第01話:曇天の誓約 / THE STEAM BLADE REBELLION
酸性雨が、容赦なく窓を叩き続けている。
重く垂れ込めた雲は、高天原が吐き出す老廃物の蓋だ。
天を覆う重油色の層からは、絶えず腐食性の滴が零れ落ち、下界の鉄骨を、そして人々の希望を音もなく溶かし続けている。
朝を忘れたこの国の行く末は、あの鉛色の空のように、出口のない闇の連鎖なのか──。
窓際に立つ男のシルエットは、三年前のそれとは似て非なるものだった。
逞しく肉付けされた褐色の背中。
滴る湿気を撥ね退けるように鋭く逆立った赤い髪。
かつて、下界の南地区で「スラムの狂犬」と恐れられていた少年は、今、この地で下界全体の秩序を指先一つで塗り替える『頂点』に君臨していた。
男が腕を組むたび、その両腕の漆黒が鈍く光る。
かつての無骨な鉄の腕「ジャンク・ドライブ」はもうない。
今の彼の両腕を飾るのは、獲物を締め上げる大蛇の彫金が施された、禍々しい漆黒の義手だ。
叩きつける雨を見つめる金色の瞳は、厚い雲の先──あの忌々しくも眩い黄金の楽園、高天原を射抜いていた。
自分たちの住む下界から全てを奪い去り、肥え太る国。
そこに住まう者以外を「不純物」と称し、平然と切り捨てる。
そんな傲慢と虚飾に満ちた楽園が、ヤマトから両親を奪い、最愛の妹・サクラからも「未来」という名の光を奪い去った。
あの国への復讐を誓い、廃棄ダクト黄泉比良坂を素手で這い上がったあの日の、爪が剥がれ血に塗れた指先の痛みは、今もこの魂に鮮烈に刻まれている。
──復讐のために、護衛へと名乗り出た。
偽りの忠誠で、無知で愚かな高天原の頂点を、隙あらばその喉笛を掻き切るつもりだった。
だが、あそこで待っていたのは、泥を啜る下界の人間の生き様さえ知らぬ、白磁の檻に閉じ込められた、あまりに純粋な「バカ」だった。
あの少年の曇りのない眼差しに、自分の毒を中和されてしまった日から、ヤマトの運命は激しく、そして残酷に畝り出したのだ。
否、運命はもっと以前から、彼を逃れられぬ道へと落とし込んでいた。
それらを飲み込んだ上で、今、ヤマトは復讐を果たすために、下界の王としてこの場に立っている。
「リーダー。始めるぞ。──『神依』だ」
背後のドアが開き、荒々しい声が空間を震わせる。
ヤマトは振り返らず、気配だけでその主を特定した。
短く整えられた、剃刀のように鋭い常盤色の髪。
それは暗がりにあっても、毒々しいほどに鮮烈な意志を放っている。
だが、歩くたびに床を叩く乾いた金属音は、彼の膝下がいずれも「生身ではない」ことを雄弁に物語っていた。
「……カズマか」
ヤマトは短く応じ、静かに瞼を閉じた。
網膜の裏側で、かつての自分に「前だけを見よ」と語った、漆黒の武人の背中が揺れる。
「行くぞ」
赤い髪を翻し、ヤマトは漆黒の蛇を唸らせて歩き出す。
カズマを従え、部屋を後にするその足取りは、もはや迷いを知る少年のものではない。
高天原を墜とすための、一撃。
世界を「神の視点」から「人の地獄」へと引きずり下ろすための戦いが、幕を開ける。
それは、ヤマトという少年一人の復讐心ではない。
下界の積年の恨みや憎しみを晴らす、命を賭けた戦いだ。
◇
移動した先の作戦室──そこは下界の深奥、かつて巨大な蒸気機関の心臓部だった場所だ。
重厚な隔壁が閉まると、外の酸性雨の音は完全に遮断され、代わりにサーバーラックが発する低い駆動音と、剥き出しの配線から漏れ出す微かな放電音が鼓膜を打つ。
壁一面に広がるホログラム・モニターは、下界各所の熱源反応や、天上界の監視衛星が描く複雑な軌道を、死白の細線で冷たく描き出していた。
室内には、精鋭たちが控えていた。
暗がりに潜む彼らの顔は、モニターから放たれる死白の光に縁取られ、深い陰影を帯びている。
ヤマトが部屋に入った瞬間、そこにあった微かな囁きすらも氷結した。
彼らは一言も発さない。
ただ、自分たちの運命を双肩に背負う男の言葉を、一文字たりとも聞き漏らすまいと、その鋭い視線をヤマトの背中へと突き立てていた。
