第16話:月白の暴走、鉄腕への助走 / UNTAMED VOLT
クシナが突然、スッと立ち上がった。
「……検診の時間よ。奥の部屋に行くわよ、名無しさん」
場の空気に耐えかねたのか、あるいは照れ隠しか。
彼女はよろめきながら立ち上がろうとするカケルに、そっと手を添えた。
突き放すような口調とは裏腹に、その指先からはさりげない献身と、確かな肌の温もりが伝わってくる。
あの日、高天原の奈落で手放してしまったヤマトの熱。
その指先の温もりが、あの日、奈落で手放してしまったヤマトの熱を呼び起こした。
失った記憶と重なるクシナの体温は痛いほどに優しく、カケルの視界を熱く潤ませた。
「なんだいなんだい、豆もやし! あたしの愛娘の献身に目を潤ませちゃって!! 青春だねぇ!」
大笑いするクレハの豪快な声を背後に聞き流しながら、クシナはカケルの背を押し、静かな奥の寝室へと誘った。
「……まったく。いっつもああなのよ、あの人は。気にしないで」
クシナは心底疲れ果てたという様子でため息をつくと、手際よく聴診器や体温計を取り出した。
カケルをベッドに座らせ、淡々と、けれど丁寧に体調のチェックを始めていく。
カケルはその静かな処置を黙って受けながら、ふと、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
「……なんだか、あったかいよ」
「は?」
クシナが怪訝そうに眉を寄せ、カケルの胸元に当てていた聴診器を止めた。
「俺は……生まれた時から、母親と肌を触れ合った記憶がないんだ。ずっと決められたルールの中で、敷かれたレールの上だけを歩いてきたから。……あんな風に、騒がしいくらい明るく笑ってくれるお母さんって、すごく素敵だと思う」
「…………そう」
クシナはふいと視線をカケルの肩口へと逸らした。
少しだけ耳の付け根が赤くなっているのを、カケルは見逃さなかった。
「……数値は問題ないわ。順調に回復してる。明日からは、義手を付けるためのリハビリメニューを組むから」
クシナは手帳にサラサラとスケジュールを書き込みながら、釘を刺すように言った。
「あんたが言うその親友とやらに早く会いたいなら、一秒でも早く一人で歩けるようになりなさい。いつまでも他人に運んでもらおうなんて甘ったれた奴、あたしは一番嫌いなの」
「ふふっ……」
「……何よ、おかしなこと言った?」
クシナがムッとした表情でカケルを睨む。
カケルは小さく首を振って、穏やかに笑った。
「なんだか、ヤマトがそばにいるみたいだ。クシナ、君のそういうところ、彼とすごく似てるんだ」
「ヤマトヤマトって……あんたにとって、その男はヒーローか何かなの?」
「うん。……俺の、たった一人の親友だよ」
「……あんた、そういう歯が浮くようなセリフ、よく真顔で言えるわね……」
クシナは顔を背け、乱暴に道具をケースに仕舞い始めた。
そんな彼女の背中に、カケルは言葉を続ける。
「クシナ、君もすごいね。俺とほとんど変わらない年なんだろ? それなのに、自分の腕で立って、誰かを助けてて。……君も、ヤマトと同じくらい、すごくかっこいいよ」
「……っ! 早く、寝なさい……!」
クシナの声が少しだけ上ずった、その瞬間だった。
「おおっとォ! なんだいなんだい? 甘酸っぱい恋の始まりかい!?」
バァァァン!! と、さっきよりもさらに勢いよくドアが跳ね上がり、クレハが鼻息荒く乱入してきた。
「言っとくがね豆もやし! あたしの目に入れても痛くない愛娘を、そう簡単に嫁にやるわけにはいかないよ! まずはあたしのハンマーに三日三晩耐えてから……」
「お母さんっ!! いい加減にしてって言ってるでしょ!!」
クシナの絶叫が工房に響き渡り、カケルは思わず身を縮めた。
だが、その口元には、この地に墜ちてから初めての、本物の微笑みが浮かんでいた。
◇
ふと、目が覚めた。
この世界には、高天原のような管理された「明るい時間」がない。
窓のない工房の中、真鍮の配管が吐き出す蒸気の音だけが、絶え間なく時を刻んでいた。
重い体を起こすと、胸の中に言いようのない閉塞感がこもっている。
「……少し、風に当たりたいな」
カケルはふらつく足取りで部屋を出、工房の勝手口から外へと出た。
大きく深呼吸をしてみるが、肺に流れ込んでくるのは、冷たく湿った鉄と油の匂い。
見上げても、そこには太陽も青空もなく、重々しく垂れ込める厚い雲の層が「楽園」との境界線を引いているだけだった。
「……ヤマトは、きっと生きてる。サクラちゃんと一緒に、きっと生きてる」
自分に言い聞かせるように、カケルは小さく呟いた。
