第02話:忘却の聖域、蒼き稲妻の記憶 / BLUE THUNDER
作戦室を後にしたヤマトは、無機質な廊下を一人進み、アジトの最深部──厳重に区切られた隔離療養室へと向かった。
ふと、廊下の窓から見える瓦礫の街に視線を落とす。
そこには、ヤマトの素顔も、その名すらも知らない下界の住人たちが、息を潜めて生きている。
彼らにとって『遠呂智』のリーダーは、実体を持たない不気味な伝説であり、同時に唯一の希望だった。
どこからともなく現れ、忌々しい高天原の軍に「天罰」を下すようにすべてを無に帰して去っていく漆黒の影。
その姿を拝んだことのない街の人間たちは、人知を超えた破壊を撒き散らすその存在を、自分たちの憎しみを代行する「下界の救世主」として、熱狂と畏怖を込めて崇めていた。
偶像として肥大化していく自分への信仰。
その歪な熱量を背負いながら、ヤマトは静まり返った廊下を奥へと進む。
重厚な気密扉が静かにスライドすると、そこには外の喧騒とは切り離された、嘘のような静寂が横たわっていた。
部屋の中央。
乳白色のカプセルの中で、一人の少女が眠っている。
ヤマトと同じ赤、しかし柔らかな夕暮れの様な色の髪を持つ少女──サクラ。
彼女は、あの日から一度も目覚めることなく、ただ規則正しい鼓動だけを刻み続けていた。
生命維持装置の微かな駆動音だけが、ここが「墓所」ではなく「揺り籠」であることを辛うじて証明している。
三年の歳月は、眠り続ける彼女の身体にも確実に訪れていた。
かつての幼さは影を潜め、輪郭は緩やかに大人へと近づいている。
閉じられた瞼に落とす長いまつ毛、凛と通った鼻筋──その面差しは、兄であるヤマトと生き写しと言っていいほどによく似ていた。
だが、その微睡の先で、ヤマトと同じ金色の瞳が自分を見つめ返すことは、あの日から一度としてなかった。
ヤマトは傍らに寄り添い、漆黒の義手を伸ばした。
獲物を締め上げる大蛇の彫金が施された禍々しい「牙」が、彼女の柔らかな額にそっと触れる。
以前の義手『ジャンク・ドライブ』とは一線を画す、滑らかな駆動音。
高精度のセンサーが、サクラの確かな体温を脳へと伝えてくる。
人を屠るための牙でありながら、愛する者を撫でる指先すら完璧に模倣する、残酷なまでの完成度。
かつては『鉱血症』に侵され、四肢が硬化し始めていた彼女の身体。
あの日、奈落に吸い込まれたヤマトと、彼の腕の中に抱かれたサクラに降り注いだ、少年の涙。
辺りは眩い光に包み込まれた。
高天原の高度な医療技術を奪ったわけでも、特効薬を使ったわけでもない。
ただ、少年の涙と光が、理不尽に世界を侵食していた「鉄」を文字通り消し去ったのだ。
ヤマトの知るどんな論理も通じない、あまりに純粋な奇跡。
病の影が祓われた彼女の肌は、今はただ生まれ持ったままの滑らかさを取り戻している。
だが、代償のように彼女の意識は深い光の底に沈んだままだ。
ヤマトは妹の寝顔を見つめ、漆黒の腕を強く握りしめた。
カケルの涙は確かにサクラを救った。
それなのに、彼女の時はあの日を境に止まったままだ。
──いつか彼女がその瞳を開く時、この汚れた世界を「マシな場所」にしておきたい。
その執念が、今のヤマトを突き動かす唯一の心臓となっていた。
サクラの寝顔を見つめるヤマトの脳裏には、今もあの少年の姿が焼き付いている。
高天原の皇太子、無垢なる太陽──カケル。
自分とは正反対の極致に座しながら、彼はヤマトという「毒」を一切疑わず、絶対的な信頼という名の無垢な笑顔で迎え入れた。
その純粋さが、かつては疎ましかった。
だが今は、その熱こそがヤマトの心臓に深く突き刺さったまま、彼を凍てつかせない火種となっている。
高天原によって拉致されたサクラの奪還劇の末、最終処理区画の断壁。
ヤマトとサクラは、琥珀の無慈悲な一撃によって奈落の底へと突き落とされた。
重力に魂を引かれ、死の静寂へと加速していく二人。
それを繋ぎ止めようと、楽園の頂点に座すべき皇太子が、迷いなくその身を絶望の淵から乗り出した。
メキ、という関節が外れる音。
筋肉が悲鳴を上げ、ミシミシと断裂していく感触。
カケルは苦痛に顔を歪めながらも、ヤマトの手を決して離さなかった。
