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06 出使

 列が解かれたのち地に残ったのは、胸の熱だけであった。帷幕は畳まれ、旗は箱に納められ、槍は音もなく眠る。


 だが、遠くの空では別の火が上がりはじめていた。冀州では袁紹えんしょう韓馥かんふくい、州城を押さえて矛先を北へ向け、公孫瓚こうそんさんと相対する。豫州では袁術えんじゅつ孫堅そんけんを推し、やがて袁紹は周昂しゅうこうを刺史として送り、豫州をめぐる取り合いが始まった。反董卓の盟約は瓦解し、二袁の対立は骨まで強くなる。袁紹は曹操・劉表・周喁と結び、袁術は孫堅・公孫瓚・陶謙とうけんと合した。南では劉表りゅうひょうが荊州を拠り所とし、西の益州では劉焉りゅうえんが境を固める。道の筋は折れ、印は各々の手に散り、印綬の価値は名よりも兵糧と人心の側へ移ってゆく。


 広陵の朝は早く、声にも刺がない。穀を量る手は落ち着き、井戸の釣瓶が鳴る。行き交う者は目で挨拶を交わし、店の格子に残る香が路地をやわらげた。臧洪はやや後ろに身を取り、周囲を確かめて歩く。張超の執務所へ入るころには、風はもう帷の隙間を通り抜けるのみで、音も立てなかった。世は、声を上げずに形を変えつつある。乱は旗の色を変え、盟は名を変え、人は居処を変えていく。


 供の吏が下がると、室には主従ふたりの息が残った。張超は卓の端に手を置き、坐を正す。


 「子源、世はとうとう面を変えた」


 臧洪は拱手して、張超の目をまっすぐに捉えた。


 「変わりました。冀州と幽州の間は険しく、豫州は刃の下にあります。名のみで軍は動かず、しかし名なくしては人は散ります」

 「ここから先、我らはどこへ目を向けるべきか」

 「漢を立て直すなら、宗室の年長に帰すほかありますまい。幽州の劉伯安殿は、徳をもって人を集める器です。兵を借りるためではなく、その名に寄って、散りはじめた諸郡の心を束ねるべきと存じます」


 張超は束の間黙し、卓に広げた地図を確かめる。


 「伯安殿は公孫瓚と隣り合い、北では矢風が強い。西南では劉表が荊を固め、益の劉焉は境目を閉じた。中原では、本初殿が孟徳殿と結び、袁術は孫堅・公孫瓚・陶謙と盟している。名ばかりでことが動くだろうか」 

 「名ばかりでは動きませぬ。されど名が正しくなければ、動くものはみな、獣に流れます。刃を交える前に、まず道を正すべきです。伯安殿に書を通じ、漢の宗統の下に、諸郡が背を預け得る場を作る。それが乱の入口で道を見失わぬ術と心得ます」

 「書のみで足るだろうか」

 「書は始まりにすぎませぬ。書にて意を明らかにし、人にて心を結ぶのです」


 張超は軽く顎を引いた。


 「乱は長くなろうな。二袁は骨をぶつけ、盟は日に日に変わる。ここで漢の名を離せば、後に戻る所がなくなる」

 「まさしく」


 張超は卓から手を離し、臧洪の前で姿勢を正す。


 「子源、伯安殿には何を問うべきであろうか」


 臧洪は持っていた筆を置き、言葉を選んだ。


 「第一に、宗室の長としての公議を立てていただく。第二に、州郡が互いに刃を向けぬための道筋を示していただく。第三に、民戸と穀の保全を先とし、兵の勝負は後とする旨を天下へ告げていただく」 

 「兵を後に置くのか」

 「今、兵を先にすれば、諸侯はみな、それぞれの利に走りましょう。利で走る足はすぐ疲れ、疲れた足は民を踏むのです。名を先に置き、義を先に置けば、疲れても戻るところがある」


 張超は目もとを和らげる。


 「伯安殿は柔らかく見えるが、芯は固い。宗室の長としての責がある。だが、公孫瓚との境で事が荒れれば、答えは遅くなるかもしれんな」

 「遅くとも道は示されます。道があれば、人は並べます。道がなければ、勝っても負けても、その後に荒れが残るだけです」


 灯の油が尽き、室の空は白んだ。張超は立ち上がり、帷の向こうの明かりを見る。


 「書はすぐに認めよう。道の備えも進めねばならぬ。手をこまねいていれば、広陵の平穏は長くは続かぬ」


 臧洪は返す言を飲み、卓の上の札に目をやった。


 「子源。これから先、何があろうと……私を支えてくれるな」

 「無論です」


 張超は視線を和らげて息をひとつ置き、臧洪は拱手のまま視線を向けた。名と義とを先へ置く。その順を違えまいと、臧洪は息を吐いた。


 誓いは胸に収まり、あとは文に託すのみ。張超は筆を持ち、几の上に札を広げる。行の頭に筆を置き、端正に一字ずつ運んだ。文を書き終えると、慎重な手つきで書簡に封泥を施す。張超は書簡を掌にのせ、臧洪の前に置いた。


 「子源、これを伯安殿へ届けてくれ」


 臧洪が頭を垂れる。


 「私はここで待つ。結果がどうあれ、力を合わせてこの乱世を渡ろう」


 張超の言葉に臧洪は口元で笑みを寄せる。張超は吏を呼んで何事かを言いつけると、再び臧洪に向き直った。


 「気を付けて行け。身体は大事に。無理をしてはならんぞ」

 「行って戻るだけの使いです。張太守こそ、俺がいない時に酒を飲み過ぎるなよ」


 笑いが生まれ、そこに履の音が一つ近づいた。臧洪の推挙で張超に仕えることになった程恭である。


 「元直、子源を頼む」

 「お預かりします」


 程恭は拱手した後、笑みを含んだ面で臧洪に視線を向けた。二人の間に言葉は多くないが、互いの歩度は昔から変わらぬ。


 張超は二人の背を心に留め、帷の縁を押さえて落とした。


 夜が明け、町の屋根が薄く色を帯びる。庭には馬が二頭支度されていた。伝令の小吏が刻を改め、道筋を念押しする。市門の外では、霜の名残りが石に残っていた。


 程恭は馬に乗る前に、周囲を一巡する。


 「子源、北へ入れば風が変わります。急がず、刻を外さぬように」

 「心得た」


 門番が符を確かめて門を開いた。二人は馬に跨がり、並んで町を振り返る。まだ早い刻だが、広陵はいつもの支度に入っていた。


 「元直」

 「なんです」

 「道が長いときは歌うか」

 「やめて下さい。子源の歌は聴くに堪えぬ」


 臧洪が笑う。手綱を軽く引き、馬の首がわずかに上がった。道は北へと延びる。


 市の外れで子らが縄をまとめ、行商の女が背を正した。張超の旗は風に従って穏やかにたわみ、やがて視界から外れる。二人の蹄は一定の拍で地を打ち、刻の合図のように遠ざかった。程恭は前を見たまま言う。


 「河間では袁本初殿と公孫瓚の争いに出会くわすかもしれませんよ。巻き込まれる可能性がないとも言い切れない」

 「そうなったら別の道を探すまでよ」


 臧洪は書簡の所在を胸で確かめ、歩の拍を心に合わせる。

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