う。それに気づいた瞬間、私の中の何かが、勝ち筋とは別の場所へ落ちた。
手帳を閉じた。七件目の病名を、記録しなかった。
遠くで、鐘が一声鳴った。
「時間です」
エリオット様の声がした。セバスチャン様は扉の方へ歩く。ステッキの音が、石畳を低く叩く。いつもより少し重い。
扉が閉まる前に、彼は一度だけ振り返った。
「明日」
それだけだった。
リオンが、音を立てずに近づいてきた。私の手から手帳を、そっと受け取る。閉じたままの手帳を、両手でまっすぐ持った。追わなかった。何も言わなかった。ただ、手帳を持っていた。
窓の外の王都に、細い雨が降り始めていた。薬光灯の消えた机の上で、七件目の原本だけが、病名の文字を内側に抱えたまま、静かに置かれていた。




