第08話:白銀の回帰、慟哭の不協和音 / THE CROSSING
『遠呂智』の根城だという噂が絶えない東地区。
そこは軍が最も手を焼く、治安の乱れた無法地帯だった。
立ち並ぶ廃墟の影からは、通り過ぎる軍靴の音を忌々しげに睨む住人たちの、冷めきった視線が突き刺さる。
道端には行き場を失った死体が平然と転がり、泥にまみれた物乞いたちの虚ろな瞳が後を絶たない。
カケルは建物の屋上に身を潜め、望遠スコープでその惨状を静かに見渡していた。
シンスケは「気にするな」と言った。
自分の放った一言が、一人の軍人を離反という破滅へ追いやったのではないか──そんな疑念が、カケルの心を僅かに、けれど確実に揺らし続けている。
高天原の皇太子として、白磁の檻の中で暮らしていた頃。
高官たちや管理官である琥珀から「個人の意思」を求められることなど、一度として無かった。
そこにあるのは完成されたシステムと、決められた儀礼。
カケルはただ、美しく動く人形であれば足りたのだ。
しかし、傭兵としての血生臭い生活は、彼に「言葉の重み」を突きつけた。
自分の一言が戦局を左右し、誰かの命を奪い、あるいは組織を崩壊させる。
人の意志が介在する戦場の生々しさが、カケルの喉元を締め上げる。
(お前はどうしたいんだよ)
かつて、高天原の謁見の間で、ヤマトが自分に叩きつけた問い。
それは、完成されたシステムの一部でしかなかったカケルに、初めて突きつけられた「個」という名の弾丸だった。
あの傲岸不遜な、けれど真っ直ぐな言葉がなければ、自分は今もあの白磁の檻で、感情のない人形として朽ちていただろう。
ヤマトは、カケルにとって暗闇を照らし、自分の足で歩くための唯一の光だった。
今、もし同じ問いを投げかけられたなら、自分は何と答えられるだろう。
あの日、奈落の底へ堕ちたヤマトが最期に遺した「生きろ」という一言。
それはカケルにとっての救いであり、同時に逃れることのできない呪いでもあった。
常に最前線に身を置くことは、死と伴走することと同義だ。
しかし、数多の戦場で死の影が濃くなるほど、あの「生きろ」という一言が、心臓の奥で拍動を刻み、彼を現世へと繋ぎ止める。
(死ぬことなど、許されない……)
左腕の白銀の義手が、湿った大気を切り裂くように微かな駆動音を立てる。
その音は、まるで自分を叱咤する友の声のようにも聞こえた。
◇
同じ頃、東地区の深部。
『遠呂智』の本拠地では、冷徹なまでの静寂が支配していた。
ヤマトは、運び込まれた軍の機密データを一瞥し、漆黒の義手の指先でテーブルを叩く。
「……ヤマト。天導府の追手、予定通り『白銀』が動いたわ」
ニナの報告に、ヤマトの金色の瞳が鋭く細められた。
裏切り者の将校を餌に、軍の最強の牙を釣り上げる。
計画は順調だった。
だが、その「白銀」という存在に対し、ヤマトの胸中には説明のつかない焦燥が渦巻いていた。
「カズマ、準備はいいな。白銀以外の増援は全てお前が食い止めろ。一兵たりとも、この奥へは通すな」
「分かってるって。雑魚共は俺が全員ぶっ潰してやるよ」
準備運動をしながら鼻息を荒くするカズマ。
ふと、部屋の隅に控えていたイツキが口を開いた。
「ヤマト。……いつもと違う音がする。腕の調子、大丈夫?」
イツキの指摘に、ヤマトは無意識に右腕を抑えた。
漆黒の義手。
それは持ち主の闘争心に呼応して咆哮を上げる凶器だが、今はそれとは異なる「震え」が生じていた。
イツキが悲しげな瞳で、その駆動音を聞き取っている。
ヤマトの義手から漏れ出るのは、期待でも殺意でもない。
三年前のあの日に置いてきた、魂の慟哭だったからだ。
「……問題ない。ただの初期微動だ」
ヤマトは自分に言い聞かせるように吐き捨て、立ち上がった。
漆黒の装甲の下で、ヤマトに宿る『何か』が、獲物の接近を察知し、狂ったように脈動している。
鋭く逆立った赤い髪が、薄暗い部屋で炎のように揺れる。
「軍の犬を……いや、あの『白銀』を噛み殺せば、俺のこの苛立ちも収まるだろう。……行くぞ」
◇
