第07話:白銀の追跡者、漆黒の牙城 / HUNTER'S EYE
自室の狭い窓から見える中央区画の風景は、下界の他のエリアとは決定的に異なっていた。
中心にそびえ立つ中央軍──天導府。
それは高天原の直接管理下にあるが故に、電力や浄水の恩恵を惜しみなく受けている。
夜になれば不夜城のように輝くその威容は、地の底に穿たれた唯一の「光の杭」だった。
中央区画の住民は、下界の中でも選ばれた者たちだ。
多くが軍に籍を置き、その禄で家族を養う。
同じ煤に塗れた空に覆われながらも、そこには平然と差別と格差が横たわっていた。
人々は、わずかな自尊心を保とうと、より「天」に近い場所へ、より「光」に近い場所へと手を伸ばす。
その姿は、一筋の蜘蛛の糸に群がる亡者そのものだった。
「……醜いな」
自嘲気味に呟いた言葉が、窓ガラスに反射して自分に返ってくる。
黄金の楽園を追われた「堕天」の報いが、この喉を焼くような重油の匂いと、消えない罪悪感なのだ。
しかし、それが自らの祖国である高天原が、長い歴史の中で犠牲にし、切り捨ててきた下界の真実でもある。
カケルがふと見上げると、そこには永遠に晴れることのない曇天が広がっていた。
その厚い雲の向こう側には、今も変わらず黄金の楽園が浮遊しているはずだ。
自分たちが踏み躙ってきた下界の命。
その計り知れない重みが、今の自分という「死神」を形作っている。
瑠璃色の瞳に映る景色は、どこまでも冷たく、そして酷く歪だった。
翌朝。
浅い眠りから引きずり出されるように目を覚ますと、軍内は早朝から異様なまでの喧騒に包まれていた。
廊下を走る兵士たちのブーツの音、怒号に近い通信の声。
カケルは、その騒乱の源へと足を向けた。
「……シンスケさん。何かあったんですか?」
壁に背を預け、苛立ちを隠そうともせずに煙草を燻らせているシンスケを見つけ、カケルは声をかけた。
シンスケは鋭い眼光をカケルに向け、短く吐き捨てた。
「……寝返りだ。昨日のあの将校だよ。前から裏で『遠呂智』へ情報を流してやがった。昨夜、情報局の内偵に気づいて逃げやがったらしい」
シンスケの言葉に、カケルの心臓が微かに跳ねた。
昨日の会議での、あの激しい衝突。
カケルが彼の意見を真っ向から否定したことが、何かの引き金になったのではないか。
「……俺の、せいですか。俺が彼を追い詰めたから」
「気にすんな。どんな局面だろうと、戦うも逃げるもそいつ自身の選択でしかねえよ。お前が気に病む話じゃねえ」
シンスケのトーンは不機嫌そのものだったが、その言葉には一点の曇りもなかった。
カケルが余計な罪悪感に囚われないよう、彼なりに配慮した、不器用な慈悲だ。
シンスケは煙草の灰を床に落とし、さらに言葉を継ぐ。
「んなことより、今は俺たちの情報を『遠呂智』の奴らにこれ以上渡さないことが先決だ。あの将校は軍の防衛コードの一部を握り込んでやがる。奴がネズミの親玉にそれを差し出せば、天導府の首筋に刃を立てられるのと同義だ」
軍の防衛コード。
それが『遠呂智』の手に渡れば、戦況は一気に加速するだろう。
カケルは、自らの白銀の義手をじっと見つめた。
「……俺が行きます。その将校の追跡、俺にやらせてください」
「ほう。死神様がお出まし頂けるか。……いいぜ。大将への許可は俺が通す。だがな、白銀。裏切り者には情けをかけるなよ。奴はもう、この国の歯車ですらねえ。ただの汚物だ」
シンスケの不敵な笑みが、影の中で鈍く光った。
カケルは短く頷き、翻るようにその場を去った。
外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。
「白銀の八咫烏」としての任務のひとつ。
それは、自分と同じように居場所を失い、闇に堕ちた同胞を狩ること。
カケルは瑠璃色の瞳に静かな殺気を宿し、黒煙の上がる市街地へと身を投じた。
その先で待っているのが、かつての友の組織であるという「確信」に近い予感を、雨音の中に強引に沈めながら。
◇
一方、軍の情報を手に入れたという報を受けた『遠呂智』の拠点は、静かな熱に浮かされていた。
首領であるヤマトは、手元に届いた「軍の不備」を指し示すデータを見つめ、口角を僅かに吊り上げる。
