第21話 その患者の名を、彼はまだ言わない
セバスチャン様は、名前欄を手で覆った。
午後の鐘が鳴った直後の王立医療資料室は、想像していたよりも白かった。北向きの窓は1枚きりで、外の光は淡い。代わりに、長机の中央に置かれた薬光灯が、部屋の温度を奪っていた。青みを帯びた白い光が、机の紙だけを冷たく浮き上がらせている。
薬光灯。
その小さな灯具は、人の目には見えぬ薬の気配を、紙の上に白く浮かばせる。封蝋の薄い剥離も、消えた印影も、燃え残らなかったはずの記録も――この光の下では、1度だけ白くなる。
長机の上には、薬効照合表と、診断書の写しが数枚、並んでいた。リオンは「外で待ちます」と、廊下の椅子に控えている。資料室は本来、閲覧者と書記のみ。それでも、私が薬草臭で青ざめた時のために、扉のすぐ向こうに彼女がいる。
「写しを、お願いいたします」
セバスチャン様の声は、薬光灯の光に似ていた。淡く、輪郭だけが正確で、温度がない。
「こちらでございます」
代理書記の老人が、白い手袋で写しを差し出した。
セバスチャン様の長い指が、紙の上に置かれる。指の腹は紙にほとんど触れず、宙で文字を辿るような動き方をした。患者名欄。家門名欄。主治医署名欄。彼の手は、それぞれの欄を1度ずつ通り過ぎ、患者名欄の上で止まった。
止まったまま、覆った。
手のひらで、紙ごと隠した。
「その患者の名は」
「まだ、私の口からは言えません」
即答だった。
迷ったから出た声ではない。最初から言わないと決めていた人の声だった。
胸の奥に、小さな音がした。
傷ついた、というほど大きなものではない。ただ、信じていた扉の内側から、誰かにそっと鍵を掛けられたような音だった。
「守秘義務でございますか」
「はい」
「それとも、私に聞かせたくない名でございますか」
彼の指が、紙の上で1度だけ動いた。撫でたのではない。動いてしまったのを、気づいて止めた動きだった。銀のステッキは机の脚に立てかけられている。いつも彼の手の中にあるそれが少し離れているだけで、彼が私の知らないどこかに置き去ってきた一部のように見えた。
「両方です」
声を、低くする努力もしないで言った。
私は手帳を開きかけ、開かなかった。
記録すれば、これは証言になる。彼の言葉ですら、私の手帳の中で刃に変わってしまう。9度分の夜会の発言を数えてきた指先が、初めて、自分のこの動作を疑った。
◆
「ヴェルティナ嬢」
「はい」
「顔色が、悪い」
「薬の匂いのせいですわ」
「窓を開けます」
セバスチャン様は立ち上がり、銀のステッキを取って、部屋の奥の窓へ歩いた。窓枠を押し上げると、冷えた外気が薬草園の方角から入ってきた。土と、苦い葉と、僅かな硫黄の匂い。資料室の白い光に、わずかに緑の気配が差し込む。
「あなたの顔色が、薬光灯より正確に悪い」
「もう少し情緒ある言い方はございませんの」
「順番を、誤りました」
ほんの少しだけ、笑えそうになった。
半年ぶり、ではない。9度の夜会のあとから1度も笑っていなかった、笑い方の入口に、指先が触れた瞬間だった。
その瞬間、彼の横顔が、変わった。
窓枠に置いた手の甲。風に流された前髪。淡い灰色の目が、外の薬草園に向いて、止まっている。彼が今見ているのは、目の前の薬草園ではなかった。たぶん、別のどこかの庭の風だった。
「この匂いは」
彼が言った。
「好きではありません」
医師の声ではなかった。診断書を読み上げる時の、平らで正確な声でもなかった。立ち尽くしている誰かの声だった。
「セバスチャン様」
「申し訳ない。順番を、また誤りました」
彼は窓を半分閉めた。冷たい風が細くなり、白い光と緑の気配だけが部屋に残された。
◆
