第03話:白銀のノイズ、亡霊の指輪 / SILVER PHANTOM
重厚な鉄扉を押し開けるようにして入った医務室。
そこには、下界特有の焦げ付いた鉄の匂いと、鼻を突く消毒液の匂いが混濁していた。
湿った空気は淀み、天井で頼りなく明滅する蛍光灯が、部屋の隅々に深く濃い影を落としている。
錆びついた椅子に深く腰掛け、柴色の羽織を纏った眼鏡の男──『先生』が、無機質なカルテに目を落としていた。
その羽織には、およそこのスラムには不釣り合いな、銀糸による繊細な刺繍が施されている。
下界では逆立ちしても拝めないような職人仕事の代物が、彼の出自が単なる煤に塗れた地獄ではないことを、皮肉に物語っていた。
その傍らには、影のように佇む一人の少年・イツキがいた。
彼は男の助手を務めながら、反逆組織『遠呂智』のメンテナンスを医学・機械工学的な側面からサポートしている。
イツキの左耳には、精緻な歯車が噛み合う真鍮製の補聴器が据え付けられていた。
それは、耳の輪郭を金色の蔦のように這い回り、音を捕まえるための奇妙な外骨格のように見えた。
かつて高天原の実験室で、聴覚を増幅させ「意味」を抽出するデバイスを埋め込まれた五番目の検体──『UNIT-05』。
実用化の前に生来の聴覚を焼き切られ、用済みとして捨てられた。
だが、耳に残された装置は今も、義手の駆動音から機構の綻びを「意味」として拾い上げている。
イツキの菫色の瞳は感情を排したまま、ヤマトの漆黒の義手に秘められた微かな駆動音を、静かに聞き取っていた。
「やあ、『ゼロハチ』。腕の調子はどうだね」
男が顔を上げずに放ったその名は、かつてヤマトが運命に押し付けられた、忌まわしい識別番号だ。
ヤマトは一言も発さない。
ただ、射抜くような嫌悪の視線をカナメへと向け、乱暴に診察台の端に腰を下ろした。
「……変わりない。大した用がないなら、いちいち呼びつけるな、カナメ。あんたとの接触は最低限にしたいと言ったはずだ」
「クク、『兄弟』たちとは随分と馴染んだようだが、私への無礼は相変わらずか。……まあいい。リーダーのお前の耳には入れておくべき、面白い『ノイズ』を拾ってね」
カナメと呼ばれた男がカズマやニナ、そしてイツキを指して「兄弟」と呼ぶたび、ヤマトの義手の奥で不快な放電が走る。
捨てられた者同士を同じ括りで呼ぶその傲慢さが、ヤマトには堪え難かった。
カナメは不敵な笑みを浮かべ、細い指先でコンソールを叩いた。
空中に展開されたホログラムには、中央区画にそびえ立つ軍の重要拠点──天導府の監視網が青白く映し出される。
複雑に絡み合う通信の糸が、まるで蜘蛛の巣のように下界を覆っているのが見て取れた。
「ここ一年、軍の内部で奇妙な動きを見せている男がいる。名も無き傭兵だ。軍の暗部から最前線に出始め、ここ数ヶ月、相当な活躍を見せている。お前と然程年齢の変わらぬ青年だそうだ」
一年前──その言葉が、ヤマトの思考を鋭く刺した。
一年前と言えば、自分がこの漆黒の義手をその身に馴染ませた後、組織のリーダーとして、世界へ向けて正式に牙を剥いたのと同時期だ。
この混沌とした世界で、名も知らない、自分と同じ年代の青年が、全く正反対の立場で戦場に立っている。
その事実に、ヤマトの胸の奥で正体不明の因縁が鎌首をもたげた。
「……『白銀の八咫烏』か」
ヤマトは淡々と返した。
その情報は、すでに仲間のニナが持つ『眼』が捉えている。
突如として軍の最前線に現れた謎の青年。
彼が戦線に立つだけで、戦況は瞬時にして塗り替えられる。
風のように現れては消えるその神出鬼没さゆえ、詳細は未だ深い霧の中だ。
「白銀の八咫烏」の役目は、神話本来の道案内ではない。
彼が導く戦線の先には、逃れようのない「死」が待ち構えているという。
「ほう。耳が早いな。……では、『詳細』までは掴めたか?」
カナメはカルテから顔を上げ、眼鏡の奥で鈍く光る瞳をヤマトに向けた。
その視線は、ヤマトの金色の瞳を執拗に捉え、彼の内側を解剖しようとする蛇のようだ。
ヤマトは動じない。
漆黒の義手の指先を微かに動かし、その視線を正面から受け止めた。
「……さあな。ニナが捉えた情報でも、『左腕に白銀の義手を身につけた青年』という以上のものはない」
無類のスキャン能力を持つニナの『眼』をもってしても、その傭兵の輪郭を捉えきれない。
軍の記録、通信ログ、生体認証──そのすべてが、まるで最初からそこには誰もいないかのように、不自然なほど白く塗りつぶされている。
