第14話:番犬の首輪、魂の楔 / THE NAMING LAW
食後に出された一杯の温かい茶。
それは、カケルがこれまで「水」と呼んでいたものとは、根本から別種の存在だった。
高天原で供される水は、あらゆる不純物を徹底的に排除した無味無臭の結晶だ。
喉を潤すためだけの、機能的で冷徹な液体。
だが、今この欠けた陶器の器の中で揺れているのは、野に咲く野草の、土の匂いを孕んだ香気だ。
一口含むたびに、荒々しい滋味が五臓六腑に染み渡り、冷え切っていた芯がじわりと熱を帯びる。
(……これが、「飲む」ということなんだ……)
不純物が混じっているからこそ、これほどまでに熱く、そして「味」がする。
それは、無菌室のような高天原では決して得られない、生々しい感覚だった。
カケルが人心地ついたのを見計らい、女が重厚な、あちこちが油で汚れた椅子を引き寄せた。
金属同士が擦れる「ギィ」という耳障りな音が工房に響き、彼女はドカリと、無造作に腰を下ろした。
「さて、腹も膨れたところで、改めて名乗らせてもらうよ。あたしはクレハ。神代クレハだ。見ての通り、機械いじりを生業にしてる。趣味も大好物も、鉄屑と──そこにいるあたしの可愛い愛娘だ!」
「……もう、お母さん。その自己紹介はやめてっていつも言ってるでしょ」
呆れたような、しかし慣れきった様子で溜息をついた少女が、作業机から歩み寄る。
彼女の瞳は、まるで精密機械のレンズのようにカケルの全身を冷徹に観察していた。
「あたしはクシナ。ここで母の義肢装具士としての仕事をサポートしてる。主に神経接続の手術と術後ケアが担当。……あんたの砕けた肩を縫い合わせたのもあたしよ」
二人の射抜くような強い眼差しを受け、カケルは反射的に背筋を伸ばした。上層の礼儀作法が、呪いのように体に染み付いているせいだ。
だが、それ以上に彼の心を支配したのは、喉の奥に引っかかるような、言いようのない違和感だった。
(……名前、がある?)
混乱が、濁流のように思考を飲み込んでいく。
カケルの知る限り、下層界には、高天原の絶対的な管理の下、そこに住まう「部品」たちに、個を証明する名など与えられない。
無機質な「識別番号」で管理されるのが、この世界の不変の理だった。
親友、ヤマトが、かつて「UNIT-08」という識別番号を押し付けられていたように。
(この人たちは……?)
隠しきれない困惑、そして無意識のうちに滲み出た「観察者」としての不躾な視線。
それにいち早く気づいたのは、娘のクシナだった。
彼女は蔑むような、あるいは憐れむような瞳でカケルを射抜く。
「あんた、見たところ高天原の人間だと思うけど。……あたしたちに名前があること、疑問なんでしょ」
「あ、えっと……」
図星を突かれ、カケルは言葉を詰まらせた。
その瞬間、彼の脳裏に、忘れかけていた記憶が鮮烈に蘇る。
──ヤマトと初めて言葉を交わした時のことだ。
無邪気に、何の疑問も持たずに、彼に尋ねたのだ。
『僕は、橘カケル。……君の名前は?』
その問いを聞いた瞬間のヤマトの顔を、カケルは今でも、網膜の裏側に焼き付いた残像のように思い出せる。
それは、それまで向けられたことのないような、純粋で、かつ煮えたぎるような激しい嫌悪だった。
ヤマトの瞳は泥のように濁り、剥き出しの敵意を込めて、目の前の皇子を拒絶した。
『……名前なんて、そんなもん、俺にはねえよ』
あの時のヤマトの激しい拒絶。
そして今、目の前にいるクシナが向ける冷やかな視線。
それらがカケルの胸の中で重なり、重く、逃れようのない真実を形作っていく。
カケルが「当たり前」だと信じて疑わなかったものは、高天原という美しくも狭隘な鳥籠の中でしか通用しない、歪んだ特権に過ぎなかったのだ。
カケルは、戸惑い混じりに視線を彷徨わせた。
「……下界には、名前が無いものだと思ってたんだ。……僕たちの記録では、下層界の住人は個体識別番号で管理されているか、あるいは名前を剥奪された『集合体』だと……そう、教えられてきたから」
