第14話 朝刊は誰のために泣くのか
朝刊が、朝食室のテーブルの端に裏向きで置かれていた。
父の仕業だ。いつもは中央に畳まれる紙が、今朝は卵料理の皿の陰に半分だけ滑り込んでいる。気づかせない気でいる。気づかせたくないのに、自分では取り除けない。そういう人だ、父は。
「お読みになりましたか」
父は杯を口へ運ぼうとして、止めた。返事をしなかった。それが答えだった。
私は自分の手でひっくり返した。
三段目。囲み記事。署名なし。
――王宮調査を動かした伯爵令嬢の訴えに、社交界から疑義の声。「過剰な証言者」との見方も。
8行。名前はない。名前を書かなくても、誰のことか分からない者はいない。
「過剰な証言者」。
私は三度、その5文字を目でなぞった。
社交紙の書き手が選ぶ語ではない。「行き過ぎた訴え」「放言」「礼を欠く申し立て」ならまだ分かる。しかし「過剰な証言者」は、文書を分類する者の言い回しに似ていた。
指先が止まった。声が出なかった。
「ヴェルティナ様、お茶を替えます」
リオンの声が静かに落ちてきた。紅茶はまだ湯気が立っていた。それでも替える。私が気づいていない振りをしていてほしい時だけ、彼女は手の届くものを動かす。今朝はその癖が、三度目だった。
「記事は明日には忘れられる」と父が言った。「こういうものは」
穏やかな声だった。穏やかなだけに、心配が透けた。
「ええ」と私は言った。「忘れた人間からは、記録できませんから」
父は何も言わなかった。
私は引き出しを開け、小刀を取り出した。8行分を、紙の端に沿ってゆっくり切り出す。力を入れすぎない。引き裂かないように、繊維に沿って。
破かない。逃がさない。
切り抜きを、手帳の最終ページに挟んだ。
テーブルの上に残った朝刊の穴が、窓からの朝光を透かして白く光った。
◆
午後、セバスチャンが来た。
名誉保全の同席記録、定例手続きが表向きの理由だった。同席はリオン。扉は規定通り開いたまま。彼は入室すると椅子の位置を確かめ、脚を引いて止めた。3回。どの部屋でも同じ回数だと、今は知っている。記録に耐える距離を、彼は毎回自分で測る。
長身が椅子に収まると、部屋が少し狭くなった気がした。亜麻色の髪が室内の光を受け、いつもより明るく見える。灰色の目が、私の手帳の位置へ一瞬だけ向いた。
「朝刊はご覧になりましたか」
先に聞いたのは彼だった。
「ええ」
「切り抜きましたか」
「ええ」
短いやりとりが一拍、室内に浮いた。彼は頷いた。続きを聞かなかった。代わりに声を少し低くした。
「王宮へ用がありましたので、ついでに確認してきました。書記官のエリオット殿に、朝刊の語について」
私はカップを置かずにいた。
「『過剰な証言者』という言い回しを、どこかでお読みになりましたかと訊ねました」
「なんと仰いましたか」
セバスチャンの口元が、ほんの少しだけ引き締まった。
「台帳を閉じました。2秒で」
ステッキの握りを、親指の腹で撫でた。
「それから」と彼は続けた。「『その分類語は、まだ外へ出ていないはずですが』と」
部屋が静かになった。
リオンが、扉の枠の陰で気配を消した。聞こえていて、聞こえていない振りをしている。
「外へ出ていないはずだった」
私は声に出した。低く、ゆっくりと。
「ええ。しかし、出ていた」
証言保全室の内部語が、朝刊の記事に使われた。偶然とは考えにくい。外と内の両方を知る者が、どこかにいた。
エリオット殿が意図的かどうかは、まだ分からない。台帳を閉じたのは反射かもしれない。ただ「まだ外へ出ていないはずですが」という言葉は、意図とは無関係に発せられた。発せられた言葉は、残る。
私は手帳を開き、今日の日付を書いた。来訪者名。同席者名。扉の開閉状態。一行空けて、小さな字で書き加えた。
――「その分類語は、まだ外へ出ていないはずですが」 エリオット殿・発言。セバスチャン殿より聴取。
ペンを置くと、セバスチャンが静かに口を開いた。
「……今朝の記事を見た時、どうでしたか」
聞き方が、らしくなかった。彼はいつも手続きの話から始める。今日は先に、そちらを聞いた。
「破こうとは思いませんでしたか」
私は手帳の背を、指先で押さえた。
正直に言えば、記事を読んで数秒は何もできなかった。小刀を取り出したのは、その後だ。手帳を閉じたくなったのは、さらにその前の一瞬だけだった。
「思いませんでした」
嘘ではない。破くという発想が浮かぶ前に、手が動いた。
セバスチャンが、ゆっくり頷いた。「そうですか」とだけ言って、申請書類の続きに目を戻した。
少し後で気づいた。
あれは確認だったのかもしれない。手続きの言葉ではなく、もっと直接的な何かが、順番を間違えて出てきた。私が壊れていないかどうかの、不器用な確かめ方だった。
◆
夕刻、窓が赤く染まる頃、私は切り抜きを手帳に挟み直した。
朝に挟んだ場所では、他の記録と重なってしまう。今日の記録のすぐ後に、並べて置く。
リオンが蝋燭を運んできた。卓に置いてから、振り返った。
「お嬢様、今日はお気持ちは」
「平気ではありません」
彼女の目が、少しだけ丸くなった。私が「平気です」と言わなかったからだろう。
「悔しいです。貴族街の外にまで、あの語が出た」
自分でも驚くほどすんなりと言葉が出た。
悔しい。しかし、切り抜いてしまえば後は静かになった。手帳を閉じたくなったのは、記事を読んだ最初の一瞬だった。
リオンが蝋燭に火をつけた。橙の光が、革表紙をゆっくり照らした。
机の隅に、封を開けていない招待状がある。今日の午前に届いた。差出人は侯爵夫人ではなかった。別の名前だった。
文面を読まなくても、型は分かる。
病を前に出す場所へ、もう一度私を連れ出す趣向だ。
祈る。また、祈る。
クラウディア嬢の白い祈祷紐を、先の慈善婦人会でちらりと見た。結び目が、新しかった。信仰が深ければ擦り切れるはずの紐が、まだ白く、まだ固かった。祈祷台帳には、誰がいつ何を奉納したかが残る。
私は封を開けずに、招待状を手帳の外に置いた。
明日の朝、返答を書く。出席か欠席か、それも記録になる。
蝋燭の火が揺れた。
「過剰な証言者」は、まだ外へ出ていないはずの言葉が、もう貴族街の外まで配られている。どこかで誰かが、急いでいる。
ただ、一度紙になった言葉は、もう誰にも消せない。
それは私の切り抜きも、朝刊の活字も、同じことだ。




