第20話 恋の見舞金と、商会の借用書
優しさは、金額で残ってしまう。
商会信用院の閲覧室に足を踏み入れた瞬間、私はそう思った。窓は小さく、外の王都の馬蹄の音が廊下越しに届く程度だ。長机、帳簿の山、乾いたインクの香り。室内は正午を過ぎた白い光で均一に照らされ、感情を持ち込む場所ではないという気配が隅々に染みていた。
調査官ノエル・バルザックは細面で、三十代か。目が静かで、清潔だが飾りのない服を着ている。金貨を数える人間の正確さで、帳簿を一冊ずつ机に置いた。
机を挟んで向かいに、ロベール様が座っている。兄ジェフリー様とよく似た輪郭だが、もっと硬い。きちんと結んだ襟元と、膝の上で白くなった手が、今日ここへ来るまでに何度も封筒を握り直したことを教えていた。
セバスチャン様は立ったまま、銀のステッキを机の端に立てかけた。リオンは私の斜め後ろに控えている。
「こちらが花屋の納品控え。こちらが神殿奉納費。こちらが薬剤師ギルドへの支払いです」
三枚の紙が、音もなく机に並べられた。
◆
私は手帳を開いた。花屋。神殿。薬代。書き始めて、羽ペンが一度だけ止まる。
ジェフリー様が「クラウディアが可哀想だから」と口にするたびに、社交界は同情で揺れた。その言葉が今、数字になって並んでいる。見舞い花の重さも、祈祷紐に込められた願いも、商会の秤には載らない。載らないものは、ここには残らない。
「兄は、見舞金だと思っていたはずです」
ロベール様の声は低く、机の木目へ向いたままだった。
「思っていたことは、帳簿には載りません」
ノエル調査官が答える。肯定でも否定でもない声だった。
そのくだりを責める気になれなかった、とはいえ感情がなかったかといえば、それは嘘だ。怒りの向きが定まらないだけで、胸の内側は静かではなかった。商会は愛を測らない。だからこそ、嘘も測れる。
「この薬代の番号を確認していただけますか」
セバスチャン様が帳簿の一枚を指した。白手袋の指先が、一行の数字を押さえる。医師の手だった。感情が混じらない。
「今朝、ミシェル薬剤師長が示した棚番号と一致します」
リオンが背後で小さく息を呑んだ。私も一瞬だけ筆が浮く。
ジェフリー様がクラウディア様のために払った薬代が、3番棚下段の処方箋番号と繋がっている。消えた薬袋が指し示す先に、見舞金の帳簿が座っていた。
ロベール様が、膝の上でゆっくりと拳を握った。
◆
「こちらの受取番号をご覧ください」
ノエル調査官がもう一冊の帳簿を開き、別の列を指した。花代。祈祷費。果実の配達料。それぞれ別の支払い者名で処理されているが、受取口座の番号が2か所で重なっている。
「同じ口座に戻っているのですか」
「重複、という言葉は正確ではありません」
ノエルが帳簿を閉じた。
「同じ口座を指定した請求書が、別の名義で提出されています。商会信用院では、資金循環の疑義として記録します」
ロベール様の顎の線が固くなった。目は机の上に落ちたまま、上がらない。
私は彼の横顔を見ていた。目の下に疲れがある。若い顔に、古い疲れが乗っている。崖の縁から家を見下ろす時の目に、今日は別の色が混じっていた。切り捨てた後に残る、家族の顔の重さだ。
「関連書類の受取人として、ハルザック商会の名はございますか」
ノエル調査官が帳簿を開き直した。長い指が列を下りていく。止まった。
「あります。仕入れ請求書の受取人として」
セバスチャン様が一度だけ銀のステッキの握りを親指で撫でた。それだけだった。
昨日の廊下の灰皿に燃え残っていた文字が「……ザック」だった。今日、商会の帳簿の中で「ハルザック商会」が現れた。見舞金の金が流れ、薬袋が消え、同じ名前が灰の中と帳簿の中に残っている。偶然という言葉は、こういう数字の前では軽すぎた。
◆
「ロベール様」
私は彼を正面から見た。彼の目がようやく机から上がる。兄と似ているのに、まったく別の重さをしていた。
「この借用書の署名は、ジェフリー様のものではございませんね」
机の端に封筒があった。今日彼が持参したそれ。折り目が深い。何度も閉じ、また閉じた跡。角から赤い封蝋が少しだけ覗いている。侯爵家の印紋。ジェフリー様の個人の封蝋ではない。
ロベール様の喉が動いた。
答えはなかった。
封筒は無言のまま机の上にある。彼が今日ここへ持ってきた。持ってきて、自分では開けられなかった。その事実は、長い沈黙より正直だった。
驚くべき場面だった。なのに私には驚きがなかった。ジェフリー様のためだけの借金にしては、最初の帳簿を見た時から額が大きすぎると感じていた。自分がいつからそう気づいていたか、ようやく分かった。
「お時間が必要でしたら」
「いいえ」
ロベール様が顔を上げた。目の下の疲れを隠す気がない目だった。
「父の名がある以上、私は被害者ではいられません」
封筒に手が伸びた。指先は震えていない。けれど、封筒の角を揃えようとして、揃えられなかった。
セバスチャン様が机の端のステッキを手に取った。それだけで、閲覧室の空気が変わる。踏み込まず、しかし離れない距離。
数秒遅れて気づいた。彼は、ロベール様が崩れた時に私が一人にならないよう、立つ場所を変えたのだ。
「兄の罪か、家の罪か」
ロベール様の声は静かで、その穏やかさが一番痛かった。
「今日の私には、まだ分かりません」
私は手帳を開く。
ロベール・ル・グレイス様、封蝋付き借用書を持参。署名確認未了。侯爵家印紋、封筒下端より確認。発言者、本人。時刻、午後0時41分。
書き終えて、羽ペンを置いた。
ノエル調査官が帳簿を一冊閉じた。乾いた音だけが部屋に残る。窓の外で馬蹄の音がした。正午を過ぎた白い光が長机の上を滑っていく。
商会の閲覧室は、恋でも憎しみでも動かない。数字だけがここにある。
恋の見舞金は、今ここで家門の借用書へ姿を変えようとしていた。
明日の昼までに、彼は選ばなければならない。その封蝋を割るかどうかを。
閲覧室を出る前に、一度だけ封筒の赤い封蝋を見た。侯爵家の印紋が、正午過ぎの白い光の中で、ほんの少しだけ暗かった。




