第11話 祈祷紐の結び目は、新しすぎた
カトリーヌ様からの封書は、朝食の前に届いた。
伯爵邸の小書斎。春の陽が書き物机の斜め向こうまで伸び、窓の外の柘榴が緑の新芽を揺らしていた。昨日より光が少しだけ高い。鳥の声も早かった。私は手帳の清書を止め、封書の差出人を見た。カトリーヌ様の、前へ傾いた速い筆跡。先を読む習慣のある女性は、文字の傾きも前へ向く。
開くと便箋は1枚、細い草書が斜めに走っていた。
「今日の慈善婦人会に、クラウディア様が出席なさるとのこと。私も参ります。扇を、お忘れなく」
扇。
昨日の台帳を、心の中で繰った。3分の1で情報持ち。3分の2で敵。全部開いていれば談笑。問題は、祈祷紐を胸に当てて涙ぐむ令嬢に向ける時、どの角度が正しいのかだ。まだ分からない。
「お嬢様、紅茶を」
リオンが扉の隙間から入ってきた。侍女服の袖口に今日もインク染みがある。昨夜、侯爵家の記録を台帳と照合していた証拠だ。彼女はカップを机の端に置いた。私が手を伸ばせば届く位置に。触れる位置ではなく、届く位置に。いつからそうするようになったのか、私には分からない。
「ありがとう」
1口飲んだ。昨日より飲めた。それだけのことを、リオンの目が確かめてから、静かに離れた。
◆
慈善婦人会の会場は、王都の旧貴婦人会館だった。
白い漆喰の柱が高く、アーチ窓から午後の光が床へ斜めに落ちている。室内に黄みの白さが満ちて、アネモネが3束、赤と紫で交互に挿してある。花と香水と砂糖菓子の甘さが重なって、入り口に立った瞬間だけ息が詰まった。
クラウディア・ド・モルニー嬢は、すでに着席していた。
白い袖。白い衿。白いドレス。その全身の白の中心に、胸元で細い紐が光っている。白い祈祷紐だ。2本の骨格糸を8の字に組み、中央に玉結びを置く、神殿式の正式なもの。
細く、小さく、午後の室内光の中で半透明に見えた。顔が青ざめている。瞼がわずかに腫れている。
「まあ、クラウディア様。ようやくお体が」
「少しだけ。神様のお導きで」
小さい声だから、周囲の夫人たちが身を乗り出す。乗り出した瞬間、部屋の同情が彼女の方へ流れた。空気が傾くのが分かった。
私はカトリーヌ様の隣の椅子に座った。彼女の白扇が膝の上で3分の1だけ開いている。情報持ちの合図だ。
紅茶が配られた。私は両手でカップを包んだ。白手袋越しに温かさが通る。
「ヴェルティナ様は、ご立派でいらっしゃいますのね」
右隣の夫人が言った。四十代後半、首元に琥珀の帯留め。声は穏やかだったが、「ご立派」という語はいつも、褒めていない文脈で使われる。
「どのようなことで」
「こうして同じ場においでになって。お強いこと」
お強い。
昨日の「難しい」とは違う靴だが、同じ道を歩いている。
「クラウディア様のご快癒を、一緒にお喜び申し上げたかっただけですわ」
私は微笑んだ。一拍おいてから。
砂糖菓子が回り、春の花の話が出た頃、クラウディア嬢がゆっくり立ち上がった。立った時、胸元の祈祷紐が揺れた。細い首の傾き、透けるような肌の白。誰が見ても、回復途中の病人の所作だった。
「皆様に、お礼を申し上げたくて」
頭を下げる角度が、丁度よかった。深すぎず、浅すぎず、見せるための深さだった。
「私、ただ信じていただけですの。お医者様の言葉を。ジェフリー様のお心を。神様のお力を」
信じていただけ。
その言葉が室内の空気に馴染む前に、カトリーヌ様の扇が静かに広がった。3分の1から半分へ。
「クラウディア様」
カトリーヌ様の声は穏やかだった。砂糖を乗せた刃の形をしていた。
「お薬は、いくらかよくなられましたか」
クラウディア嬢の目が、一瞬だけ固まった。
一瞬だけ、だ。
次の瞬間には涙に似た光が瞼の縁に浮かんで、彼女は祈祷紐を両手でそっと握り直した。
「薬の名前は、難しくて……ただ、神殿の祈りが。いつも一緒にいてくださって」
「いつからお使いですの、その祈祷紐は」
自分の声が静かに出た。想定より落ち着いていた。
「……苦しい時から、ずっと」
クラウディア嬢は上を向いた。涙をこらえる仕草で、頬が薄く赤い。
私はクラウディア嬢の手元を見ていた。
白い祈祷紐。2本の骨格糸、8の字の組み、中央の玉結び。神殿式の正規のもの。
その玉結びが、白く、固い。
解けていない。
神殿式の正式な祈祷紐は、長く握れば摩耗する。縁がほつれる。洗えば少し縮む。苦しい夜に何度も握れば、どこかが必ず柔らかくなる。指の熱が移る。色がわずかに変わる。
この紐の、どこも、柔らかくなっていない。
「……ご神殿で、最近お作りになりましたの?」