長机に戻ったセバスチャン様は、写しを薬光灯の真下に置き直した。
「ヴェルティナ嬢。余命欄をご覧ください」
「2か月、と」
「はい。この『2』の払いの跳ね方を、覚えていただけますか」
白い光の中で、彼の指が文字の輪郭をなぞる。私が短編の夜にジェフリー様から渡された、あの診断書の癖と同じ跳ねだった。同じ筆圧。同じ角度。同じ少し急いだ書き終わり。
「1人の医師の、いつもの癖です」
彼は言った。
「ですが、家門が違います」
私はようやく、手帳を開いた。承知いたしました、と内心でつぶやく癖が、口の手前で止まる。羽ペンを取って、書こうとして、止まる。
筆跡照合。同じ余命欄の癖。発言者、セバスチャン様。場所、王立医療資料室。
ここまでは、書けた。
その下に書こうとして、書けなかった一行があった。
セバスチャン様、患者名欄を手で覆う。発言、「両方です」。
羽ペンの先が、紙のすぐ上で止まっていた。
指先で、手帳の端を押さえる。いつもの仕草が、いつもより冷たい。彼の沈黙を記録するということは、彼の痛みも私の武器に変えるということだ。9度の夜会で、私は誰の言葉も逃さずに数えた。けれど、あれは数えてよい言葉だった。今、目の前にある沈黙は、数えてよい沈黙なのだろうか。
羽ペンを、置いた。
セバスチャン様が、こちらを見た。気配で分かった。
彼は何も言わなかった。けれど、置かれた羽ペンを彼が見ていることだけは分かった。私が「両方です」を書かなかったことを、彼は確かに見ていた。
◆
「お時間でございます」
代理書記の老人が、控えめに告げた。薬光灯の真下から、診断書の写しを引き抜く所作も、白手袋越しに丁寧だった。
セバスチャン様が、薬光灯を消した。
ぱちり、と小さな音がして、机の上の白さが消える。古い木の色が部屋に戻ってきた。緑の気配も、紙の上の薬の名残も、揃って引いていく。
「ヴェルティナ嬢」
「はい」
「今日、お聞きいただいた言葉のうち、1つだけお願いがあります」
「承知いたしました」
声に出してから、自分でも驚くほど、言葉が早く出たことに気づいた。
「『両方です』を、どうかお書きにならぬよう」
彼の声は、頼んでいた。
医師の声でも、婚約者の声でもなかった。9度の夜会で誰かに頼まれることに慣れていなかった私が、生まれて初めて、頼まれる側になった声だった。
「承知いたしました」
今度は、声がほんの少しだけ低くなった。
書かない、と約束したのではない。今は書かない、という意味で言った。彼にも、それは伝わったはずだ。彼は深く頭を下げず、ただ目を1度だけ伏せた。
◆
退出間際、扉の前にリオンが立っていた。袖口に白いハンカチを押さえている。私が出てくるのを廊下で待つ間、彼女の外套にも薬草の匂いが移ったらしかった。
「お嬢様、お顔色が」
「ええ。今夜のうちに、風通しを」
扉を抜けながら、私はもう1度だけ振り返った。
セバスチャン様は薬光灯の前に立っていた。灯はもう消えている。彼の片手は銀のステッキの握り、もう片方の手は、写しが置かれていた机の木目の上に置かれていた。覆ってはいなかった。けれど、紙のあった場所のすぐ上で、開くか閉じるかを決めかねている人の手の形だった。
その手の温度を、私はまだ知らない。9度の夜会で誰の言葉も逃さなかった私が、自分の婚約者の手の温度だけを知らなかったということに、扉を閉める寸前で気づいた。
石床に、銀のステッキの音が響いた。
今日は3歩目だけ、ほんの半拍、遅かった。それが今日初めて聞こえたのか、ずっと前からそうだったのか。私には分からなかった。
明日は、王宮証言保全室。
診断書7件の写しが並ぶ机に、私は手帳を持って向かう。けれど、書いてよい言葉と、書いてはいけない沈黙の間に、もう線が引かれていた。




