第12話 3日後の茶会まで、笑っていてください
招待状は、朝食室で読んで、執務室へ持ち込んだ。
卓に広げた瞬間、リュカが立ち上がった。椅子が石床を引く音が、高い天井まで届いた。父は口を開かなかった。リオンが盆の上に紅茶を置いたまま、静かに目を伏せた。
窓の外は薄曇りだ。均一な白い光が差し込み、影が薄い。今朝の執務室の空気は冷えていて、息をするたびに胸の内側まで届く。
「行かせるつもりか」
リュカが言った。問いではなかった。宣言に近い声だった。
「決まっていないわ」
「決まっていないなら、俺が断る」
「あなたが断れば、逃げたと見られます」
私は招待状を一度折り、卓に置いた。白百合サロン主催、慈善茶会。3日後の午後2時。後援者名の一番上に、ル・グレイス侯爵夫人の名がある。文面は丁寧だ。礼儀正しく、親切に見えるよう整えられた悪意は、正直な攻撃より難しい。
私は末尾の一文を、もう一度読んだ。
*ご参加いただけない場合は、ご都合をお知らせくださいませ。*
都合、という言葉。侯爵夫人の語彙にしては、妙に事務的だ。王宮証言保全室への出頭通知でも、似た書き方を見た。夫人の薄青の便箋に、王宮書類の語が混じる理由が分からない。
「この文面、侯爵夫人ご自身が書かれたものではないかもしれません」
「どういう意味だ」
「誰かに言い回しを渡された可能性があります」
リュカが何かを言いかけ、止まった。父が初めて口を開いた。
「行くつもりか、ヴェルティナ」
私は父を見た。止めてほしいと言っている目だった。止めるとは言わなかった。この人はずっとそうだ。選択を奪わない代わりに、痛みも一緒には引き受けない。
「行きます」
「なぜ」
凪いでいた、というのは嘘だ。
喉の奥に、小さな冷えがある。扇の陰で発言が記録されていく場へ、また踏み込む。それが分かっていても、行かなければ、私は記録する側にいられない。
「噂は、そこに人がいなければ記録できませんもの」
リュカが息を吐いた。リオンが手を組んだ。
「一人で行くのは」と父が言った。
「一人ではございません」
私は招待状を手帳に挟んだ。革表紙が薄青の便箋を飲み込む。
◆
王宮医療所の廊下は、昼間でも光が少ない。石造りの壁が熱を持たず、空気が奥へ向かって逃げていく感じがした。
セバスチャン様が廊下の端に立っていた。灰色の目。背筋が真っ直ぐで、銀のステッキが床に一度だけ触れている。扉は開いたままだ。礼儀の距離。それ以外の理由を、この場に持ち込まない誠実さ。
「3日後の茶会、ご存じですか」
「存じています」
「同行は難しいでしょうか」
彼は答える前に、ステッキの握りを一度だけ親指で撫でた。
その動作を、私は知っている。
怒っているのだ。今度は私のためにではなく、行かせなければならない自分自身に対して。
「私が同席すれば、癒着の証になります」
「分かっています」
「分かっていて、なぜ」
「聞いた方が早いと思って」
彼が少し黙った。廊下の先で、別の足音が過ぎる。
「別の名目なら、同じ会場に入ることは――」
彼は、自分で止まった。
ステッキの先が、石床に静かに触れた。一度だけ。
なぜ止まったのか、すぐには分からなかった。数秒後、気づいた。「別の名目」で入れば、その名目ごと記録に残る。彼は最初から知っていて、自分で引いたのだ。
「ご自身の名誉も、守ってくださいませ」
「……あなたの手が、冷えている方が困ります」
静かに言われた。
返す言葉を探したが、見つからなかった。返すための息が、喉の途中で止まったから。
◆
カトリーヌ様の邸の小応接は、夕方になると橙色の光が斜めに差し込む。今日はその光が、卓上の紙の上に落ちていた。
席次表だった。
縦横に罫線が引かれ、小さな名が書き込まれている。白百合サロンの茶会会場の、椅子の配置図。カトリーヌ様は扇を閉じたまま、卓の上で指を走らせた。栗色の巻き毛が橙の光に溶け、金色がかった目が紙の一点を示す。
「中央席が、問題ですわ」
「問題?」
「逃げ場がございません」
彼女が扇を開き、紙の一点を指した。主催者側から見て正面の席。4方を囲まれている。茶会の中心という名の、公開審問の座だ。
「これを、私に勧めているのですか」
「勧めているのではございませんの」
カトリーヌ様が私を見た。
「あなたが行かれるとお聞きしましたから、ご覧に入れているのです。中央席は、全員の声が届きます」
私は席次表を見た。中央から4列。侯爵夫人が座る位置、その斜め向かいに常連の夫人たち、端に若い令嬢が数人。どこに座っても、誰かの扇の陰に入る。
けれど中央だけは、扇の外側だ。
隠せない代わりに、全部聞こえる。
「……記録位置、ですわね」
「まあ、お分かりになって」
カトリーヌ様が扇を一度だけ傾けた。
「茶会とは、ここまで戦略的なものでしたの」
思わず口から出た。
「社交界は戦場です。扇は地図、席次は陣形」
「手帳が武器、というわけですね」
「その通りですわ」
夕光が席次表の上を滑る。中央席の名の欄に、まだ何も書かれていない。
私は手帳を取り出した。招待状を挟んだページを開く。3日後。白百合サロン。中央席。
書き終えて、顔を上げた時、カトリーヌ様が私を見ていた。何かを言おうとして、やめた。その代わりに、白扇を半分だけ閉じた。
笑顔を作ろうとした。
一拍、遅れた。
カトリーヌ様の目が、その一拍を見た。彼女は何も言わなかった。扇を完全に閉じるだけだった。ぱちん、という音だけが、夕方の応接室に残った。
3日後、私は笑わなければならない。その笑顔が、また誰かに冷たさの証として記録される。それでも行く。
ただ、廊下の石床にステッキが一度触れた音が、まだ耳の奥にあった。




