第22話 七件目だけ、なぜ空欄なのですか
七件目だけ、名前がなかった。
王宮証言保全室の机に並べられた診断書一覧は、ひどく整っていた。一件目、家門名黒塗り。二件目、患者名黒塗り。三件目から六件目まで、病名と余命欄だけが読める。伏せられていること自体は、王宮の規則として理解できる。
けれど七件目は違った。
家門名も、患者名も、主治医署名の一部も、空欄だった。
黒く塗られているのではない。最初から、そこに何も書かれていない。
「事務上の欠落です」
書記官エリオット様が言った。
その声があまりに速く、私は顔を上げた。
エリオット様は三十代か、鼻梁の高い細面で、黒い制服の背筋が真っ直ぐだった。縦長の窓から午後の光が斜めに差し込み、彼の右手の羽ペンだけを白く照らしている。その指が、今日はずっと羽ペンの軸を少し強く握っていた。
「事務上の欠落で、診断書は発行されますの?」
「写しの段階で欠けた可能性があります」
「では、原本を」
「現在確認中です」
「確認中のものを、七件に数えたのですか」
エリオット様の羽ペンが止まった。
セバスチャン様は隣に立っていた。何も言わない。けれど、彼の視線は七件目の病名欄だけを避けているように見えた。
私は手帳の端を押さえる。
七件目。患者名、家門名、空欄。病名欄は未確認。王宮書記官、処理を急ぐ。セバスチャン様、沈黙。
書いてから、胸の奥が冷えた。
私はいつから、彼の沈黙まで記録するようになったのだろう。
「空欄は、空っぽではありませんわ」
私は言った。
「誰かが、そこを空けたのでしょう」
エリオット様は答えない。代わりに、一瞬だけセバスチャン様を見た。
その視線の短さが、どんな長い説明よりも不穏だった。
私はもう一度、一件目から六件目の余命欄を辿った。
「2」の払いが右へ少し流れ、書き終わりがわずかに急いでいる。セバスチャン様が薬光灯の下で見せてくれた、ベルナール医師の癖。六枚すべてに、同じ手の痕跡が残っていた。偽りの余命を、同じ速さで書き続けた誰かの跡が。
七件目だけ、その跡がない。
七件目の病名欄に手を伸ばしかけた時、セバスチャン様の白手袋の指先が、一度だけ止まった。止まって、引かれた。震えたとまでは言えない。けれど、止まる前と後で、指の位置が変わっていた。
「エリオット様」
声は穏やかに出た。穏やかなだけだった。
「写しが欠けたのであれば、原本と、写しを作成した者の記録が要ります。欠落した段階が明確なら、責任の所在はそこへ絞れますわ」
「……それは、証言保全室の管理規則に照らして」
「規則が、七件目を七件に数えましたの?」
エリオット様の耳が、制服の領に沿って赤くなった。
壁際で控えていたリオンが小さく息を呑んだ気配がある。白手袋の指先を袖口に重ね、動かないままでいる。室内の乾燥した紙の臭いが、長机の上で積み重なっている。
答えないのではなかった。答えられない色だった。
セバスチャン様が半歩だけ机へ近づいた。
「エリオット」
彼の声は、今日ここで一番低かった。私に向ける声でも、ミシェル薬剤師長を前にした時の声でもない。医師団主席が書記官に向ける、必要最小限の言葉だった。
「七件目の原本の保管先を、今日中に医師団宛へ通知されたい。病名欄が空欄であれば、医師団の照合義務が生じる」
エリオット様が羽ペンを机に置いた。
音は小さかった。だが部屋の乾いた空気の中で、その細さだけが際立った。
「……承知いたしました」
私は手帳を開いた。書記官エリオット、七件目原本の保管先を医師団へ通知と確認。時刻、午後2時17分。場所、王宮証言保全室。
羽ペンを止めた。
「セバスチャン様、七件目の病名欄を一度も見なかった」——そう書こうとして、書けなかった。記録すれば事実になる。事実にしてよい言葉と、今日の私にはまだ判断できない沈黙がある。
◆
廊下へ出ると、午後の光がもう傾いていた。
床の石目に沿って細い陽が走っている。壁の燭台に火は入っておらず、外廊下との継ぎ目に換気格子があり、そこから冷えた風が薄くひと筋差し込んでいた。石床の冷えが足元から這い上がる。セバスチャン様は廊下の壁側に立ち、銀のステッキを右手に収めていた。
リオンが扉の脇に控えて、白いハンカチを袖口に押さえている。
「七件目の原本が確認できた場合」
先に口を開いたのは私だった。
「病名欄はどなたが確認されますの」
「私が確認します」
即答だった。
「なぜ、セバスチャン様が」
「病名によっては、提出先が変わります」
「提出先のことではなく、なぜセバスチャン様でなければならないかを伺っております」
ステッキが石床を一打だけ鳴らした。音が天井を走り、戻ってくるまでの間、彼は黙っていた。廊下の冷えた空気が、彼の前髪を少しだけ揺らして、また静まる。
「……私が、最初に確認する必要がある可能性があります」
「可能性、と」
「はい」
続けようとして、喉の前で止めた。私がここで何を言えるか、どこまで言ってよいか、答えは出ていた。今日のセバスチャン様が七件目の前だけ言葉を短くしているのと、同じ理由で。
「承知いたしました」
彼がこちらを見た。
廊下の薄い光の中で、灰色の目の色が少しだけ変わった。驚きではない。先を譲られた人間の、不意打ちを受けた横顔だった。
「……七件目が確認でき次第、必ずお知らせいたします」
「それで構いません」
リオンが袖口のハンカチを一度だけ直した。廊下の奥で別の書記官が書類を抱えて通り過ぎ、赤い封蝋の一つが遠ざかった。
保全室へ戻る足音が、石床に刻まれていく。
歩きながら、気づいた。
今日の保全室の中で、セバスチャン様のステッキ音が一度だけ半拍遅れた瞬間があった。一件目、二件目と一定だった打音が、七件目の写しの前に差し掛かった時だけ、ほんの半拍、遅れた。
1回だけ。
記録しようとして、手帳を開かなかった。
9度分の夜会の発言を一言も逃さずに書いてきた手が、今日初めて、自分の動作を止めた。書いていいものと書いてはいけないものの境目が、今の私にはまだ分からない。けれど、分からないまま書かない、という選択も、問いの形をしていた。
廊下の角を曲がったところで、扇の音がした。
「あら、ヴェルティナ様」
カトリーヌ様は、春色の外套を軽くまとい、扇を半分だけ開いたまま立っている。社交会の廊下で偶然すれ違うには、少しだけ向きがよすぎた。待っていた人の向きだった。
「カトリーヌ様」
「ご苦労様でございましたわ。保全室は、空気が乾きますでしょう」
扇の陰から、折りたたんだ便箋が差し出された。白い紙に、香り付き封蝋の跡。受け取ると、かすかに甘く、どこか苦い匂いがした。
「七件目だけ、香りが違いますの」
それだけ言って、カトリーヌ様は扇を一度だけ鳴らした。踵を返す前に、口角だけが少し上がる。
「読むのはお一人の時に、ね」
足音が廊下の向こうへ消えた。
便箋を開かないまま、手帳の隣に挟む。薬草の甘苦い匂いが、革表紙に移った。
七件目の原本は、まだどこかにある。
その紙に何が書かれているか、今日の私にはまだ見えない。けれど今、手の中には別の紙があった。便箋の中の薬草名が、七件目の空欄と同じ場所へ続いているかどうかは、まだ分からない。
次は、原本だ。そして、この便箋だ。