「クク……。あの『目』を持つ『02』でもそこまでか。それほどの秘匿、あるいは『異分子』が、今の中央軍には潜んでいるということだ。天の烏が、下界の泥を掃き溜めに変えようとしているのかもしれんよ。お前たちの居場所もろともにな」
カナメは満足そうに口角を上げ、不気味な笑みを漏らした。
ヤマトは、その不吉な笑みを吐き捨てるように、冷徹な声を室内に響かせる。
「構わん。そのうち戦場で嫌でも顔を拝めるだろうさ。……喰らい尽くすのは、その時でも遅くはない。白銀だろうが何だろうが、俺の前に立つなら噛み砕くだけだ」
ヤマトの金色の瞳に、かつての狂犬としての獰猛さと、王としての冷酷さが混じり合う。
それ以上語ることはないとばかりに、ヤマトは背を向けた。
翻した赤い髪が火花のように散り、重厚な扉が再び閉まる。
背後で、イツキが去りゆくヤマトの背中を、言葉を失ったまま見送る。
彼の耳には、義手へと流れ込むヤマトの神経信号が、激しい不協和音となって響いていた。
それはまるで、三年前の記憶の中で今も泣き叫ぶ、遠い空の上の誰かの声に呼応しているかのようだった。
自室へと戻る。
そこは、最果ての王に相応しいほどに、限りなく殺風景な空間だった。
コンクリート剥き出しの壁、換気扇の回る単調な音。
この場所に辿り着いてから増えた私物など何もない。
代わりに増えたのは、この漆黒の両腕で屠り、積み上げてきた死体の数と、夜ごとに深まる孤独だけだ。
使い古され、薄汚れたベッド。
サイドテーブルの上に置かれた、霊子遮断材製の小箱。
ヤマトが蓋を開けると、その中に一本のネックレスが横たわっていた。
太陽を抱くように、力強い龍の刻印が刻まれた指輪。
『正式な護衛の証──』
そう言って、高天原の頂に座すべき皇太子は、何の躊躇いもなく、国を動かすほどの力を持つ代物を渡してきた。
『これはね、僕の「皇太子コード」と連動する認証キーでもあるんだ』
あの日、カケルはそう言った。
指に嵌めることで高天原の貴族たちと同族になるような気がしたヤマトは、それを拒んだ。
しかし、そのあまりに純粋な想いを無碍にすることもできなかった。
「鎖に繋がれたタグだと思えば、これくらいが丁度いい」
そう毒吐きながら、手持ちの安物のチェーンを通して首に下げた。
それが、当時のヤマトなりの精一杯の誠意だった。
カケルは、それだけで弾けるように顔を綻ばせた。
スラムの過酷な運命をすべて憎しみに変換し、高天原の内部破壊だけを目的に、地獄の排気ダクト『黄泉比良坂』を這い上がったあの日。
一番の復讐対象であったはずの皇太子が向ける、屈託のない微笑み。
毒を抜かれ、牙を削がれ──いつしかヤマトは、その熱の中に、自分でも気づかぬうちに「居場所」を見つけてしまっていた。
だが、運命はそれを許さなかった。
「……三年か」
漆黒の義手を伸ばし、冷たい金属の指輪に触れる。
あの壮絶な別れを経て、自分は今、下界を揺るがす破壊の王へと上り詰めた。
この指輪に残された認証情報を鍵として、ヤマトは何度もカケルの所在を逆算しようとした。
だが、返ってくる結果はいつも同じだった。
【皇太子コードとの照合先──該当個体なし】
【生体認証反応──消失】
【存在証明──NULL】
指輪には確かに、カケルが存在した痕跡が残っている。
それなのに、その先にいるはずの人間だけが、世界から綺麗に消えていた。
それが意味するもの──。
カケルは、あの日自分を追って、そのまま下界で果てたのだろうか。
信じたくないが、下界の厳しさを知るゆえのヤマトの予測が、脳内を支配した。
時折、網膜の裏側にフラッシュバックするのは、別れ際のカケルの、魂を削り出すような悲痛な泣き顔だ。
「カケル様を、頼む」──自分たちの逃げ道を作るために、夥しい数の神機兵にたった一人で向かって行った、黒鉄との重すぎる約束。
それを果たすこともできぬまま、今こうして生きている。
自分は今、こうして反逆組織の首領という椅子に居座り、形を変え、毒を研ぎ澄ませて、再び高天原を奈落へと引き摺り下ろそうとしている。
窓の外では、変わらず酸性雨が降り続いていた。
ネックレスの龍は、暗い室内でわずかな光を反射し、ヤマトの金色の瞳を、静かに、そして鋭く射抜いていた。
白銀の義手を持つ「死神」が、戦場を駆け、敵兵を死に導いている。
その正体が誰であるか、ヤマトはまだ知らない。
だが、漆黒の蛇がその獲物を捉え、喉元に牙を立てる日は、そう遠くない。
本能が、そう確信していた。
激しく叩きつける雨音の中に、遠く、鳥の羽撃きのような音が聞こえた気がした。