汗と涙に塗れ、必死に食いしばるその不格好な顔。
それは高天原という虚飾の楽園には決して相応しくない、泥臭い「生」の執着だった。
だが、琥珀が仕掛けた「何か」が、無情にもカケルの腕に数万ボルトの電流を走らせる。
カケルの意思とは裏腹に、限界まで引き絞られた指が弾かれるように解けた。
目が合った瞬間の、あの絶望に染まったカケルの顔。
守りたかったものを自らの手で放してしまった者の、魂が砕けるようなあの表情が、今も瞼の裏から離れない。
重力のまま落下しながら、ヤマトは静かに死を覚悟した。
腕の中のサクラを強く抱きしめ、下界の硬い鉄塊に叩きつけられる運命を受け入れるしかなかった。
しかし、その矢先。
自分たちを追って、遥か上空から「龍」が降りてきた。
猛烈な気圧を切り裂き、蒼白い稲妻を全身に纏いながら、凄まじい速度で堕ちてくる異形の影。
天を揺るがす咆哮を上げ、空を焦がして迫りくるその中心には──紛れもない、あの友がいた。
カケルを包み込む「蒼き龍」が、大きく顎を開いた。
その喉奥から放たれたのは、言葉ではない。
大気を震わせ、天地を震撼させる雷鳴。
直後、碧落を裂く迅雷が、奈落へと堕ちていくヤマト目掛けて放たれようとした。
ヤマトは反射的に身を縮め、腕の中の小さな命を必死にかばった。
迫りくる雷光は、救いか、あるいは引導か。
視界を埋め尽くす眩い碧き稲妻の中、ヤマトの耳を貫いたのは、カケルの喉が裂けるほどの叫び声だった。
その時、地獄のような轟音をすべて包み込むように、空のどこからか、柔らかな子守唄が聞こえ始めた。
荒れ狂う風の音も、雷鳴も、遠く聞こえる警報音も、その旋律に溶けて消えていく。
──ふと、温かな雫がヤマトの頬を打った。
雫の正体は、上空、龍の中心にいるカケルの、瑠璃色の瞳から溢れ出した涙だった。
その雫がサクラの身体に触れた瞬間、ヤマトの全身を、どんな熱源よりも眩い光が飲み込んだ。
光は、サクラを蝕んでいた『鉱血症』を根こそぎ剥ぎ取り、ヤマトの神経を焼き焦がしていた過負荷を優しく、静かに癒していく。
信じられないほどの「奇跡」の光。
そのまま、全身を打ち据えるような凄まじい衝撃に弾かれ、ヤマトの意識は急速に希薄な白へと反転していった。
最後に感じたのは、柔らかな光の感触と、カケルの震える声──。
そして、ヤマトは深い闇の底へと落ちていった。
◇
「ヤマト。先生が呼んでるわ」
背後からかけられた呼び声で、ヤマトは現実に引き戻された。
その声の正体──ニナは、サクラに視線を落としたままのヤマトの隣に並び、同じようにその寝顔を覗き込んだ。
「……私の目でも、彼女の中で今何が起きているのかはわからない。体温、脈拍……全て正常なのに。まるで精神だけが別の世界にいるみたい」
「……こんなところでお前の『視る力』を使うな、ニナ。お前の目は、脳への負担が特別大きい」
青白い光が消えた直後、ニナは僅かに目元を押さえた。
その代償を誰より知るヤマトの言葉に、彼女は微かに口元を緩ませる。
「随分優しくなったじゃない。……あんなに尖ってた狂犬が、今じゃ下界の闇を統べる百獣の王なんてね。さあ、飼い主様がお待ちよ。早く行きなさい」
諭すように話すニナ。
呼び出し相手の顔を思い浮かべながら、ヤマトは眉間に皺を寄せた。
自分にこの漆黒の両腕を装着させた、張本人。
高天原の規格化された技術とは根本から異なる、出所不明の異端なる機械工学。
表の市場には決して流通することのない、その男独自の執念が凝縮された漆黒の義手。
サクラをこの療養室へ繋ぎ止める代価として、ヤマトは自ら「検体」となった。
彼が提示した「条件」が、今のヤマトの立場と、この禍々しい義手を身につけるきっかけとなった。
──目の前で寝息を立てる妹が目を覚ました時、彼女は何を思うだろうか。
ジャンク・ドライブを無理矢理接合した時のように、声を震わせた後、微笑みかけるだろうか。
思いを馳せようとし、ヤマトはすぐにやめた。
自らの意思で選んだ覇道。
最早、立ち止まることは許されない。
ヤマトは踵を返し、下界の「先生」と呼ばれる男の元へ向かうことにした。




