04 肇始
その年、洛陽の朝は厚い雲に覆われていた。董卓は兵を以て禁中を制し、百官を脅し、廟社の威を踏みつける。廃された帝は終に命を奪われ、玉坐は人の手で弄ばれるものとなった。鼓は鳴れども心に届かず、道は閉じ、言は塞がる。都の火はまだ消えず、煙は西の空に残った。戸ごとの灯は早く消え、人の暮らしは貧しくなる。
都鄙の間には怨嗟が広がり、州郡の士は眉をひそめた。策をめぐらす者は少なからずあったが、誰が先に刃を抜くかまだ決めかねている。義兵の名は口に上るが、兵糧と器の算段、旗を掲げる地の選びもつかぬ。遷都の議がささやかれ、人の胸にあるのは、もはや漢室という言葉の価値だけであった。
冀と兗の境では使いが道を急ぎ、陳留・河内の名はしきりに口にのぼる。東の里には冷たい風が立ち、鍛冶の槌は音を潜めた。人々は目を合わせ、声を落とし、洛陽の方角を見やる。遠い空の色が変わるごとに、世の行く末の色もまた変わるようであった。
臧洪はその気配を肌で受けていた。郡の簿を閉じ、印綬の紐を指で正すと、筆先に残る黒が胸に移る。国に礼が立たねば、人は散り、獣のごとくになる。いまは言を惜しむ時ではない。胸中の熱は声にあらわれず、されど歩の運びを堅くする。
張超の治所にも、洛陽の報は日ごとに届いた。道路に並ぶ車の轍は浅く、門の板は風に鳴る。兵の列を作るほどの騒ぎはまだないが、武庫の戸は幾たびも開かれ、簿の行は読み返されている。吏舎の庭には鼓が据えられ、鼓手は皮の張りを両掌で確かめた。民の顔には怯えよりも、行く先を問う色が濃い。民は麦を刈る手を止め、子を抱いて空を仰ぐ。
人は誰かの先駆けを待つ。先駆けは、声高に旗を振るだけの者では足りぬ。法と恩を知り、時に刃をも辞さぬ者である。臧洪は歩を早め、戸口の灯の下に立った。戸の内には、かの太守がいる。ここから先の言は既に固まっていた。遠い鼓の音が、世の岐れを告げるように聞こえる。臧洪は佩刀を確かめ、敷居をまたいだ。彼の歩みは急がず、しかし退かぬ。
張超は背を正し、臧洪が拱手して坐るのを待った。言の形は、そのまま刃になろう。
臧洪はひと呼吸おき、口を開いた。
「張太守は天子のご恩をお受けし、ご兄弟そろって大郡を治めておられる。今漢室は危機に瀕しており、賊臣の首はまだ獄門にかけられてはおりません。天下の烈士は今こそ天子の恩に報い、命を捧げる時。郡の境内は安泰であり、官民ともに富んでおりますので、鼓を鳴らして召集をかければ、二万の軍勢を得られるでしょう。この軍勢をもって国賊を誅殺し、天下のために口火を切ることこそ、正義と申せましょう」
言が落ち着くのを待って、張超はうなずく。
「子源、同じ心だ。私もずっとそのことを考えていた。兄上に会し、義を挙げる。陳留へ向かう。供してくれるな」
「当然です」
臧洪は目を爛々とさせて席を立った。廊に命が走り、吏が拱手して返す。矢束が数え直され、甲は架から下ろされた。召集の鼓が鳴り、門下の番は札を掲げ、召しに応じる丁壮の名を受ける。
里の道から人が流れ、校場に列が生まれた。什伍が組まれ、旗は風を受けて立つ。槍の穂先は日をはね、革の匂いが土に混じった。号令は簡明、歩度は一定で、荷車は最後尾に付し、水と乾糧を別に束ねる。無用の声はなく、鉦と鼓が、刻を押して前へと進める。
張超は門前に立ち、告げた。
「行くは西、帰するは正」
