第06話:死神の観察眼、白銀の八咫烏 / THE SPECTER
軍議室の重厚な空気は、外部の喧騒を一切寄せ付けない。
長机の各所に配置されたモニターだけが、下界の惨状を無機質な数値として映し出していた。
その中央に座る、天導府司令長官・風鋒タツマ。
厳しい面持ちを崩さぬその姿は、まるで彫刻のように動かない。
彼の傍らから漂う高級茶の香りは、かつてカケルが過ごした高天原の、穏やかで退屈な午後を強烈に想起させた。
「白銀。戻ったか。連日の任務、ご苦労だったな」
タツマが短く、重みのある声で告げた。
その視線は鋭いが、かつて「橘カケル」であった少年の面影を探るような静けさを湛えている。
中央区画の軍、天導府。
高天原の厳重な管理下にあるこの組織の使命は、下界の秩序維持──すなわち、反乱分子の徹底的な鎮圧だ。
国を捨てたはずの自分が、今こうして傭兵という立場で、再び管理下にある軍に身を置いている。
その歪な矛盾に喉の奥が焼けるような感覚を覚えながらも、カケルは無機質な表情を崩さない。
名前すら捨てた今のカケルにとって、『白銀』という左腕の義手を指す呼び名だけが、この世界における唯一の記号だった。
「……次の任務について聞かせてください」
カケルが淡々と返すと、タツマは茶器を置き、わずかに眉根を寄せた。
「そう急ぐな。我々に必要なのは、死に急ぐ英雄ではない。確実に秩序を維持する『機能』だ。……少しは休め。道具は手入れを怠れば、いざという時に役に立たなくなる」
タツマの言葉は、大人としての気遣いであると同時に、カケルを効率的な「駒」として管理しようとする軍人としての冷徹な算段だった。
横に控えるシンスケが、丸眼鏡を指で押し上げながら、カケルの横顔を射抜くように見つめている。
「司令官殿の仰る通りだぜ、白銀。お前さんが壊れちまったら、せっかくの『八咫烏』の案内も地獄に繋がっちまうからな」
シンスケの皮肉めいた補足を受け流し、カケルは白銀の義手を強く握りしめた。
軍の駒として、下界を蹂躙し、秩序という名の静寂を築き上げる。
その血塗られた一線の先に、あの日放してしまった「手」が待っている。
カケルは、そう信じようとしていた。
「さて。乾から聞いていると思うが、レジスタンスのリーダーの容貌が少しずつ掴めてきた。我々としては、これ以上火種が広がる前に、一気に畳み掛けて事態の鎮圧を図りたい。君の意見はどうだ」
重々しい沈黙を破ったのは、タツマの声だった。
ホログラムが映し出すハイヴの立体マップ。
そこには、『遠呂智』の活動拠点とされるエリアが赤く点滅している。
タツマがカケルに意見を求める時、それは戦場を冷徹に俯瞰し、たった一人で戦局を塗り替えてきた「死神」の目線から、敵を一網打尽にできるかという冷酷な問いでもある。
カケルの一言で、数千の兵の命運が書き換えられる。
意図しないところで自分の影響力が膨れ上がっている事実に、カケルの胸には、逃れようのない泥のような感情が込み上げた。
「……軍が掴めている『遠呂智』の情報は、決して多くありません。敵情も掴めぬまま攻め込めば、各部隊を分断され、結果として戦力の逐次投入を強いられます。大きな犠牲は避けられません」
カケルの声は、感情を削ぎ落とした刃のように鋭く、そして静かだった。
彼が危惧しているのは、軍の被害だけではない。
もし、そのリーダーが「彼」であったなら──。
確証のない、けれど拭い去れない予感が、カケルの言葉を慎重にさせていた。
「ふむ。努めて冷静な意見だ。死神の観察眼というのも、案外、風雅なものだな、乾」
タツマがそう語りかけると、傍らに座るシンスケが、不敵な笑みを浮かべて喉を鳴らした。
だが、前線部隊を預かる将校の一人は、苦々しい表情を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「司令長官! 何処の誰ともつかない野良犬の意見など、鵜呑みにしてはなりません! これ以上戦いを引き延ばす方が、被害を広げるばかりです!」