声は変えなかった。変えたつもりはなかった。
それでも、カトリーヌ様の扇が一度だけ止まった。
クラウディア嬢の視線が、私に当たった。涙の光はそのまま。ただ返答が来るまでに、もう一拍だけ遅れた。
「……古いものを失くしてしまいまして。神殿の方が、新しいものを」
「そうでございますか」
私は微笑んだ。
「承知いたしました」
砂糖菓子の甘さが、また部屋に戻ってきた。誰かがアネモネを褒め、誰かが春市の話をした。クラウディア嬢は正しい深さで椅子へ沈んだ。白い祈祷紐を胸に当てたまま。
手帳は持っていない。社交の場に革表紙は馴染まない。だから私は、白手袋の指先でドレスの縫い目を一度だけなぞり、全部記憶した。右隣の夫人。「お強い」の語順。クラウディア嬢の「信じていただけ」の言質。薬名を問われた時の一拍の固まり。そして、解けていない玉結び。
◆
帰り道、馬車の中でカトリーヌ様はしばらく沈黙した。夕陽が窓から斜めに入り、彼女の白扇を橙に変えた。王都の石畳の凸凹が床板から伝わってきて、馬車はよく揺れた。
「結び目を、ご覧になっていましたのね」
独り言のように言った。
「ええ」
「私も見ました」
カトリーヌ様の扇の骨が、膝の上で静かに合わさった。
「神殿式は、使えば必ず解ける。あれは解けていなかった」
私は揺れる車内で手帳を開き、走り書きをした。
祈祷紐記録第1。クラウディア嬢、慈善婦人会。神殿式白祈祷紐、玉結び使用痕なし、新品に近い。本人発言「古いものを失くし、神殿で新調」。発行日不明。「信じていただけ」、会場複数名の前で発言。薬名、問いへの返答なし。
「神殿には、祈祷紐の発行台帳がございますわよ」
カトリーヌ様が続けた。声が1段だけ低くなる。
「受け取った日付と、誰の名で発行されたかが残ります。詐病が問題になる前に作られたものなら、苦しい時からあった、という言葉は正しい。でも問題になった後に急いで作られたものなら」
「信仰ではなく、衣装」
「そういうことですわ」
ぱちん、と扇が閉じた。
馬車が止まった。フォーリュア伯爵邸の門。夕暮れの光の中で、屋敷の1つの窓に灯が点いている。
◆
書斎に戻ると、リオンが紅茶の用意をして待っていた。
窓の外の柘榴が、夕暮れの光で暗い。朝に緑だったものが、陽の落ち方で別の色になる。私はコートを脱ぎながら、今日の順番を頭の中で並べた。祈祷紐の白。解けていない玉結び。「信じていただけ」の言質。薬名を聞いた時の、一拍の固まり。
「お嬢様」
リオンが静かにカップを置いた。縁に指を当て、温度を確かめてから離す。今日の紅茶は少し濃い。私が飲めない日の濃さだ。
「クラウディア様が、茶会に出席されましたの」
「ええ。薬名をお伺いしたら、神殿の祈りとおっしゃいました」
リオンの手が盆の上で止まった。
「薬の名を、ご存じないのですか」
「知らないとおっしゃいました」
知らない。
2年で42通の処方箋。ベルナール医師が書いたもの。そのうち1通の薬名が記録から消えた。知らないのではなく、知られると困るのかもしれない。あるいは最初から、薬を必要とする病ではなかったのかもしれない。どちらかは、まだ分からない。
しばらく沈黙があった。
リオンが一度だけ口を開きかけ、また閉じた。
「……何か?」
「いいえ。ただ」
彼女は手を盆の縁へ戻した。
「日誌に、残せることがあれば申し上げます」
それだけ言って、静かに視線を落とした。
私は、その短い言葉の意味を少し考えた。リオンが「残せることがあれば」と言う時、それは既に何かを見ていて、言葉にする前に確かめようとしている時だ。
今は聞かなかった。彼女が準備できた時に話す。それが彼女の誠実さだと、私は知っていた。
手帳を開き、今日の最後の行を書いた。
祈祷紐記録補足。薬名不明。神殿の発行台帳確認、カトリーヌ様経由で可能か。次の確認事項として記録。
革表紙を閉じた。
窓の外で、柘榴の枝が風に揺れる。もうほとんど暗い。
今日、クラウディア嬢は「信じていただけ」と言った。慈善婦人会の全員が聞いた。その言葉は証言になる。そしてその証言が、祈祷紐の発行日と食い違うなら。
カップを持った。紅茶はまだ温かかった。
リオンが「お嬢様、お茶を替えます」と言いかけて、止まった。私がカップを持ったのを見て、小さく息をついた。安堵の音だった。それと気づくのに、私は数秒かかった。
次に確かめるべき場所は、神殿の発行台帳だ。
外で風が鳴った。
祈祷紐の結び目は、新しすぎた。それだけが、今夜のいちばん確かなことだった。