あの時繋げなかった手。
失われた左腕。
その記憶に押し潰されそうになるたび、彼は出口のない空に向かって言葉を投げるしかなかった。
その時だ。
背後に、ねっとりとした不気味な気配を感じた。
「……っ!?」
振り返ると、工房を囲む鉄柵の一部が、内側へ大きくひしゃげていた。
その裂け目から、瓦礫を押し退けて異形が這い出してくる。
飢獣だ。
重機と獣が混ざり合ったような醜悪な巨躯。
赤く濁った瞳が、確かな殺意を持ってカケルを定めていた。
低く唸り、バネを弾ませてカケルに襲いかかる。
「豆もやし!! 逃げなっ!!」
工房の奥から、クレハの悲鳴に近い絶叫が響いた。
地響きを立て、クレハが必死の形相で勝手口から飛び出してくる。
その手には武器も持たず、ただカケルを救いたいという一念だけで、彼女は泥を蹴り飛ばして疾走した。
しかし、間に合わない。
カケルは恐怖に足がすくみ、失った左腕の疼きをかばって身を縮めた。
「──ッ!!」
飢獣の鋭い爪がカケルの喉元に届こうとした、その刹那。
カケルの内に潜む「何か」が、彼の意志を追い越して牙を剥いた。
カケルは顔を上げ、飢獣を正面から射抜いた。
瑠璃色の瞳が月白に発光し、その眼差しは、慈悲深い天使のものとは対極にある、冷酷な捕食者のそれへと変貌していた。
カケルが飢獣を冷酷な眼差しで睨み据えた瞬間、彼の身体から月白の稲妻が爆発的に溢れ出した。
逃げようとした飢獣の断末魔さえ、雷鳴が掻き消す。
純白の閃光が闇を焼き払い、次の瞬間には、そこには一握りの灰すら残っていなかった。
「はあ……っ、はっ……はっ……」
カケルは荒い息を吐きながら、自分の右腕を戦慄と共に眺めた。
自身の意思とは無関係に、体内に宿る力が周囲を塵へと変えていく。
言いようのない恐怖が、カケルの心を侵食していた。
「……豆もやしっ!!」
クレハが転がるように駆け寄り、カケルの身体を強引に引き寄せた。
彼女の肩は激しく上下し、カケルの無事を確認するその瞳には、隠しきれない動揺と安堵が混ざり合っていた。
「クレハさん。……俺、今何をしたんですか……?」
カケルの震える声に、クレハは一瞬、焼き払われた跡を凝視したが、すぐに表情を無理やり和らげた。
「……無事で良かった。本当に……。この辺は飢獣や、廃材荒らしの輩がうろついてる。ひとりで無闇に外に出るんじゃないよ。分かったかい!?」
「ご、ごめんなさい……」
クレハは近くにあった大きな切り株にどかっと腰を下ろした。
膝の震えを隠すように、膝を強く叩く。
「……豆もやし。あんたの中にいるその化け物。一体何なんだい?」
「わからないんです。俺の意思とは無関係に、急に何かが暴れ出して。……そのせいで、俺は、親友を……ヤマトを、危うく殺してしまうところだった」
クレハは、静かにカケルの言葉を受け止めていた。
その掌は、カケルを救おうと無我夢中で駆けた身体の熱を、まだ火傷しそうなほどに残していた。
「親友を探すにも、今のあんたじゃ、そのうち本当に殺しかねない。身体を鍛える以上に、あんたの中にいる化け物に、心まで焼かれないように、成長するしかないよ」
「……はい」
「クシナのリハビリメニューは、そこらのどんな医者よりも優れてる。あたしが保証してやるよ。身体も心も強くなれたら、あたし自慢の特別製義手を付けてやるからね。……もう、あんな顔はさせないよ」
「ありがとう……ございます」
カケルが深々と頭を下げると、クレハは少し照れくさそうに鼻を擦った。
「しっかし、流石に天上界の人間だねぇ。近くで見ると、本当にとんでもなく綺麗な顔をしてるよ。……特にさっきの目は、ゾクッとするほど凄みがあった」
「……そんなことないです。ヤマトの方が、ずっと、かっこよくて……」
止まったはずの涙が、再び溢れてきた。
「……まずは、そいつに会いに行くために、死に物狂いで強くなりな」
クレハは立ち上がり、大きな手でカケルの頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「あたしたち最強ユニットがついてるんだ、安心しな。……さあ、戻るよ。クシナが朝飯の準備をして待ってる。あの子、口では厳しいこと言うが、あんたに合わせた栄養バランスを夜通し考えてたんだからね」
「……はい」
二人の影が、遠くに見える工房の明かりへと向かって歩き出す。
ふと、視線を移した先には、瓦礫の山に止まる一羽の小鳥がいた。
厳しい下界でも自由に生きるその姿は、今のカケルにとって、小さくとも確かな希望の光に見えた。
カケルの足取りは、昨日よりも少しだけ、土を踏みしめる力を帯びていた。




