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「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第4章 診断書は、誰のために書かれたか

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第19話 封蝋が乾く前に、薬剤師長は黙る

 走らなかった。廊下を半歩速めただけだ。それでも、通り過ぎた書記の顔が驚きで固まった。


「鍵束を持っていないということは」


 リオンが小声で続く。


「棚を開けるつもりがない、ということですわね」


 私は答えなかった。答える前に角を曲がっていた。


 薬剤師ギルドの保管庫は、照合室の廊下を一本進んだ先にある。重い扉が開いていた。蜜蠟の甘い匂いと棚の薬草の渋さが混ざって、扉の前まで届く。橙の火が保管庫の隅で細く燃えている。封蝋を溶かすための火だった。


 ふと、廊下の受付台を確かめた。


 あったはずの黒い小皿が、ない。


 第17話の朝、まだ煙が上がっていた灰皿が——燃え残りごと、消えている。


 ミシェル薬剤師長は棚の前に立っていた。鍵束は手にない。両手を腹の前で合わせ、背の低い身体を微動もさせずにいる。まるで古い城門のようだった。


「ミシェル薬剤師長。鍵を」


 セバスチャン様の声は平らだった。


「知っておる」


「では」


「知っているから、黙っておる」


 リオンが息を呑んだ。


 私は手帳を開いた。薬剤師長ミシェル・ダヴィエ。封蝋前、鍵提出を拒否。時刻、午前11時2分。場所、薬剤師ギルド保管庫。廊下受付台の灰皿、移動済み。


 そこまで書いて、羽ペンを止めた。


 ジェフリー様の言い訳とは違う。甘えではない。何かを守る者の沈黙だった。だが、守るものが何であれ、燃えた紙は戻らない。


「黙れば、誰かが守られるのですか」


 薬剤師長の肩がわずかに揺れた。


「お嬢様に、薬棚のことなど分からん」


「ええ。存じません。ですから、伺っております」


 彼が初めて振り返った。顔の下半分に、乳鉢の白い粉が残っていた。今朝から仕事をしてきた人の顔だった。


「診断書も、薬草も、秤の目盛りも、私には分かりません。けれど、誰かの名を伏せるために誰かの病を使ったのなら、その言葉の責任は分かります」


 赤い封蝋が溶け、棚札の前で膨らんだ。


 蝋が乾けば、この棚は王宮のものになる。


 薬剤師長は鍵を出さなかった。代わりに、番号だけを言った。


「3番棚、下から2段目。42通のうち、1本だけ、そこにはない」



 封印官が3番棚へ向かった。鍵を開け、一本ずつ数える。白い薬袋が棚板に並んでいる。麻紐で結ばれた同じ形のそれが、41本で終わった。


 42本目は、ない。


 セバスチャン様が棚板の端を指で辿った。指先が止まった場所に、薄く粉が積もっている。誰かが何かを抜いた後の、形だけが残っていた。


「いつ消えましたか」


 薬剤師長は答えない。だが、その視線がわずかに動いた。棚の隅の小机へ。


 そこに、黒い小皿があった。廊下から移された灰皿だった。焦げた紙片が灰の中に沈み、まだ煙の残り香が薄く漂っている。


「お嬢様」


 リオンが小さく言った。白手袋を汚すまいと、袖を引く手を途中で止める。


「封蝋が、乾きます」


 砂時計を見た。砂は半分を過ぎている。


 保管庫の奥は、まだ誰のものでもなかった。


「見習いの方、お水をいただけますか」


 リオンが声をかけた。柔らかい声が、石造りの部屋に不釣り合いだった。薬草で染みた手をした少年が水差しを持って近づいた。袖口が白い粉で汚れ、緊張すると両手で取っ手を持つ癖があるらしく、水が細く揺れている。


「ありがとうございます」


 リオンが受け取りながら、小さく言った。


「廊下の灰皿は、いつ、ここへ」


 少年の指が震えた。


「……今朝、師匠が。鐘が鳴る前に」


 それだけ言い、口を閉じた。


 今朝の鐘が鳴る前。王宮封印官が来る前。封蝋が届く前に——廊下の灰皿が保管庫に移され、紙が燃やされた。


 灰皿に近づいた。薬草の焦げた臭いが細く漂う。灰の中に、燃え残った紙の端がある。そこに、文字があった。


 ……ザック……


 薬名の末尾だけが、灰の中に白く残っていた。


「セバスチャン様」


 振り返ると、セバスチャン様は3番棚の前にいた。薬光灯を棚板に向け、封印官の手元ではなく、粉の積もり具合をまだ確認している。


「灰皿に燃え残りがあります。……ザック、という文字が」


 彼の手が止まった。次の瞬間、彼は灰皿のそばに来た。身を屈め、薬光灯ではなく自分の目だけで紙片を見る。珍しく、読むより確かめようとしている横顔だった。


「ハルザック」


 セバスチャン様が静かに言った。


「薬名ですか」


「人の名に使われることがある語です」


 背後で封印官の声がした。


「封蝋、乾燥確認。3番棚、封印完了」


 砂時計が、空になっていた。



 保管庫を出る前に書いた。3番棚下段、処方箋42通のうち1本不在。廊下の受付台灰皿を今朝の鐘前に保管庫内へ移動、燃え残りの紙片あり。文字「……ザック」——人名「ハルザック」の末尾と推察。封蝋乾燥完了、午前11時19分。


 ミシェル薬剤師長は出口のそばに立っていた。鍵束を握ったまま、通路の石壁を見ている。


 その前を通り過ぎようとして、足を止めた。


「ミシェル薬剤師長」


「……」


「棚番号を、ありがとうございました」


 薬剤師長は答えなかった。ただ、鍵束を握る手の力が、少しだけ緩んだように見えた。


 廊下へ出ると、セバスチャン様が封蝋乾燥時刻の横に数字を書き加えた。


「17分」


「何を計っていたのですか」


「封蝋が乾くまでの時間を、考えていました」


 一度だけ私を見た。灰色の目が、珍しく迷うように動いた。


「封蝋が乾く前の17分に、棚の記録は差し替えられます。今朝の鐘前に紙を燃やし、廊下の灰皿ごと動かせば——何が消えたかは、もう廊下には残らない」


 誰かは、それを知っていた。


 廊下は薄暗い。石床が足音を吸い、遠い窓から午前の光が差している。リオンが後ろで小さく咳払いをした。ハンカチを袖口に当てている。廊下へ出てから3度、白い布で押さえていた。薬草の臭いが外套に移ったのだろう。


「ハルザックとは、商会の名に使われる語ですか」


「使われることがあります。ただ」


 セバスチャン様の言葉が途切れた。銀のステッキが石床を打つ音が、いつもより1打分遅れた。


「確認が必要です」


 また、その言葉だった。正しかった。正しいから、私は何も返せない。


 廊下の遠い窓から、午前の光が差している。リオンのハンカチがその光の中でゆっくりと揺れた。白く、薄く、薬草の臭いを孕んで。


 次は、商会だ。


 ハルザックという名が、花代と薬代と同じ口座へ流れているなら——それはもう名前ではない。金の出口の名だ。


 私の親指が、閉じた手帳の表紙を押さえた。見えない記録を、確かめるように。


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