第15話:重心の喪失、鉄血の救済 / MECHANICAL ANGELS
工房を包み込む、鉄錆と古い機械油の匂いを孕んだ重苦しい沈黙。
その停滞した空気を、クレハの豪快な笑い声が、安全弁を跳ね飛ばす蒸気圧のように力任せに押し流した。
「と、真面目に語ったところで! あんたの名前も聞こうじゃないか、豆もやし」
クレハはドシン、ドシンと床を鳴らして二人の間に割って入ると、カケルの頭を、大きな掌で潰さんばかりに乱暴に撫で回した。
「えっと……僕は……」
言いかけたところで、カケルは一度視線を落とし、それから何かを振り払うように顔を上げた。
生体管理チップを焼き切った今、自分を縛る法典は消えた。
だが同時に、自分を証明する術も失ったのだ。
高天原の皇太子『橘カケル』は、あの空の上で死んだ。
今の自分は、ただの「生きた廃棄物」に過ぎない。
「僕の……俺の名前は……忘れました。頭でも打ったかな。よく、思いだせなくて……」
そのまま、カケルは口を噤んだ。
自分の名を名乗ることは、自分を探しているかもしれない琥珀の手を呼び寄せることと同義だ。
それに、何も守れなかった今の自分に、あの高貴な名は、あまりに不釣り合いだった。
「……ま、無理に名乗る必要はないさ。あんたは天上界から落っこちて来た、片腕の豆もやし。今はそれで十分だよ」
クレハがカケルの名について深追いしないことを確認したクシナは、そのまま話を進める。
彼女の指先は、作業台に置かれた真空管の淡い光を反射して、鋭利なガラス細工のように輝いていた。
「……で、名無しさん。あんたが寝てる間、うなされながら何度も呟いてた『ヤマト』……それは、誰なの?」
その名がクシナの唇から零れた瞬間、カケルの心臓は冷たい鉄の枷で締め付けられたように硬直した。
「俺の……親友です。兄弟みたいで、憧れで……。彼は、いつだって俺を、守ってくれていたんです」
「ふーん……。護衛か何か? あんた、良いご身分だったのね」
クシナは興味なさげに鼻を鳴らすと、手元にあった手術刀を弄び始めた。
冷たく光るその刃先を、カケルの「空っぽになった左肩」へと向け、包帯越しにツン、と指し示す。
「で、あんたは、これからどうするの?」
「これから……?」
「その体で、これからどうやって生きていくのかって聞いてるのよ。ここは高天原みたいに、座っていれば自動で誰かが養ってくれる場所じゃないわ」
メスの冷たさが、薄い布越しにカケルの肌を刺した。
腕を失い、親友を失い、墜落という最悪の形でしか果たせなかった自分。
ただ震えることしかできないカケルに、クシナは逃げ道を塞ぐように言い放った。
「その体で……死んだ彼を、あるいはどこかに消えた彼を、探しに行くつもり? それとも、ここで一生守られながら、泣き続けるつもりなの?」
「探しに行かなくちゃ……ヤマトは……あいつは、きっと生きてる。あんなところで、終わるはずがないんだ……!」
カケルは歯を食いしばり、必死に右手をテーブルについて立ち上がった。
立ち上がった瞬間、全身から血の気が引いた。
失血と長い臥床で衰えた脚が震え、身体が大きく左へ傾く。
反射的に左腕を伸ばして均衡を取ろうとした。
だが、そこにあるはずの腕はない。
「あ──」
存在しない左手が虚空を掻き、カケルは無様に床へ転がった。
「……っ、くそ……」
何度も起き上がろうとするが、左右のバランスが取れず、亀のように地面を這いずるしかない。
その無骨で惨めな姿を、クシナは冷徹な眼差しで見下ろした。
