第10話 侯爵夫人の言い回しは、昨日と同じでした
手帳を開くと、昨夜の字が少し乱れていた。
馬車の中で書いたせいだ。揺れながら記録した行は普段より斜めで、インクのかすれがある。それでも事実は乱れない。発言者。場所。時刻。語順。どの欄も、揺れた字のまま、正確だった。
伯爵邸の小書斎に、朝の陽が斜めに差し込んでいた。窓の外では柘榴の枝が風に揺れている。芽の出始めたばかりの緑が、光を細かく砕いて見せる。切れ切れの鳥の声が1つ届き、また遠ざかった。
私は昨夜の走り書きを清書した。
噂記録第1。白百合サロン、午後。「診断書を問題にした令嬢」より「病人を疑った冷たい令嬢」へ。語順確認中。出所未確定。
筆を置いて、1度だけ止まる。
確認中、と書いた。根拠は昨夜のカトリーヌ様の言葉だけだ。まだ1点しかない。1点では方向が決まらない。少なくとも、もう1つ要る。
扉が控えめに鳴った。
「お嬢様」
リオンだった。侍女服の袖口に今日もインク染みがある。両手には2通の封書と、紅茶の盆。
「カトリーヌ様からのお手紙と、王宮医療所の控えでございます」
私はカトリーヌ様の封書から開いた。筆跡が速い。便箋を開くと、細い草書が斜めに走っていた。
「今朝、椿会に参りましたの。昨日と同じ言い回しを、また聞きましたわ。今日の午後、少しだけお時間をいただけますか。先日の扇の補足も、改めてお伝えしたいことがございますの」
昨日と同じ言い回し。
私は窓の外の柘榴を1度だけ見た。2点。これで方向が決まる。
◆
カトリーヌ様の私的な小間は、白百合サロンとは対照的に、窓が1つしかなかった。午後の光が細く1本、丸卓の上へ落ちている。茶器を斜めに照らし、卓の端に置かれた白扇を橙に変えていた。人数は2人だけ。リオンが扉の外に控えた。
カトリーヌ様は草色のドレスのまま、正面に座っていた。今日の白扇を膝の上に置き、背筋だけがどこの茶会より真っ直ぐだった。
「今朝の椿会で、侯爵夫人がいらしていましたの」
私は手帳の新しい頁を開いた。
「白百合サロンとは別の場で」
「ええ。そして同じことをおっしゃいましたわ。ヴェルティナ様は最初から病をお疑いだった、信じていただけのクラウディア様がお気の毒に、と」
「語順まで」
「語順まで、でございました」
カトリーヌ様の口調は穏やかだった。穏やかなまま、細い刃を出す人だった。
「普通の方は、同じ話をする時でも言葉を少し変えます。記憶は繰り返すたびに形が変わりますもの。でも侯爵夫人の言い回しは変わらなかった。変わらないということは――」
「覚えたのではなく、読んでいる」
自分の口から出た言葉が、自分より先に着地していた。
カトリーヌ様が頷く。白い首がゆっくり動いた。
「そうですわ。そしてもし台本があるなら、書いた者がいます」
書いた者。
私はペンを手帳に当てたまま、少しだけ止まった。侯爵夫人はこれまで「攻撃する側」だと思っていた。しかし今、その像が少しだけ形を変えた。渡された言葉を読む者。書かれた役を演じる者。攻撃者である以前に、誰かの手の中にいる者。
「先日、扇の基本は申し上げましたが、もう少しだけよろしいですか」
カトリーヌ様が白扇を取り上げた。橙の光の中で、扇の骨が細く光る。
「3分の1なら情報持ちの合図、というのはお伝えしました。では、3分の2まで開けば」
「……敵、ですか」
「そうですわ。全部開いていれば、ただの談笑。それだけ覚えれば、サロンの空気は半分以上読めます」
私は手帳に書こうとして、1拍だけ手を止めた。
「扇にも台帳が必要ですのね」
カトリーヌ様が、初めて声に出して笑った。社交の笑みではない。小間の光の中で、乾いた、知性の笑いだった。
「そういうヴェルティナ様のような方が、1番早く覚えてくださいますわ」
笑いが収まってから、彼女の顔が真剣になった。灰がかった目が、卓の1点を見た。
「台本を渡せる者は、社交界の複数の集まりへ自由に出入りできる立場の方です。白百合サロンと椿会、2か所に届いたということは、侯爵家の内側だけとは限りません」
私はペンを走らせた。
噂記録第2。椿会、午前。侯爵夫人の発言、白百合サロンおよび椿会で語順一致確認。台本の存在可能性あり。出所、侯爵家外へ続く可能性を排除できず。
「承知いたしました」
声に出してから、自分でも少し驚いた。聞いた言葉への返答ではなく、記録の完了を告げる声だった。
「それと」
カトリーヌ様がつけ加えた。声が1段だけ低くなる。
「面会申請の同席者選定、処理がいつもより速いと伺いましたわ」
「どなたが担当されているのですか」
「エリオット書記官、と」
エリオット。
手帳の中に、その名前はすでにあった。証言保全室。私の記録を「私的文書」と分類した声。羽根ペンが台帳の角を2度揃えた仕草。
速い。
昨日も感じた速さだった。面会申請の承認連絡が、茶会の始まる直前に届いたあの静かな速さ。
◆
邸へ戻ると、セバスチャン様から封書が届いていた。
薄い灰色の封蝋、王立医師団の文印。リオンが盆に乗せて持ってきた時、彼女の目がすでに少し緊張していた。私が何も言わないのに、侍女というのはいつも主人より先に何かを感じる。
書斎の窓から見える柘榴が、夕暮れの光で赤くなっていた。朝に緑だったものが、光の角度で別の色になる。
封書を開いた。正式な面会申請書式の添え状だった。書式は2枚。手続きの詳細が箇条書きで整然と並んでいる。セバスチャン様らしい、正確な文書だった。
末尾に、1行だけ手書きがあった。
他の文字より少し走っていた。急いで書いたのか、言葉を選ぶのに時間がかかったのか、どちらかは分からなかった。
「同席者の選定様式は、私が先に確認いたします。エリオット書記官の処理速度について、気になる点がございますゆえ」
気になる点。
私はその1行を3度読んだ。
3度で止めたのは、それ以上読めば、手帳に書けない感情の方が増えるからだった。彼がこの1行を書いた時、ステッキの握りを撫でていたか、ただ淡々とペンを走らせたか。それは分からない。分からないまま、私より先に心配をしていた事実だけが、夕暮れの書斎に残った。
手帳に今日最後の行を書く。
エリオット書記官、処理速度、要観察。セバスチャン様も同一点に着目済み。
台本を書いた者と、処理を急かす者が、同じ方向から動いているのかどうか、まだ分からない。
分からないことだけが増えていく夜だった。
それでも手帳が満ちていくのは、記録する者の、地味な誇りに似ていた。




