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「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第4章 診断書は、誰のために書かれたか

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第23話 処方箋42通のうち、1本だけが消えた

 42通のうち、1本だけ、薬袋の紐が違った。


 薬剤師ギルドの封印棚は、王宮の赤い封蝋で閉じられていた。ミシェル薬剤師長が差し出した棚番号をもとに、封印官が一つずつ薬袋を取り出す。白、白、白。どれも同じ形に折られ、同じ麻紐で結ばれている。


 42本、揃っていた。封蝋が乾く前に、1本が差し戻されていた。


 なのに、27番目だけ、青い紐だった。


「これは」


 リオンが小さく呟く。


「薬袋の交換跡だ」


 ミシェル薬剤師長の声は苦かった。


 セバスチャン様が薬袋を受け取る。手袋越しなのに、彼の指が少しだけ強張ったのが分かった。袋の口を開く前から、甘く苦い匂いがふわりと漏れる。


 昨日、カトリーヌ様が扇の陰で渡した便箋に残っていた匂いと同じだった。


「処方箋42通」


 私は手帳を開いた。


「そのうち1本だけが、別の薬袋に替えられている。時刻、午前10時34分。場所、薬剤師ギルド封印棚」


「正確に書くのは結構だがな、お嬢様」


 ミシェル薬剤師長が低く言った。


「これは、貴族の恋の薬ではない」


 セバスチャン様が薬袋を閉じた。


 薬光灯をつけるかと思った。けれど彼は、逆に灯を消した。白い光が消え、調剤室は急に古い木の色へ戻る。それだけ言い残して、彼は薬袋を手に調剤室を出た。扉が静かに、音を立てずに閉まった。


「セバスチャン様?」


 声は、扉の向こうへ届かなかった。


 また、扉が閉じる音がした。


 彼の中にある、私の知らない部屋。その扉の前に、私は立たされている。


 薬袋は見つかった。けれど、そこから先に続く道を、彼はまだ私に見せようとしなかった。



 薬光灯が消えたまま、調剤室には4人が残った。


 窓の外から、王都の朝市の声がくぐもって届く。荷馬車の軋み、石畳を踏む足音、遠くの物売りの声。封印官は書類へ日付を記し、乾いた羽ペンの音が一定の速さで続く。棚の古い木から、薬草と脂の混じった匂いがじわりと染み出している。


 私はミシェル薬剤師長を見た。


 彼は腕を組んだまま、棚の前で動かなかった。背が低いのに、薄い室内光が肩だけを硬く切り、石壁と同じ重さで立っていた。組んだ腕の奥の指が、何かを数えるようにかすかに動いている。


「薬剤師長」


 私は一歩、前に出た。


「この薬が棚へ戻ってきた日付を、伺えますか」


 彼の眉が深く刻まれた。答えの前に、視線がほんの少しだけ横へ逸れる。調剤台の隅。受け皿。廊下から保管庫へ移された灰皿が、今日もそこにあった。灰の白い塊が、前に来た時より多く積もっている。


 増えていた。


 初めてここへ来た日から、あの受け皿は気になっていた。薬名の末尾だけが読める、細い文字の燃え残り。今日は、それより多い量が静かに積もっている。


「お嬢様」


 リオンが袖を引いた。声は落としている。


「先日より、量が増えています。あの灰」


 私は手帳の端を押さえた。


 リオンがいつから数えていたのか、私には分からなかった。でも彼女は数えていた。私が言葉を記録するように、彼女は目で現場を記録していた。



「お水をいただけますか」


 リオンが保管庫の奥へ声をかけた。棚の影に立っていた見習いの少年が、静かに動く気配がした。


 少年は水差しを両手で持って戻ってきた。


 袖口が粉で白く、鼻先が緊張で赤い。背が低く、短い黒髪が薄い光を受けている。ミシェル薬剤師長の背後へ入る前に、受け皿の方を一度見た。それから私を見た。


 顔が白くなった。


「1本だけ、棚から出しました」


 言葉が漏れるように来た。目を伏せ、指先を袖口へ隠して。


「師匠に言われて。どこへ持っていくか、聞かないでくれと」


「いつのことですか」


「……商会の方が来た日の、次の朝です」


 ノエル様が商会信用院の控えを持参した日の翌朝。見舞金と薬代が同じ口座へ戻っていたと分かった、その翌朝。


「書いてよろしいですか」


 少年は頷いた。細い首が、ゆっくり折れる。


 私は書いた。日付。時刻。証言者。薬袋を取り出した棚番号と、持ち出し先を問われなかったという事実。それから、受け皿の灰を、増えている、と記した。


 凪いでいた、というのは半分だけ嘘である。ただ、怒りより先に羽ペンが動く。それだけのことだった。


 紙は燃える。だが、薬を棚から出した朝の記憶は、少年の中にまだあった。



 表へ出ると、セバスチャン様は門柱の脇に立っていた。


 春先の光が斜めに差し、灰色の外套の肩を白く切っている。銀のステッキを右手に持ち、こちらへ向き直る動作は自然だった。ただ、灰色の目の動きだけが、何かを先に測っていた。


「証言は取れましたか」


「日付のみ。薬名は見習いも知らなかったようです」


「そうでしょう」


 先を知っている人間の短さだった。


 リオンが礼を言って扉の内へ戻り、石畳に2人分の影が並ぶ。風が来た。薬草の匂いを含んだ、まだ冷たい空気だった。


「セバスチャン様」


 私は立ったまま言った。


「命に関わる薬が、誰かへ届けられました。その誰かは」


「今は、言えません」


「いつ言えますの」


 自分の言葉に、少し驚いた。語尾は崩れていない。声も震えない。ただ、普段より1つ分だけ、速かった。


「……順番を誤りました」


 彼の口癖だった。


 今日は笑えなかった。笑う前に、別のことを考えていた。順番、という言葉が、いつから彼の返答になったのか。その順番の中に、私が入れる棚と、入れない棚がある。


「承知いたしました」


 私は手帳を開いた。


「私が辿れる順番から、先に記します」


 受け皿の灰。消えた1本。見習いの証言。日付。棚番号。商会が来た日の翌朝。


 書きながら、指先が冷えていた。冷えていると気づいたのは、手帳を閉じてからだった。


「ヴェルティナ嬢」


 彼の声は、いつもより少しだけ低かった。


「明日、王宮から通達が届きます」


 羽ペンを止めた。


「家門名の自主提出期限。明日の昼です。期限前に名乗り出た家は非公開の聴取。期限後は、公聴会で名が開かれます」


 明日の昼まで。


 消えた薬袋の行き先は、まだ分からない。受け皿の灰の中に、薬の名前はもう読めない。それでも、明日の鐘が鳴る前に、誰かが名乗りを上げる。弱い家から。あるいは、切り捨てられた家から先に。


「ロベール様は」


「まだ決めていないと言っていました」


 私は空を見た。ギルドの屋根の向こうに、薄い雲が1筋横切っていく。


「いつか、あなたの順番が来ましたら」


 私は彼を向いた。


「私に、先に教えてください」


 セバスチャン様の目が、ほんの1拍だけ止まった。


 返事はなかった。ただ、銀のステッキが石畳をゆっくりと離れ、彼が半歩だけ、こちらへ向いた。


 半歩で止まった。


 その半歩が何を意味するか、私にはまだ分からなかった。分からないまま、手帳を胸の前で閉じた。


 明日の昼まで、誰かが決める。


 私にはまだ、決めていない問いがある。

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