第05話:ゼロハチの刻印、白銀の死神 / THE IDENTIFIER
重く湿った体を、固いベッドから無理やり引き剥がす。
枕元の時計は「朝」を告げているが、窓の外に広がるのは、日の光を拒絶するような澱んだ鉛色の空だ。
──朝が来ない国。
かつてヤマトがこの国を吐き捨てるようにそう呼んでいた意味が、今ならよく理解できる。
実際にこの地で呼吸し、泥にまみれて生きることで、ヤマトが零していた言葉の破片が、一つ、また一つとパズルのように嵌まっていく。
それらを咀嚼し、心に深く刻み込むことだけが、身分を捨てたカケルに残された唯一の贖罪だった。
「白銀。入るぞ」
返事も待たず、乱暴に扉が開く。
型に嵌まった儀礼など、彼にとっては時間の無駄でしかないのだろう。
丸眼鏡の奥で眠たげな目を擦り、癖毛の頭を掻きながら入ってきた男──情報統括官・乾シンスケ。
態度は不作法そのものだが、身に纏う軍服はシワ一つなく、規律を重んじる天導府の将校として完璧に整えられている。
端正な身なりと、指先に挟んだ煙草から無造作に立ち上る紫煙。
その矛盾した佇まいは、ハイヴの混沌を飼い慣らす彼の歪な有能さを体現していた。
「シンスケさん。おはようございます」
カケルは立ち上がり、淀みのない動作で深く腰を折る。
流浪の末、皮肉にも再び高天原の管理下にある中央区画の軍──『天導府』に傭兵として身を置いているのは、ただ一つの目的、ヤマトの情報を手繰り寄せるため。
今の彼を定義するものは、左腕に輝く義手の色、『白銀』という呼び名だけだった。
「天導府に来て一年経っても、お前は変わらねえな。……天上界直伝の『習慣』ってやつは、ハイヴの泥を被った程度じゃ取れそうにない」
シンスケは口角を僅かに上げ、茶化すように鼻で笑った。
その言葉に一瞬だけ混じった「かつての肩書き」への皮肉は、彼がカケルの真実を知る数少ない人間であることを無言で告げていた。
「……シンスケさんこそ。任務の前に煙草は、肺に毒ですよ」
「毒を喰らって毒を制す。……これがハイヴの生き方だ。それより、お前に新しい『掃除』の仕事が降りてきたぞ」
シンスケが不機嫌そうに端末を差し出す。
その画面に映し出されたのは、東地区の重要拠点──絞首台の門だ。
「あそこは元々、高天原に背いた『不純物』を吊るし上げるための巨大な処刑場だった場所でな。今じゃあの『遠呂智』が、軍の連中を逆に引き摺り込むための、巨大な罠に変えちまった」
絞首台の門。
かつて数多のハイヴの民が絶望と共に潜った門は、今は軍の正規兵たちが、姿なき大蛇の牙に怯えながら足を踏み入れる「死の入り口」と化していた。
「……東に放った草との連絡が途絶えた。どうも、俺たちの工作を事前に見破る、厄介な『目』が向こうにはいるらしい」
ハイヴの中でも最も治安が荒廃し、瓦礫と汚泥が支配する無法地帯。
カケルが身を置く『天導府』が制圧に最も手を焼いている最前線だ。
「かろうじて持ち帰った、『遠呂智』の情報だ。……見ろ。これが、そのリーダーと言われている男だ」
シンスケが端末を叩くと、粒子が乱れる粗い画像が浮かび上がった。
瓦礫の影、深くフードを被った青年の姿。
画質は最悪だが、そこから放たれる異様なまでの威圧感は、静止画越しでも十分に伝わってきた。
「奴は桁違いの頭脳と力の持ち主だって話だ。軍の監視網に姿を現してから、わずか一年で、あの無法地帯に住む破落戸共を一つの組織として纏め上げやがった」
カケルは吸い寄せられるように、そのホログラムへ一歩歩み寄った。
青年のマントから覗く両腕。
そこには、ハイヴの光をすべて飲み込むような、禍々しい漆黒の義手が備わっていた。
「……この辺りでは見ない型の義手ですね。何者ですか、この男は」
努めて冷静に問いかけるカケルの声が、微かに震える。
漆黒の義手。
その曲線は、まるで獲物を締め上げる大蛇のように、不気味な脈動を湛えているように見えた。
「さあな。奴の足元に辿り着く前に、潜入部隊はことごとく『排除』されちまう。……正体も、目的も、すべては闇の中だ。東の奴らは、この男が戦場に降り立つことを『神依』と呼んでいる。あそこの人間共にとっては、奴は神と同等ってことだ」
かつて高天原でカケルが舞っていた『天の舞』。
