第19話 封蝋が乾く前に、薬剤師長は黙る
走らなかった。廊下を半歩速めただけだ。それでも、通り過ぎた書記の顔が驚きで固まった。
「鍵束を持っていないということは」
リオンが小声で続く。
「棚を開けるつもりがない、ということですわね」
私は答えなかった。答える前に角を曲がっていた。
薬剤師ギルドの保管庫は、照合室の廊下を一本進んだ先にある。重い扉が開いていた。蜜蠟の甘い匂いと棚の薬草の渋さが混ざって、扉の前まで届く。橙の火が保管庫の隅で細く燃えている。封蝋を溶かすための火だった。
ふと、廊下の受付台を確かめた。
あったはずの黒い小皿が、ない。
第17話の朝、まだ煙が上がっていた灰皿が——燃え残りごと、消えている。
ミシェル薬剤師長は棚の前に立っていた。鍵束は手にない。両手を腹の前で合わせ、背の低い身体を微動もさせずにいる。まるで古い城門のようだった。
「ミシェル薬剤師長。鍵を」
セバスチャン様の声は平らだった。
「知っておる」
「では」
「知っているから、黙っておる」
リオンが息を呑んだ。
私は手帳を開いた。薬剤師長ミシェル・ダヴィエ。封蝋前、鍵提出を拒否。時刻、午前11時2分。場所、薬剤師ギルド保管庫。廊下受付台の灰皿、移動済み。
そこまで書いて、羽ペンを止めた。
ジェフリー様の言い訳とは違う。甘えではない。何かを守る者の沈黙だった。だが、守るものが何であれ、燃えた紙は戻らない。
「黙れば、誰かが守られるのですか」
薬剤師長の肩がわずかに揺れた。
「お嬢様に、薬棚のことなど分からん」
「ええ。存じません。ですから、伺っております」
彼が初めて振り返った。顔の下半分に、乳鉢の白い粉が残っていた。今朝から仕事をしてきた人の顔だった。
「診断書も、薬草も、秤の目盛りも、私には分かりません。けれど、誰かの名を伏せるために誰かの病を使ったのなら、その言葉の責任は分かります」
赤い封蝋が溶け、棚札の前で膨らんだ。
蝋が乾けば、この棚は王宮のものになる。
薬剤師長は鍵を出さなかった。代わりに、番号だけを言った。
「3番棚、下から2段目。42通のうち、1本だけ、そこにはない」
◆
封印官が3番棚へ向かった。鍵を開け、一本ずつ数える。白い薬袋が棚板に並んでいる。麻紐で結ばれた同じ形のそれが、41本で終わった。
42本目は、ない。
セバスチャン様が棚板の端を指で辿った。指先が止まった場所に、薄く粉が積もっている。誰かが何かを抜いた後の、形だけが残っていた。
「いつ消えましたか」
薬剤師長は答えない。だが、その視線がわずかに動いた。棚の隅の小机へ。
そこに、黒い小皿があった。廊下から移された灰皿だった。焦げた紙片が灰の中に沈み、まだ煙の残り香が薄く漂っている。
「お嬢様」
リオンが小さく言った。白手袋を汚すまいと、袖を引く手を途中で止める。
「封蝋が、乾きます」
砂時計を見た。砂は半分を過ぎている。
保管庫の奥は、まだ誰のものでもなかった。
「見習いの方、お水をいただけますか」
リオンが声をかけた。柔らかい声が、石造りの部屋に不釣り合いだった。薬草で染みた手をした少年が水差しを持って近づいた。袖口が白い粉で汚れ、緊張すると両手で取っ手を持つ癖があるらしく、水が細く揺れている。
「ありがとうございます」
リオンが受け取りながら、小さく言った。
「廊下の灰皿は、いつ、ここへ」
少年の指が震えた。
「……今朝、師匠が。鐘が鳴る前に」
それだけ言い、口を閉じた。
今朝の鐘が鳴る前。王宮封印官が来る前。封蝋が届く前に——廊下の灰皿が保管庫に移され、紙が燃やされた。
灰皿に近づいた。薬草の焦げた臭いが細く漂う。灰の中に、燃え残った紙の端がある。そこに、文字があった。
……ザック……
薬名の末尾だけが、灰の中に白く残っていた。
「セバスチャン様」
振り返ると、セバスチャン様は3番棚の前にいた。薬光灯を棚板に向け、封印官の手元ではなく、粉の積もり具合をまだ確認している。
「灰皿に燃え残りがあります。……ザック、という文字が」
彼の手が止まった。次の瞬間、彼は灰皿のそばに来た。身を屈め、薬光灯ではなく自分の目だけで紙片を見る。珍しく、読むより確かめようとしている横顔だった。
「ハルザック」
セバスチャン様が静かに言った。
「薬名ですか」
「人の名に使われることがある語です」
背後で封印官の声がした。
「封蝋、乾燥確認。3番棚、封印完了」
砂時計が、空になっていた。
◆
保管庫を出る前に書いた。3番棚下段、処方箋42通のうち1本不在。廊下の受付台灰皿を今朝の鐘前に保管庫内へ移動、燃え残りの紙片あり。文字「……ザック」——人名「ハルザック」の末尾と推察。封蝋乾燥完了、午前11時19分。
ミシェル薬剤師長は出口のそばに立っていた。鍵束を握ったまま、通路の石壁を見ている。
その前を通り過ぎようとして、足を止めた。
「ミシェル薬剤師長」
「……」
「棚番号を、ありがとうございました」
薬剤師長は答えなかった。ただ、鍵束を握る手の力が、少しだけ緩んだように見えた。
廊下へ出ると、セバスチャン様が封蝋乾燥時刻の横に数字を書き加えた。
「17分」
「何を計っていたのですか」
「封蝋が乾くまでの時間を、考えていました」
一度だけ私を見た。灰色の目が、珍しく迷うように動いた。
「封蝋が乾く前の17分に、棚の記録は差し替えられます。今朝の鐘前に紙を燃やし、廊下の灰皿ごと動かせば——何が消えたかは、もう廊下には残らない」
誰かは、それを知っていた。
廊下は薄暗い。石床が足音を吸い、遠い窓から午前の光が差している。リオンが後ろで小さく咳払いをした。ハンカチを袖口に当てている。廊下へ出てから3度、白い布で押さえていた。薬草の臭いが外套に移ったのだろう。
「ハルザックとは、商会の名に使われる語ですか」
「使われることがあります。ただ」
セバスチャン様の言葉が途切れた。銀のステッキが石床を打つ音が、いつもより1打分遅れた。
「確認が必要です」
また、その言葉だった。正しかった。正しいから、私は何も返せない。
廊下の遠い窓から、午前の光が差している。リオンのハンカチがその光の中でゆっくりと揺れた。白く、薄く、薬草の臭いを孕んで。
次は、商会だ。
ハルザックという名が、花代と薬代と同じ口座へ流れているなら——それはもう名前ではない。金の出口の名だ。
私の親指が、閉じた手帳の表紙を押さえた。見えない記録を、確かめるように。




