03 朝陽
戸口の板が鳴り、臧洪は手巾を掛け、甕の水に柄杓を浸して口をすすぐ。外には人の気配があり、履の音が二度、三度と重なった。戸をあけると、張超が郡吏を二人従え、帯を正して立っていた。顔には昨夜の色がまだわずかに残る。
「朝早く失礼する。子源、昨夜の件で参ったぞ」
臧洪は拱手し、手で内を示した。素木の卓に盃はなく、碗が二つ。張超は腰を下ろさず、まず書簡を広げた。郡の功曹を以て任ずる旨、そこに明らかである。
「二日酔いにはなってないかい、張太守」
臧洪が目を上げる。張超は一瞬言葉をのみ、掌で額を覆った。昨夜の壺の口と、早すぎた盃が脳裏に返ったのだろう。臧洪は笑い、碗を差し出した。
「名折れだ。笑ってくれ」
湯気が指の節をくぐり、息が落ち着く。張超は書簡を卓に置き、続けた。
「郡をより良くし、民の声が届く道を広げたい。子源の手が要る」
臧洪は黙してうなずく。昨夜の市で見た目の澄みと、卓をはさんだ男の素直が胸に迫る。碗を置き、姿勢を正した。
「元より、俺から言い出したことだ」
張超の目が明るくなる。郡吏が息をつき、帯の結びを確かめた。臧洪は戸口の方へ目を送り、家の中の物の位置をひとつずつ見てから拱手する。
「その任、拝命仕る」
張超はようやく腰を下ろし、湯を一口含んだ。湯は熱すぎず、言葉の角を丸くする。外では誰かが箒を引き、砂の音が続いた。張超は碗を置いて笑う。
「昨夜の失態は忘れてくれ。今日からは共に働こう」
「ではさっそく、簿を昼に広げるところからだな」
臧洪の言葉に張超はうなずいた。朝の息が二人の間で確かにそろう。
その日を起点に、筆の先が札を運んだ。臧洪は吏の持ち来たした訟案を一つずつ開き、事の筋を記して印を落とす。強き者の横車には罰を、弱き者の窮状には救いを置く。書吏が脇で札を持ち、次の訴え人を呼ぶ。臧洪は顔を上げ、戸前に立つ老人と若者の姿を見比べ、わずかにうなずいた。
「簿は午の刻に広げ、誰の目にも見えるように掛けよ。異を唱える者があれば、その場で聞く」
吏が走る。市門へは番の名を改めて掲げ、橋板の継ぎ目は大工に見せた。夜の巡りは十人一組で更番とし、遅れた者には翌日の勤めを割り当てる。病家の賦は軽くし、孤と寡の戸は役を免じた。これらは告示として板に書し、『簿は日中に開く。孤・寡・病の訴えを先に聞く。何人も直ちに訴えよ』と太い筆で添える。
昼ごとに市の内は人の流れが行き交い、秤の皿は左右に揺れた。簿は吏舎の前に広げられ、価の紛れを訴える者があれば、その場で商人と向かわせる。商人は簿の行を指で追い、納めた量と受けた価を言い立てた。臧洪は双方の言葉を最後まで聞き、余計な装いを剥いでから裁断する。利のために人を欺いた者には罰銭、正直を守った者には許しと褒め言葉。吏はそのまま筆にして記し、翌日に残らぬよう印を添えた。
賄を勧めた小吏は別の役へと回す。文を書く早さは惜しむところがあったが、道具の手入れに細かく、倉の出し入れには向いていた。臧洪は人の癖を見、強いところへ強い仕事を当てる。学舎では子らの声が澄み、師は戸口に立って出欠を確かめた。三老には月ごとに文を出させ、里の様子を三つ挙げさせる。多くは要らぬ、要は的に当てよ、と臧洪は言った。
張超は政を任せ、挨拶のほかは口をはさまなかった。臧洪は印の合間に張超の室へ入り、施した事と残る手を簡潔に述べる。張超はうなずいて筆を置く。信は言葉の数ではなく、置いた背の向きで伝わる。臧洪は拱手して出、吏舎の外気を胸に吸った。