平和を寿ぐそれは、楽園の民にとっての至高の神事だった。
しかし、ハイヴにおける神事は、積年の恨みを晴らし、敵を蹂躙する破壊そのもの。
──救済の形が、これほどまでに違う。
その皮肉さを噛み締めていると、シンスケは忌々しげに煙草の灰を落とし、カケルの肩を叩いた。
「……ま、天の導きなんてご立派な名前を掲げてる割に、俺たちがやってることは反乱分子の鎮圧だ。ハイヴの奴らにとっちゃ、こいつは、そりゃ魅力的な依代なんだろうよ」
シンスケの自嘲を他所に、カケルの視線がホログラムの一点に縫い付けられた。
「……シンスケさん、ここ、少し拡大できますか」
端末から放たれる青白い光が、カケルの瑠璃色の瞳に反射し、その奥で小さな光の粒子が激しく明滅する。
画像の向こう。
漆黒の腕を持つリーダー。
彼の義手の装甲の継ぎ目が見えた。
「ん? ああ、いいぜ。……この解像度じゃあ、これ以上は無理矢理になるがな」
シンスケが指先で端末を叩くと、カケルの指定した箇所が、グリッドの形を歪めながら限界まで拡大された。
そこには、無機質な数字の羅列が刻まれている。
「なんだこりゃ。数字か?……UNIT…あとは、ゼロと、ハチか?」
シンスケが怪訝そうに呟いた瞬間、カケルの心臓が、肋骨を突き破らんばかりの衝撃で跳ねた。
画像の向こう。
漆黒の腕を持つリーダー。
その義手の装甲の継ぎ目に、不釣り合いな鈍銀色の小さな銘板が埋め込まれていた。
新しい漆黒の装甲へ、古い機械から切り取って移植したかのような、傷だらけの識別板。
『UNIT-08』。
視界が白濁し、鼓動が耳の奥で爆音を立てる。
忘れもしない。
三年前、奈落へと墜ちるその瞬間まで、カケルが繋ぎ止めていた「鉄の腕」に刻まれていた識別番号。
高天原のシステムが一人の少年に押し付けた、救いようのない絶望の刻印。
カケルの指先が、無意識のうちに白銀の義手を強く握りしめた。金属同士が軋む不吉な高周波が、静まり返った室内に響き渡る。
(……ヤマト。君なのか……?)
画像の中の男は、かつての銀色ではなく、すべてを拒絶するような漆黒を両腕に纏っている。
だが、その数字は間違いなく彼がこの世界に生きた証であり、カケルへの、あるいは高天原への、血塗られた挑戦状のように見えた。
「……どうかしたか、白銀。顔色が最悪だぜ」
シンスケが丸眼鏡の奥から、射抜くような視線を向ける。
カケルは短く息を吐き出し、強引に動揺を抑え込んだ。
「……いえ。なんでもありません。ただ、少し……気になる『記号』だっただけです」
カケルは窓の外に広がる灰色の空を見つめた。
あの日、自分が放してしまった手。
自分の中に眠る異形が、傷つけてしまった友。
もし、この漆黒のリーダーが彼であるなら。
再び向かい合った時、自分は彼に何を伝えたらいいのか。
「さ、無駄話もそこそこに切り上げて、軍議を始めるぜ。掃討戦の計画だ。……勿論お前には、最前線に立ってもらう。拒否権はねえぞ」
シンスケは吸い殻を無造作に灰皿へ押し付け、立ち上がった。カケルはその背中を追い、静かに頷く。
カケルは傍らに置かれた軍服を手に取ると、一切の無駄を削ぎ落とした動作で身を包んでいった。
鏡に映るその姿からは、もはや一国の皇太子としての慈悲も、迷いも読み取れない。
ただ、下界の闇を切り裂くために研ぎ澄まされた、一振りの冷徹な凶器がそこに立っていた。
「……お待たせしました。行きましょう」
今のカケルは、軍という巨大な歯車の一部でありながら、その実、どの歯車とも噛み合わない独立した「破壊の装置」として、自らを定義していた。
軍議室へと続く灰色の回廊。
シンスケと並んで歩くカケルの前を、行き交う兵士たちが物理的な障壁に触れたかのように一瞬で凍りつく。
重厚な軍議室の扉が、油圧の音を響かせて開く。
中には、東地区の掃討作戦を練り上げる将校たちが待ち構えていた。
その中心、テーブルに広げられた殺戮の設計図を見据え、カケルは瞳を鋭く細める。
(……もし、本当に君だとしたら。俺は、君に何を──)
心臓の奥で鳴り止まない不吉な鼓動が、再会という名の終焉を告げている。
カケルは湧き上がる予感を飲み込むように、無機質な軍議室の闇へとその身を投じた。