その視線はもはや信頼を超え、呪縛に近いほどの重圧となって、室内の空気を物理的に押し下げている。
ヤマトは、その沈黙を切り裂くように中央の席に腰を下ろした。
その隣、音を立てて椅子を引いたのはカズマだ。
彼は大きく背もたれに体を預け、不遜な態度で天井を仰ぐ。
その尖った気質、隠しきれない血の匂い──ヤマトは、そこに三年前、誰彼構わず牙を剥いていた自分自身の影を見た。
「……各地の状況を上げろ」
ヤマトの低い声が、部屋の空気を一段と引き締める。
控えていたメンバーたちの肩が、微かに跳ねた。
「北は潜伏先にちょうどいい。神機兵の残骸が積み上がってるおかげで、高天原の熱源スキャンも通りにくいからな」
カズマがコンソールを乱暴に叩き、ホログラムを展開する。
その青白い光が、彼の腰から下──真鍮の歯車とシリンダーが複雑に噛み合う、無骨な義足を照らし出した。
油染みたフレームには、消そうとして何度も削った跡と、それでも消えなかった刻印が残されている。
『UNIT-01』
高天原の実験台として人間の脚を奪われた男にとって、それは消えることのない屈辱の証だった。
「……ニナ」
ヤマトが声を発すると、彼の隣に座る少女が、無機質なトーンで言葉を継いだ。
彼女が瞬きをすると、栗色の瞳が青白く発光した。
瞳の奥には、『UNIT-02』の電子刻印と幾重もの照準環が浮かび上がる。
高天原の実験によって埋め込まれた機械眼──『ルナ・ディテクト』。
壁の向こうの熱源や配線さえ見通す代わりに、使用者の神経を静かに蝕む呪いの目だ。
「南は水が枯渇しているわ。拠点は作りやすいけれど、長居は死を意味する。対して西は、あそこを牛耳る『ボス』を懐柔できれば、私達の強固な後ろ盾として機能するはずよ」
「西のボスか……。懐柔できなければ、喰らうまでだ」
ヤマトは次に、観測機の接眼レンズに張り付いていた青年へと視線を向けた。
「ナナセ。次に空は、いつ動く」
長く艶やかな黒髪を束ねたその青年は、視線だけを動かしてヤマトを射抜いた。
ナナセのうなじには、『UNIT-07』を刻んだ接続端子が埋め込まれていた。
内部の生体演算回路『天球演算』が、提示された星図と同期して青白く明滅する。
そこに映る未来を、彼がどこまで見通しているのか。仲間でさえ、その全容を知らなかった。
「天の極、高天原の真上に位置する星が、周期を無視して揺らぎ始めた。……何か、取り返しのつかない巨大なものが動き出そうとしている。……面白いぞ」
ヤマトは、ナナセが提示した星図の揺らぎを、漆黒の蛇が彫られた義手でなぞった。
室内の静寂は、深海の底のように重い。
ヤマトを中心に、作戦卓を囲む八人。
彼らを結びつけているのは、一から八までの番号と、高天原へ向けた消えない憎悪だった。
実験によって、人間ではない何かへ作り替えられた者。
そして、失われた誰かの呪いを受け継いだ者。
不要と判断され、下界へ捨てられた異形たちは今、自らに刻まれた絶望を牙へ変え、高天原の喉元へ食らいつこうとしている。
八極の反逆者──遠呂智。
ヤマトがゆっくりと立ち上がると、呼応するように室内全員の気配が、一斉に殺意へと反転した。
作戦室のモニターに映るノイズを見つめ、漆黒の右腕を固く握りしめる。
義手の排気口から、熱を帯びた白い蒸気が嘶くような音を立てて噴き出した。
それは、この体に刻まれた『呪い』が上げる、断末魔のようにも聞こえた。
「……俺たちは、高天原に押し付けられた絶望を武器として戦う。この体に刻まれた呪いこそが、あいつらを叩き落とすための『刃』だ」
吐き出される蒸気がヤマトの鋭い瞳を覆い、影を作る。
その熱こそが、彼を突き動かす動力。
奪われ、踏みにじられた者たちの怨嗟を圧力へと変え、研ぎ澄まされた一撃として放つ。
「……終わらせてやる」
激しく噴き出す蒸気が視界を白く染め上げ、闇を切り裂く一筋の閃光が走った。