臧洪はうなずき、前駆と親衛の位置を目で改める。左右の列は自然に開き、主の馬が進む道が現れた。番の吏が進み出て拱手し、道をあける。
先頭の槍が影をまたぎ、旗の縁が門を離れた。張超は馬首をわずかに西へと振り、臧洪が並び、号令を飛ばす。
「列、乱すな」
鉦の音が列を揃え、鼓が応えた。隊は粛々と動き出す。人の眼は前へ向き、背は揃い、門は遠のいた。臧洪は振り返り、門上の瓦を確かめてから視線を戻す。
幾日かのち、陳留の望楼の旗番が動き、鼓の合図が二度、三度と返った。府では文案が止まり、使いが走る。張邈は報を一読すると、帯を締め直し、堂前の廊まで歩み出て弟の到着を待った。
張超は列を揃えて馬を預け、臧洪に兵と糧の割り付けを命じると、少数の供のみ従えて進む。石段の手前で二人は拱手し、礼を尽くして相対した。
張邈は段を一歩降り、袖を払って弟の顔色を見る。廊の風が裾を揺らした。張超は半歩退き、拱手の形を崩さぬ。
「お前が勇んでやってくるとは異なことよ」
「兄上に急ぎ奏すべき事がございます」
「堅いな。まず中へ入れ。ここでは風が立つ」
張邈は軽くうなずき、掌で進む方角を示した。吏が間をあけ、灯が奥へと導く。弟の歩はわずかに控えめで、兄の歩はそれを待つように緩やかであった。
張邈は耳を澄ませ、弟の報を受ける。
常には兄の背に控えがちな弟が、このたびは自ら先駆けを請い、義の口火を切らんと言う。張邈は心でうなずき、眉をわずかに緩めた。しかし語の区切りごとに同じ名が挟まれると、耳の奥に小さな鈎のように残る。筆先は走りながら、一度その勢いを弱くした。
「お前は太守を務めているのに、政治・教化・刑罰・恩賞をお前自身で行わず、臧子源に任せているという噂だが、臧子源とはどのような人物だ」
張超はすぐに答える。
「子源の才能と知略は私より勝っており、非常に信頼しております。天下の奇士と申せましょう」
張邈は黙して筆を置き、視線で弟の面を測った。声の熱は喜ばしいが、人を任ずるは別事である。兄としての情と、府主としての慎がせり合った。やがて袖を返し、控える吏に目で合図する。
「臧子源を呼べ」
廊の灯が一つ進み、履の音が遠くから近づいた。臧洪は拱手して室に入る。張邈は坐を勧めず、正面に立たせたまま問を重ねた。
「軍を興すに、戸口と兵の割りはどう合わせる」
「戸の実数に従い、丁ごとに伍を定めます。農の手を潰さず、伍の欠けは他郷で補いませぬ」
「糧と器は」
「郡の旧蔵を骨に、義倉の余を肉とし、道の刻を乱さぬよう前後を分けます」
語気は確かで理は曲がらず、言の端に私がない。張邈は眉をわずかに寄せ、なお数問を試みた。民の教えと戒め、恩賞の配り、鼓と鉦の刻み。臧洪は一つも置き去りにせず、強いるところは強いが、抑えるところは柔らかかった。弟が口にした名が空言ではないと、胸の秤が少しずつ定まりはじめる。
張邈は筆を収めて臧洪にうなずいた。胸に過るのは旧交の顔ぶれである。ここからは手を早めるのみだ。
几を寄せて三巻の書を草し、封を施して印を押す。兗州刺史の劉岱には陳留の境にあってたびたび書を交わした旧交として、豫州刺史の孔伷には礼を重んじ軍の節を乱さぬ人柄を思い、東郡太守の橋瑁には印綬の扱いに篤い姿を重ねた。伝令はそれぞれ書簡を懐に収め、廊を蹴って散る。張邈は筆端の朱を確かめ、弟に目を返した。
「会するは酸棗、期はここから通す」
張超は黙してうなずき、拱手した。