「……面白い。これで、あの『白銀』の喉元まで、最短距離でいけるわけだ」
漆黒の義手が、獲物を待つ蛇のように静かに駆動音を鳴らす。
「……この情報は確かなものなんだろうな」
寝返った将校が、ヤマトの試すような語りに苛立ちを募らせる。
「天導府の貴重な機密データを渡したのだ! 私の身の安全はしかと保証しろ、このドブネズミ共が!」
ヤマトの横に控えていたカズマが、将校の首を掴み捻り上げる。
「……醜いブタ野郎。口の聞き方に注意しろ。俺は気が短い。リーダーの指示が飛ぶ前に、お前を肉の塊にするくらい、訳ないことなんだぜ」
「ぎ、ぎいぃ……っっ!」
カズマがヤマトを一瞥する。
ヤマトの冷酷な目つきを確認したカズマが、首を掴んでいた手を無造作に離すと、将校は床に無様に尻餅をついた。
涙と鼻水で顔を歪ませ、目の前の少年たちの圧倒的な威容に、その体は小刻みに震え続けていた。
「……残りの情報を吐かせろ。だが、命は取るな。即刻この場から連れて行け。この男の醜い叫び声は、イツキの耳に障る」
ヤマトが氷のような声で告げると、遠呂智の構成員たちに裏切り者が引き摺られていく。
かつての威厳も誇りもない醜態を、ヤマトは虫唾が走るような思いで見送った。
「カズマ。お前は別方面から軍を撃て。白銀とやらは、俺がこの手で喰らい尽くす」
「何だよ、俺の獲物だと思ってたのに」
カズマが残念そうにため息を漏らす。
だが、ヤマトは冷徹な金色の瞳を向けたまま、具体的な命を下した。
「……ヤツは『八咫烏』だ。必ず単独で懐まで潜り込んでくる。カズマ、お前の仕事はその後に続く軍の増援を一人残らず足止めすることだ。白銀に、退路も援護も与えるな」
「へえ、逃げ道を塞げってか。……つまり、美味しいところは全部リーダーが持っていくってわけだ。相変わらず人使いが荒いぜ」
カズマは毒づきながらも、首の骨をボキボキと鳴らし、闘争心を剥き出しにした笑みを浮かべる。
両脚の義足がガチリと床を噛み、獲物を前にした獣のような殺気が膨れ上がった。
「いいぜ、やってやるよ。後ろから来る雑魚どもは、俺がまとめて肉塊に変えてやる。……その代わり、その『白銀』ってヤツに格好悪く負けんなよ、リーダー」
カズマは無造作に、ヤマトの肩を拳で小突いた。
組織の上下を超えた、死線を共にした者だけの短い挨拶。
そのままカズマはビルから飛び降りて行った。
──嵐の前の、束の間の静寂。
作戦室に残されたイツキは、そっと自分の耳に触れ、それからヤマトへと歩み寄った。
「……ありがとう、ヤマト」
イツキの声は、下界の重く湿った空気を微かに震わせ、凍てついた心を優しく撫でる、春風のように温かい響きだった。
その声が、冷徹に振る舞うヤマトの心を微かに溶かす。
「……お前のその耳は、戦場で敵の死角や、仲間の微かな綻びを聞き取るためのものだ。……あんな薄汚い男の命乞いなんて、一秒たりともお前の鼓膜に入れる必要はない」
突き放すような、冷たい物言い。
けれど、その言葉の裏にある「守ろうとする意志」を感じ取り、イツキはふっと、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「……君のそういうところ、僕はとても好きだよ」
イツキの温かい声と穏やかな眼差しに、ヤマトの肩が僅かに跳ねた。
彼はゆっくりと首だけを動かしてイツキを一瞥したが、その真っ向から向けられた慈愛と視線を合わせることはできず、居心地が悪そうにすぐさま目を逸らした。
「……勝手なことを言うな。行くぞ、準備しろ」
ぶっきらぼうに言い捨て、ヤマトは漆黒の蛇を唸らせて部屋を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、イツキは再び胸元を押さえる。
ヤマトの義手へ流れ込む神経信号。その奥に混じる、三年前の記憶に由来する激しい不協和音。
それは今までになく大きく、これから始まる惨劇を恐れるかのように、悲鳴を上げ続けていた。
これから始まる惨劇を予見し、絶望に震える調べ。
それでも、イツキの瞳には迷いはなかった。
自分たちの『生きる場所』を守ってくれる「王」が選んだ道の先なら、たとえそこが地獄であっても、共に墜ちる覚悟はとうに決まっていた。