廃ビルの谷間、酸性雨がすべてを灰色に塗りつぶす。
カケルは、離反した将校が逃げ込んだとされる古い地下通路の入り口に立っていた。
そこは、まるで巨大な怪物が口を開けて待っているような暗闇だった。
慎重に歩みを進める。
一見、何の変哲もない廃墟のようだが、僅かな音の響きやごく僅かに漏れ出す匂いが、ここが『遠呂智』の拠点であるというメッセージに思えた。
出発前に援護の有無を問われたが、断った。
狭小地での戦闘は、大人数になるほど不利になる。
無駄な犠牲を出さないためにも、カケルは単身で乗り込むと伝えた。
ふと、何かの気配を感じる。
殺伐としたコンクリートの隙間、湿った風が吹き抜ける瓦礫の山に、一羽の小さな鳥が止まっていた。
かつて暮らした高天原では、不純物として排除の対象だった存在。
完璧な管理社会において、こうした「予測不能な生」は、現れた瞬間に警備システムによって消し去られていた。
だが、この過酷な下界において、鳥は煤けた羽を震わせながらも、確かにそこに立っていた。
誰に命じられることもなく、自らの翼で空を飛ぶ。
その不格好で、けれど自由な生き様は、名前も身分も捨てて戦場を這い回る今の自分と、痛いほどに重なった。
「……君も、ここが居場所なんだね」
カケルが呟いた瞬間、小鳥は羽撃き、暗い地下通路の奥へと消えていった。
奥へ進むほどに、粘りつくような殺気が密度を増していく。
カケルは刀の柄にそっと手を添え、足裏から地面に伝わる微かな振動を神経に馴染ませながら歩いた。
不意に、背後から。
産毛が逆立つほどの殺気が、音もなく急接近してくる。
カケルは動じない。
ギリギリまで引き付け、その「芯」が重なる瞬間を待つ。
呼吸を止め、翻ると同時に抜刀。
鋭い銀光が闇を切り裂いた。
しかし、視界には標的の姿など映らない。
(おかしい……気配は確かにあるのに、実体がない)
意識の海の中に、ゆらりと揺らぐ一つの殺気。
それは獲物の喉元を狙い、音もなく這い寄る一匹の蛇のようだった。
蛇の存在を捉えたのも束の間、凄まじい衝撃音と共に側面の壁が粉砕された。
爆煙を突き破り、弾丸のような蹴りが飛来する。
カケルは最小限の動きでかわすが、隙を見せる間もなく、追撃の拳が突き出された。
それも紙一重で見切り、カケルは距離を取る。
「思っていたより素早いな! お前が噂の『白銀』か!?」
煙の中から現れたのは、両足が機械化された義足の少年だった。
「増援も連れず、一人で来やがったか! おかげで俺の仕事がなくなったじゃねえか!」
「……君は、『遠呂智』のメンバーか?」
カケルの静かな問いかけに、少年は剥き出しの歯を見せて笑った。
「へっ、お前に名乗る名前なんざ無えよ! 軍の犬は黙って噛み殺されろ! リーダーの手を煩わせるまでもなく、俺がここで肉塊にしてやる!」
少年は再び、力任せに地面を爆ぜさせて踏み込んでくる。
機械仕掛けの脚部が放つ凄まじい推進力。
一撃でもまともに受ければ、骨ごと粉砕される。
カケルは義足の駆動音と重心の移動を読み取り、その暴力的な連撃を紙一重で逸らしていく。
その動きは、実戦を経て無駄な装飾を削ぎ落とした「殺戮の芸術」へと昇華されていた。
「チッ、チョロチョロと……!」
カケルは気づいていた。
目の前の少年が放つ殺気の裏側に、さらに深い闇の中から自分を凝視する、もう一つの「視線」があることを。
その視線は冷たく、そして懐かしい熱を孕んで、カケルの背筋を凍てつかせていた。
「逃さねえぜ……死ね!」
カズマの義足が最大出力で駆動音を鳴らす。
その瞬間、通路の奥から地響きのような声が響き渡った。
「──カズマ。役目がなくなったからといって、その男に手を出せとは命じていない。俺の獲物だと言ったはずだ」
地響きのような、けれどどこか聞き覚えのある低い声。
闇の中からゆっくりと姿を現したのは、両腕に漆黒の大蛇を宿し、炎のような赤い髪を揺らす青年。
カズマが不満げに鼻を鳴らし、道を開ける。
立ち込める爆煙と酸性雨の湿気の中で、漆黒の王と、白銀の死神が、ついに視線を交錯させた。




