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「連載版」余命半年の幼馴染と添い遂げたい? 承知いたしました  作者: 夢見叶
第3章 病人を疑った令嬢、という噂が走る

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第16話 カトリーヌの扇は、王宮の名を隠していた

 カトリーヌ邸の奥に、来客をほぼ通さない小サロンがある。ヴェルティナがそこへ案内されたのは今日で2度目だった。壁一面の棚には古い社交手帖が並び、陽の差し込みは細く、蜜蝋の香りと埃の記憶が混ざっている。昼過ぎの光が斜めに床を切り、テーブルの端だけを白く染めていた。


「椅子は音が出ますの。ゆっくり引いてくださいませ」


 カトリーヌが言う。声は低い。いつもの茶会での鈴のような響きとは別物だ。小柄な体を棚の前に立て、今日の扇を左手に持っていた。白ではなく、薄墨色だった。


 ヴェルティナはゆっくりと椅子を引き、腰を下ろした。


「地図、でございますの?」


「地図と呼ぶには礼儀が足りない紙ですけれど」


 カトリーヌが扇を開く。その陰に隠すようにして、小さな羊皮紙を取り出した。手のひら半分ほどの紙に、点と線が並んでいる。赤が3つ。黒が5つ。線がそれらをつなぎ、右端の一点で止まっていた。


「赤が、言い換えた場所です。黒が、最初の文言のまま繰り返した場所」


 ヴェルティナは身を乗り出さなかった。声が出なかった。


「第1回が白百合サロン。病人を疑った令嬢。第2回が翌日の刺繍の会。過剰な疑いを持つ令嬢。第3回が朝刊。過剰な証言者。言い換えが入るたびに、語が……王宮の書類に似ていくのです」


「過剰な証言者、は」


「王宮の証言保全室が、証言の重みを下げる際に使う分類語ですわ。エリオット書記官の提出書類にも、同じ語が入っておりました」


 視線で地図を辿る。右端の一点の横に、小さく文字が添えてある。


 王宮記録局。


 声に出した瞬間、手帳の表紙の角に指先が触れていた。革が小さく軋む。


「侯爵夫人が、王宮と」


「いいえ」


 カトリーヌが首を振った。薄墨色の扇を閉じる音が、静かな部屋に一度立つ。


「侯爵夫人は作っておりません。渡された言葉をお読みになっただけ。語の精巧さが、彼女の知識量を超えておりますの」


 ヴェルティナは椅子の背に触れたまま、しばらく動かなかった。

 侯爵夫人を追えば終わりだと、思っていた。出所は社交界の内側にあると、思っていた。


 怒りを準備していた、というのは正確ではない。ただ、来ると思っていたものが来なかった。来たのは、怒りよりも前にある、もっと深いところに根を張った何かだった。


「この地図、お借りできますか」


「お預けします。ただし」


 カトリーヌの目が入口の扉へ向いた。鳶色の瞳が、今日は少し緊張している。


「持ち出す時は、茶会の礼状の内側へ。扇の骨の本数より、礼状の紙の重さで運んでください」


 ヴェルティナは頷いた。少し遅れて、それがカトリーヌなりの細心であると気づいた。



 夕刻の応接間に、4人が集まった。


 蝋燭を2本つけただけの部屋で、リオンが書類を並べていく。手帳、朝刊の切り抜き、同席札の控え、侍女日誌の該当ページ。卓の上が書類で埋まるにつれ、橙色の光がそれぞれの紙の上で揺れた。


 セバスチャンは立ったままだった。ステッキを右手に、左手をテーブルの縁に添えて、並ぶ書類を見下ろしている。今夜は珍しく疲れの色がある。瞳が朝刊の切り抜きで一度止まり、それから侍女日誌へ移った。


「文言が一致します」


 全員が書類を確認し終えた後で、彼が口を開いた。


「朝刊の過剰な証言者。同席申請却下の書類に使われた語。カトリーヌ様の地図にある分類語。3か所で同じ言葉が出ています」


「偶然ではない、と」


 リュカが壁際から問いを投げた。腕を組み、足を床に揃えている。


「過剰という修飾は、証言の価値を下げる際の技術語です。通常の社交界の語彙には出てきません」


 セバスチャンが朝刊の端を指で押さえた。


「次に、同席札です」


 リオンが小さな紙を2枚、卓に並べる。


「先週の面会時の控えです。第1枚と第2枚で、インクの乾き方が違います。第2枚の同席者名欄だけ、滲んだように色が濃い」


「書き直した、と」


 ヴェルティナの声は、自分でも分かるほど落ち着いていた。


「後から書いた場合、羊皮紙の吸い込みが変わります。時間差があれば残り方が違う。これは記録の改竄に使われる手です。ただ、これだけでは証明にはなりません。ただ」


 セバスチャンが手帳へ目を向けた。


「この1週間の発言者記録、侍女日誌の記録時刻、朝刊記事、地図。全部が同じ方向を向いています。向かっているのは侯爵家ではなく、その後ろです」


 部屋が静かになった。蝋燭の火が窓からの風でわずかに傾く。


 ヴェルティナは手帳を開いて、最後の1行を書いた。


 第16日目。応接間。全員が同じ卓につく。


「王宮を敵に回す可能性がある、ということか」


 リュカが言った。


「可能性の段階です。次に動く方向は決まっています。診断書7件の照合を、王立医師団ではなく薬剤師ギルドへ申請します。経路を変えることで、改竄があった場合に見えやすくなる」



 見送りは短かった。


 廊下の幅は狭く、蝋燭が壁を黄色く染めている。リュカはすでに馬車へ向かい、廊下にはセバスチャンとヴェルティナだけが残った。扉の向こうにリオンの気配がある。閉めずに控えている。


「今夜はありがとうございました」


 ヴェルティナが礼を述べた。完璧な角度で。


 セバスチャンがステッキを右手から左手へ持ち替えた。それから帽子に手をかける。動作の順が、いつもと逆だった。ふだんは帽子が先だ。


 1秒経って、ヴェルティナはその意味に気づいた。

 右手を、空けようとした。

 そして、止めた。


「……一つ、申し上げてもよいですか」


「どうぞ」


「7件の診断書のうち」


 彼の声がわずかに落ちた。廊下の黄色い光の中で、輪郭のはっきりした顔に真剣な色が混じる。


「7件目だけ、家名欄が塗り潰されています」


 手袋の布地を、内側から小指が押した。手帳は持っていない。押す先が見つからなかった。


「医師名はある。日付もある。症状名もある。ただ、誰の家の誰なのかだけが、黒く消されている。滲みや汚れではありません。意図して塗ったものです」


「……塗った者が、いる」


「ええ。証言保全室の元台帳に照合できる記録が残っていれば、家名を辿れます。薬剤師ギルドへの申請と並行して、そちらも確認します」


 彼は続けなかった。

 続けなくても、ヴェルティナには聞こえた。


「二人きりではございません」


 扉の向こうからリオンが律儀に声を出した。


「証人として記録します」


 セバスチャンが真顔で返した。


 1拍の沈黙があった後、ヴェルティナは扇のない手で口元を一度おさえた。それだけだった。


「ありがとうございます」


 と言ったとき、自分でも知らない温度になっていた。恐怖の続きでも、安堵でもなかった。もっと別の、名前を持っていない温度だ。


 セバスチャンが一礼して、廊下を歩いていく。靴音が遠くなる。夜の冷気が入口から滑り込んで、蝋燭を一度揺らした。


 7件目だけ、家名が塗り潰されている。


 手帳がなくても、その言葉は逃げなかった。


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