第17話 紙は燃えても、薬は忘れるのか
薬草の匂いは、扉の外まで来ていた。
王都東区、薬剤師ギルドの正面扉が開いた瞬間、私の喉が詰まった。甘く苦く、乾いた草の気配。それは社交界の香水でも、紅茶の湯気でもなかった。もっと実直な何かだった。手帳のインクや封蝋とも違う。薬は正直だ、と後から思った。主人の都合で匂いを変えない。
天井まで続く薬棚が、廊下の奥まで並んでいる。白い薬袋が整然と積まれ、冬の朝の横からの光が棚の縁を細く切り取っていた。見習いらしい若い薬剤師が2人、入口の脇に立っていた。私たちを見た瞬間、1人がはっきりと体を強張らせた。断罪に来た者を迎える身体の動きだった。
「王宮証言保全室からの命令書です」
セバスチャン様が書類を差し出した。声は平らで、怒ってもいない。ただ正確な声だった。
見習いの1人が命令書を受け取り、奥へ走る。もう1人が私を見た。令嬢が薬棚に来た、という目だった。診断書も読めない娘が記録を荒らしに来た、と書いてある顔だった。
リオンが小声で言った。
「この匂い、衣装に残ります」
「三日で取れます」
戻ってきた見習いが真顔で返した。リオンが何か言おうとして、止まった。正確すぎる答えの前で言葉を失うときの顔だった。
私は手帳を開く。到着時刻、午前10時47分。薬剤師ギルド正面玄関。
そこで羽ペンが一度止まった。
廊下の奥、受付台の横に黒い小皿があった。灰皿だった。白く積もった燃え残りの上から、まだ薄く煙が上がっている。
セバスチャン様が無言で、私の肩の少し前へ出た。窓側に近い方へ、ごく自然に。匂いが薄くなる場所へ。言葉ではなかった。
◆
薬剤師長室は、思ったより狭かった。
机の上に乳鉢と秤。壁の棚に鍵束が幾つも掛かっている。南向きの窓は閉じられ、冬の光が斜めに机の端だけを照らしていた。ミシェル・ダヴィエ薬剤師長は背中を向けて棚の前に立っていた。白い頭髪が短く刈られ、肩幅が狭い。それでも動かない。古い城門のような立ち方だった。
「処方箋の控えを提出していただけますか」
セバスチャン様が言った。
「診断書は見ておらん」
答えは速かった。聞かれる前から用意していた声だった。
「薬剤師は処方箋を見る。診断書を見るのは医師の仕事だ」
「では、処方箋には何と書かれていましたか」
私が聞いた。
薬剤師長の肩がわずかに動いた。振り返りはしなかった。鍵束を握り直すような、小さな動きだった。
「薬の名と量だけだ」
「その薬は」
「医師が書いた病のための薬だ。それだけだ」
棚の鍵束が一つ、かちりと音を立てた。
セバスチャン様はすぐには口を開かなかった。私も開かなかった。押せば崩れる壁ではないと、2人とも分かっていたのだと思う。彼は乳鉢の横の秤へ目を向け、目盛りを数えるように視線を動かした。秤は何も載せていないのに、きちんと水平だった。
薬剤師長ミシェル・ダヴィエ。乳鉢に刻まれた薬草の香り。鍵束を握る、赤く節張った手。悪人の手ではなかった。長く薬棚の前に立ってきた人間の手だった。
私は手帳に書く。時刻、午前11時3分。薬剤師長、処方箋控えの提出を拒否。診断書は未確認と発言。
書き終えて、手帳を閉じた。
「承知いたしました。では、調剤室だけ、見せていただけますか」
◆
調剤室は石床で、足音が響いた。
白い薬袋が棚の列に並んでいる。麻紐で結ばれ、番号を振られていた。見習いの1人が先に立って歩き、処方箋の保管棚を示した。灰皿はここには置かれていない。廊下のものを遠く離れているのに、甘く苦い草の気配だけが、どこからか薄く漂ってきた。
私の鼻が正直に反応した。喉の奥が詰まる。けれど、白手袋の指先だけは手帳の端を押さえたまま離さなかった。
「棚の番号に、抜けがございます」
リオンが棚の端を指した。処方箋の番号が振られた引き出し札が、3か所だけ欠けている。見習いが「紛失です」と答えた。声が少し速かった。
セバスチャン様が棚の前に立ち、白い薬袋を1つ持ち上げた。手袋越しに封を確かめ、ゆっくりと袋の口元へ顔を近づける。息を吸う。数秒、止まる。
「これは」
彼が言った。声が変わった。医師の声になった。
「処方箋42通の匂いではありません」
調剤室が、ぴたりと静かになった。
見習いが何か言いかけ、やめた。リオンが私を見た。私はセバスチャン様の横顔を見ていた。窓からの光が当たって、表情の半分だけが見える。難しい顔ではなかった。ただ、何かを読んでいる顔だった。
私は廊下の灰皿を思い出した。まだ煙が上がっていた、あの燃え残り。白く積もった灰の下に、何か別の色があったような気がした。確かめに戻れるかは分からない。封蝋が入れば、棚も廊下も王宮のものになる。それまでに、何があるか。
紙は燃やせる。
けれど、薬は自分の行き先を匂いで覚えている。
私は手帳を開いた。調剤室。処方箋番号、欠番3か所。セバスチャン様発言、「処方箋42通の匂いではない」。時刻、午前11時19分。
書き終えて、一度だけ顔を上げた。
灰皿の燃え残りに、まだ何かが残っているとしたら。紙が燃えても、薬の名前は残る。名前が残れば、行き先が見える。
次に確かめることは、一つだけだった。