日が経つにつれ、町の色は変わった。果物の卓では皮の艶がよく、縄を跳ぶ子らは回数を指で数え合う。昼の告示板の前には人が集い、文を声に出して読み上げる者がいた。年寄りは耳へ手を当て、若い者は膝に子を乗せて聞かせる。人々は口々に、吏舎の返事が遅れなく戻る、夜道が明るくなった、と言い合った。価は落ち着き、売る側も買う側も肩の力が抜ける。十日も経たぬうちに訴えの行列は短くなり、ひと月ほどで簿の字はさらに読みやすく改められた。
月が改まるころ、臧洪は市門を歩き、番の簿を改めて見た。欠けていた名は埋まり、遅れた印はなくなっている。橋の板は新しく締め直され、継ぎ目の段差は消えた。臧洪は欄干に掌を置き、息を入れる。
吏舎へ戻ると、吏たちは几の上を拭き翌日の札を束ねていた。臧洪は筆を洗い、墨を蓋で閉じる。今日置いた筋は明日も変えずに続ければよい。確かな手つきで灯がともり、格子の模様が床に広がった。
市の色は和らぎ、呼ぶ声に刺がなくなっていた。張超が通りへ姿を見せると、売り手は品へ掌を返して示し、買い手は肩の力を抜く。簷の下で札が揺れ、秤の皿はゆるやかに戻った。臧洪はやや後ろに位置を取り、往来の隅々に目を配る。
果物の卓の店主が、布で柑の肌を磨きながら身を乗り出した。
「張太守、橋がよくなりました。年寄りがつまずかなくなりましてな」
張超は笑みを返し、卓の端に指を置く。
「それはよかった。市の方はどうだ」
「価が落ち着きました。字も前より読みやすい。子源にも礼を言わねば」
臧洪は軽く手を振った。
「張太守が決断し、みなが支えてくれたお陰だ」
張超は笑みを浅くして、臧洪へ視線で礼を送る。
市の空き地では、縄を跳ぶ子らが数を数え、失敗した子を囲んで笑い合っていた。ひとりが顔を上げ、張超を見つけると、腕を振って呼ぶ。
「張太守、見てください」
別の子が胸を張り、縄の束を掲げてみせた。張超はうなずき、視線で褒めを送る。子らはもう一度輪をつくり、今度は三つ多く跳んだ。
通りの端で、行商の女が背の荷を下ろし、息を継ぎながら笑みを見せた。
「張太守、夜道が怖くなくなりました」
張超は礼を返し、横目で臧洪を見た。臧洪はうなずくのみで、余計な言を足さぬ。二人は歩をそろえ、呼び止められれば立ち、耳に入れねばならぬ声は逃さなかった。主従の形はそこにあっても、前に出るときも引くときも、互いを量る仕草は友のそれである。
果物の卓の男は縄の輪へ視線をやりながら、ぽつりと言った。
「町というのは、人の背中で明るくなるものですな」
張超は笑い、店主の手に柑を一つ押し返した。
「みなで明るくしていこう」
市門の風が簾を揺らし、掲げた板の文字が陽を受けた。巡りの吏が刻を告げ、遠い鼓がひとつ鳴る。張超は歩きながら、人々の顔に戻った色を順に心に記した。臧洪は横で視線を巡らし、足許の継ぎ目を確かめる。
張超は思った。臧洪という男は、力で押さず、道を示して人を立たせる。己はその力を得た。果報というほかはない。胸に幸福が満ち、歩が軽くなった。
夕闇が訪れ、市の灯がぽつぽつと起きる。小路の先で油火が梁を照らした。果物の卓に寄った客の笑いが和らぐ。張超と臧洪は並んで歩を返し、門の方へ向かった。町は騒がず、温かく、夜を迎える支度に入っている。