「探すのは自由だけど、あんた、ここがどこだか分かってるの? ここは飢えた獣と、それよりタチの悪い人間がゴミを漁って生きる下界の底よ。片腕だけで、重心も取れないヒョロヒョロの泣き虫天使様なんて、外に出た瞬間に身ぐるみ剥がされて真っ先に餌食になるわよ。……探しに行く前に、あんたがゴミ山の一部になるのがオチね」
「……っ……」
言い返す言葉がなかった。
上の世界では重力が精緻に制御され、道は常に整い、危険などどこにも存在しなかった。
ここでは、ただ「真っ直ぐ立つ」ことさえ、命がけの試練なのだ。
重苦しい沈黙が工房に流れたその時、ドシン! とクレハが重い足取りで二人の間に割って入った。
「まあまあ! そうカリカリしなさんな、クシナ! とりあえず美味いもんは食べたんだ、これからのことはこれから考えたらいいのさ。元気があれば、なんだってできる!」
クレハは床に転がったままのカケルを、大きな右手でヒョイと荷物のように抱え上げると、強引に椅子に座らせた。
分厚い手のひらから伝わる熱さが、絶望に冷え切っていたカケルの身体にジンと染み込んでいく。
「……はあ。お母さんのその根拠のない楽観主義、本当についていけない……」
クシナは深いため息をつき、頭を抱えるようにして視線を逸らした。
「いいかい、豆もやし。あんたは今、生まれたての雛みたいなもんだ。空の飛び方を忘れたなら、ここで泥の這い方から教わればいいのさ。……幸い、あんたには『これ』があるんだからね」
クレハは意味深に口角を上げると、工房の隅に鎮座する、分厚い鉄板で補強された秘密のコンテナに目をやった。
「あたしはただの機械屋じゃない。義肢装具士もやっててね。あんたがもし、その失くした腕の代わりに、新しい『力』を付けたいってんなら──あたしがやってやらないことはないよ」
カケルが呆然と見上げる中、クレハはスパナの先端で、冷めた目でこちらを見ているクシナを指し示した。
「そんで、そこにいるクシナだ。こいつはあんたと同じくらいの歳だが、医療と薬学分野のスペシャリストさ。こいつの腕で治せない傷はないし、息をしてりゃあ確実に助けられる。……あたしの、自慢の娘なんだよ」
「……お母さん、ハードル上げすぎ。あんまり期待させないで」
クシナは毒づきながらも、薬品の瓶を片付けるその手つきには、一切の迷いがない。
「腕を作るあたしと、神経を繋ぐクシナ。この二人が揃えば、不可能はねえのさ! ──人呼んで!」
クレハは不敵な笑みを浮かべ、一歩前へ踏み出す。
一瞬、工房の空気が劇的な緊張感に包まれた。
「ハイヴ最強の鉄血タッグ! 『鉄血の母娘』!! いざ参上っ!!」
「…………」
換気扇の回る虚しい音だけが、シュルシュルと工房に響いた。
カケルは椅子に座ったまま口を半開きにし、文字通り呆気にとられていた。
あまりの熱量、そしてあまりのネーミングセンスに、意識が白濁していく。
「……だから。そのダサい名前で呼ぶのはやめてって、何度も言ってるでしょ。……だいたい『エンジェル』なんて、この不浄のハイヴに一番似合わない言葉なんだから」
「なんだい、景気が悪いねぇ。いい名前だろうが!」
クレハはカケルの驚愕を「感銘」と受け取ったのか、ガッハッハと上機嫌に笑い飛ばした。
その凄まじい勢いに押され、カケルはこぼれ落ちそうだった涙も、胸を締め付けていた絶望も、一瞬だけどこかへ置き去りにしてしまった。
「……メカニカル……エンジェル……」
「そうだ! 覚えときな、豆もやし! その名前が、あんたを地獄から引きずり上げる救いの手の名前だよ!」
クレハの力強い言葉が、工房の隅々にまで響き渡った。
窓のない地下工房の片隅で、墜ちた太陽は、泥臭くも騒がしい「希望」の産声を確かに聞いた。




