第13話 言い返したい言葉は、同席札の前で止まる
「公爵令息様とは、いつから親しくしていらしたの?」
茶会の最初の毒は、砂糖菓子より白かった。
白百合サロン。正午を過ぎた光が3枚の縦窓から斜めに差し込み、白磁のティーセットをいやに柔らかく照らしている。中央の席へ案内されたとき、私はそこが逃げ場のない配置だと理解した。背後は壁。両隣に薄桃色のドレスが揃い、笑顔が揃い、扇が揃っている。
質問した夫人は、心配そうな顔をしていた。心配という表情は便利だ。どんな刃も、柔らかい布で包めば見えにくくなる。
「カランデール公爵令息様のことですか」
「ええ。王立医師団の主席でいらっしゃるのでしょう? クラウディア様のことをお疑いになったのも、あの方のお力添えがあってのことだとか」
「力添え」
私はその言葉を、舌の上で一度だけ転がした。
力添え。庇護。囲い込み。乗り換え。
噂は、同じ道を歩きながら、靴だけを履き替えていく。
「医師団主席として、診断書の不審を確認していただきました」
「まあ、では私的なことではございませんのね」
「私的なことでは、ございませんわ」
そう答えた瞬間、扉の外で銀のステッキの音がした。1度。硬く。サロンの空気が、ほんの少しだけ変わった。
セバスチャン様が入口に立っていた。
亜麻色の髪が午後の光を受けてかすかに金に見える。淡い灰色の目に、感情を削ったような整った顔。薄桃色や白で埋まったサロンの中に、紺の上衣が1点だけある。彼は口を開いていない。けれど、右手の指がステッキの握りを一度だけ撫でたのを、私は見てしまった。
彼は怒っている。
私のために。
その事実だけで、胸の奥に温かいものが落ちる。けれど同時に、怖くなる。彼が今、私を庇えば。私は本当に、公爵家に守られた冷たい令嬢になる。
カトリーヌ様が彼の斜め後ろに立っていた。白扇を胸元で静かに閉じながら、私と視線を合わせた。その目が言っている。待ちなさい、と。
「ヴェルティナ嬢」
彼が一歩、踏み出した。
夫人たちの扇が、わずかに開く。待っているのだ。公爵令息が、私のために声を荒げる瞬間を。そうすれば明日の朝には、別の噂が生まれる。
それは私への攻撃ではなく、セバスチャン様への攻撃だった。
私は立ち上がり、窓辺へ向かった。礼儀としての距離。会話としての距離。疑われないための距離。彼のいる入口を迂回しながら、窓の外の庭へ顔を向ける。
すれ違う瞬間、私は彼の袖に触れかけて、触れなかった。白手袋の中の指が、空を握った。
「お声を、お抑えくださいませ」
彼の目が、初めて揺れた。灰色の瞳がわずかに細くなる。怒りではない。それより奥にあるものが一瞬だけ表面へ出た。名前のつけにくい感情が、すぐに引っ込んだ。
「しかし――」
「今、あなた様が私を庇えば、私は本当に公爵家に守られた冷たい女になります」
言い返したい言葉は、同席札の前で止まった。
彼がゆっくりと息を吐く。細く、静かに。感情を押し込めるような音。
「……理解しています」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、私は内心で少しだけ驚いていた。セバスチャン様が「理解した」と言うとき、本当に理解している顔をする。言い訳もなく、懐柔もなく。ただ正確に、こちらの言葉を受け取る。
侯爵夫人がわざと彼に届く声で言った。
「本当に……お可哀想に、クラウディア様も。あれほど想っていただいたのに」
セバスチャン様の指が、ステッキの握りをもう一度だけ強く締めた。
私は庭の薔薇を見たままで、口を開いた。
「奥様、クラウディア嬢のご状態はいかがでしょう」
「え……?」
「せっかくの茶会ですもの。ご不在の理由を伺えれば、手紙の一筆もお送りできますわ」
夫人が口を開けたまま、閉じた。噂を使う者が最も苦手なのは、こちらが相手の話題へそのまま乗り込むことだ。攻撃のつもりで開いた口が、記録の入口に変わる。カトリーヌ様が扇を半分だけ開きながら、静かに私の横へ移動してきた。夫人たちの会話が、微妙に速度を落とした。
◆
少しして、セバスチャン様が形式上の挨拶という名目で窓辺へ近づいた。
同席者はカトリーヌ様。距離は規定通り。記録されているはずの間合い。給仕が湯気の立つ新しい紅茶を差し出した。温かい白磁のカップが、傾いた午後の光を反射する。
「椅子の配置まで測られましたの?」
カトリーヌ様の声に、おかしみが混じっていた。
「同席の距離記録は義務です」
「記録局の書式より丁寧な字でしたわよ、セバスチャン様。恋文より正確ですわね」
彼の口元が、わずかだけ動いた。笑う一歩手前の形。それきり真顔に戻る。
私は紅茶のカップを持ち上げ、湯気を確かめた。温かい。彼がこの場にいる間だけ、給仕が替えたてを持ってくる気がした。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。どちらにせよ、手帳には書けない。
「触れないことが、これほど難しいとは思いませんでした」
窓の外を見たまま、セバスチャン様が言った。
声が小さかった。カトリーヌ様に届いたかどうか分からない。私だけへ落ちてきた言葉の重さを、私はカップの熱で確かめた。
何を答えるべきか。
答えを探しているうちに、胸の奥にあった温かいものが少しだけ大きくなる気がした。扱いにくい熱だった。手帳に書いてしまいたかった。書けば記録になる。記録になれば消えない。
「……承知いたしました」
結局、それしか言えなかった。
彼は、もう一度だけ息を吐いた。湯気が窓の光の中に溶けていく。
◆
茶会が終わったのは、夕方近い時刻だった。冬の名残の光が窓から細くなり、白百合サロン全体が薄い橙に染まっていた。
サロンを出る直前、侯爵夫人が私の後ろで誰かに囁く声が聞こえた。
「――まあ、次の朝刊が楽しみですわね」
私は立ち止まらなかった。振り返らなかった。
ただ、胸の中で静かに数えた。
今夜書かれる手紙は、明日の朝には別の場所へ届く。紙は記憶より速く、感情より遠くまで走る。私が持つ手帳は、その届いた先を後から追うしかない。今夜は間に合わない。
けれど、間に合わないことを、私は最初から知っていた。知った上で、手帳を閉じずにいる。
9度分の夜があったから、今日の1時間が記録できる。
霜が降りても、記録だけは温度を保つ。