ギィ、と金属椅子が軋んだ。
クレハが腕を組んだまま、ゆっくりと立ち上がる。
クシナが、蒼白い真空管の光をその身に浴びたまま、冷たい笑みを唇に湛えてカケルを射抜いた。
「……あんたたち高天原の人間が、この世界を管理できていると思っているのは、ただの上辺だけよ。自分たちのシステムに映る数字だけを見て、世界を知った気になってる。本当に滑稽ね」
クシナは足元の丸椅子を引き寄せ、カケルの正面に腰を下ろした。
「確かに、高天原が管理する軍の組織や、あんたたちが飼っている従順な兵隊には『管理用の名前』が与えられているでしょうね。でもね、天使様。あんたたちの知らないところで、誰にも隷属せず、誇りを失わずに闘い続けている人たちがいるの」
「誰にも、隷属せずに……?」
「私たちにとって、名前は支配者から『与えられる記号』じゃない。誰かと呼び合い、その名で生きると決めた時に、初めて自分のものになるの」
クレハが、どっしりとした足取りでカケルの隣に立った。
彼女は、包帯に包まれたカケルの右肩──内側から筋繊維が断裂した「支え続けた証」に、その熱い掌をそっと置いた。
「いいかい、豆もやし。あたしは元軍人だ。軍を退いた日、高天原の記録から『神代クレハ』って人間は消された。退役した兵隊に、名前なんざ必要ないってね」
クレハは豪快に鼻を鳴らし、傍らにいる娘の肩を抱いた。
「けど、この子はあたしをクレハと呼ぶ。あたしはこの子をクシナと呼ぶ。だったら、その名はもうあたしたちのもんだ。お高く留まった連中が何を消そうが、知ったこっちゃないよ」
クレハの放つ熱気が、カケルの頬を打つ。
「この工房は、あたしたちが己の腕一本で築き上げた城だ。ここでは、あたしたちがこの世界の主なんだよ」
天上界で教わった「秩序」や「管理」という言葉が、この工房の、重油と蒸気に満ちた空気の中で急速に色褪せていく。
「……あんた、自分だけが生き残ったことに絶望してるみたいだけど」
クシナが、再び作業台の蒼白い光に顔を向けた。
その横顔は、刃物のように鋭い。
「あんたの右肩の筋肉が、引きちぎれるほど耐えていたその『重み』。……それを無駄にしない方法は、泣き続けることじゃないはずよ」
クレハはカケルの震える右手を、大きな掌で力強く包み込み、その瞳をじっと覗き込んだ。
「誰かを守り抜くために、命懸けで闘う覚悟を決めた者だけが、自分が何者であるかを語る事ができるんだよ」
その言葉が、カケルの胸の奥に眠っていた記憶の澱を激しくかき乱した。
(誰かを、守るための……覚悟……)
瞼の裏に、あの日のヤマトが蘇る。
サクラを救うため、血を吐くような思いで中央演算に挑み続けていた親友の姿。
涙を流し、魂を削り、己の肉体を焼き切ってでも愛する者を守ろうとした、あの凄絶なまでの執念。
高天原という巨大な神のシステムを相手に、たった一人の「人間」として抗い続けた、あの揺るぎない意志。
それに比べて、自分はどうだったか。
ただ必死に、親友の手を離したくないと、それだけで右腕が壊れるまで抗った。
それは「守る」ための戦いだったのか。
それとも、ただ失うことを恐れただけの足掻きだったのか。
今の自分に刻まれたこの「痛み」は、その資格を得るための、過酷な代償のように感じられた。
「名前を持たない『廃棄物』として死ぬか。それとも、這いつくばっても自分の名前を刻み直すか。……選ぶのは、あんた自身よ」
クシナの突き放すような言葉が、静寂の工房に鋭く響いた。
カケルは、息を呑んだ。
左肩の虚空が、再び熱く疼いた。
それは幻肢痛ではない。
ヤマトが命懸けで守ろうとした世界を、今度は自分がその目に焼き付け、この「名もなき奈落」で己を再定義しろと叫ぶ、新しい命の胎動だった。
「……僕は……」
カケルは、震える右手を強く握りしめた。
瑠璃色の瞳に、これまでの悲哀とは異なる、静かな、けれど決して消えることのない火が灯った。