その将校は椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、カケルを激しく睨みつけた。
正規軍のプライドにとって、出所不明の傭兵に戦略の是非を問う今の状況は、屈辱以外の何物でもない。
「貴様、臆したか? 『白銀の八咫烏』ともあろう者が、薄汚いネズミどものリーダーなどに怯えるとはな。所詮は野良犬の身、同族を殺すのが惜しくなったか!」
投げつけられる罵倒。
カケルはそれを、風に舞う塵のように受け流した。
かつての彼なら、こうした悪意に心を痛めていただろう。
だが、今のカケルの胸にあるのは、凍てつくような虚無だけだ。
瑠璃色の瞳が、ゆっくりと将校を捉える。
「……臆しているわけではありません。ただ、無能な采配で無駄な血を流すことは、軍にとって何の利益ももたらさないと言っているだけです」
「貴様ッ……!」
将校が激昂し、腰のホルスターに手をかけようとした瞬間。
カケルの左腕──白銀の義手が、不気味に輝いた。
ただそれだけの動作で、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を周囲に抱かせる。
カケルは怒りもせず、ただ底の知れない瑠璃色の瞳で、目の前の男を「障害物」としてのみ見据えていた。
「静かに。……白銀の言う通りだ」
タツマの短い一言が、荒れかけた場を制した。
「急いて仕損じれば、高天原の権威に傷がつく。リーダーの首を獲る時は、それが組織の最期であるべきだ。……白銀、潜入と偵察を命じる。敵のリーダーが『何者』であるか、その正体を暴いてこい」
「……承知しました」
短く応じ、カケルは背を向けた。
廊下を歩きながら、カケルは義手の指を、一本ずつ確かめるように動かす。
脳裏をよぎる記憶の断片を、彼は必死に心の底へ押し込めた。
「随分と嫌われたもんだな」
振り返ると、壁に背を預けたシンスケが、端末の青白い光に丸眼鏡を反射させていた。
指先に挟まれた煙草からたゆたう紫煙が、殺風景な通路に下界の匂いを微かに混ぜ込む。
「黙ってりゃ彫刻のように上品な貴公子様だが、ひとたび戦場に出りゃ、誰よりも冷酷に命を刈り取る死神だ。……無理もねえ。並の連中にゃ、お前のその『業』は重すぎるのさ」
シンスケは吸い殻を携帯灰皿に放り込み、カケルの横に並んだ。
投げやりな言葉とは裏腹に、その視線はカケルの左腕──白銀の義手を、いたわるように一瞬だけ捉える。
「……シンスケさん」
「人間の本性ってぇのは、環境が変わったくらいじゃそうそう磨り減らねえ。……あいつら軍人っつっても、根っこは遠呂智と変わらねえ野良犬だ。奪い合うことしか知らねえ連中の遠吠えさ。気にするだけ時間の無駄だぜ」
不作法を装ったその言葉が、凍りついたカケルの心に、わずかながらの体温を宿す。
乾シンスケという人間は、天導府という冷徹な秩序だけが支配する檻の中で、カケルを「高天原の亡霊」でも「軍の便利な道具」でもなく、ひとりの壊れかけの少年として見つめていた。
「……行ってきます」
カケルは足を止め、シンスケに向き直った。
そして、流麗な所作で深く頭を下げる。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、指先まで完璧に神経の通った、天上界の礼法。
泥にまみれ、死線を越え、名前すら捨てたはずの男が、無意識のうちに滲ませてしまった至高の気品。
それは、自分を虐げようとする悪意や、道具として管理しようとする支配を、その指先一つで鮮やかに拒絶しているようにも見えた。
「……どうも敵わねえな、こりゃ」
カケルが立ち去り、背中が遠のいていく。
シンスケは癖毛の頭を乱暴に掻き回しながら、その真っ直ぐな後ろ姿をただ見送った。
絶望の最果てにいようとも、自らの「美しさ」を捨てきれない。
その高潔な危うさが、この澱んだ組織の中で、かつて大人たちが見失った『光』をあまりにも鮮烈に示していた。
「……せいぜい、その火を消さねえようにな。死神さんよ」
シンスケの独白は、カケルを戦場へと誘う酸性雨の音にかき消されていった。




