第13話:幻肢の疼き、空腹の咆哮 / VITAL IGNITION
── 次の日。
カケルは、昨日からほとんど体位を変えないまま、ベッドに横たわっていた。
窓のない部屋には、不規則なリズムで駆動する換気扇の音だけが響いている。
鈍い痛みと、それ以上に重い喪失感が、彼の身体をシーツへと縫い付けていた。
「……昨日と比べて、体調はどう?」
規則的な足音と共に、クシナが部屋に入ってきた。
彼女はカケルの顔色を覗き込み、瞳孔の反応や呼吸の深さを淡々と確認していく。
「…………なんで、生きてるんだろう……」
カケルの唇から、掠れた呟きが漏れた。
それは問いかけですらなく、ただそこにある虚無を吐き出したような音だった。
「理由なんて、必要なの?」
クシナは作業の手を止めることなく、冷淡に、だが確信を持って答えた。
「今、生きてるっていう事実があって、それ以上でもそれ以下でもないわ。死にたければ、勝手に傷口を広げて血を流せばいい。それを止める義理も権利も、私にはないもの。でも、あんたを助けるために費やした医療品と、お母さんの労力を無駄にするなら、それ相応の覚悟はしてもらうわよ」
「……助けられなかったんだ。僕のせいで、ヤマトは……サクラちゃんは……」
カケルの視界が、再び熱い涙で歪み始める。
自分という存在が、誰かの犠牲の上に成り立っているという事実が、何よりも彼を締め付けた。
クシナは無言でカケルを見つめた。
その瞳には同情も、憐れみもない。
ただ、目の前の「壊れかけた個体」を観察するような、静かな光が宿っている。
「……いつまでも泣いてんじゃないわよ」
クシナは盆を乱暴に掴むと、出口へと向かった。
「私、甘ったれは嫌いなの。生き延びたいなら、自分で立って自分で歩きなさいよ。ここは涙を拭いてくれる人間なんて、一人もいないんだから。あんたが失ったのは腕一本でしょ? 心まで千切れたっていうなら、そのまま腐ばればいいわ」
バタンと、昨日より一層乱暴に扉が閉まる。
独り残された静寂の中で、カケルの耳に、ある声が蘇る。
『甘ったれんな、皇太子サマ』
それは、かつて上の世界で、人形の様な自分を叱咤してくれた親友の声だった。
その力強い声が、今の自分の不甲斐なさをさらに際立たせる。
「……う、ううっ……ヤマト……ごめん……サクラちゃん……ごめんなさい……」
カケルは残された右腕で顔を覆い、再び子供のように泣きじゃくった。
彼が知らない下界の冷たい風が、換気扇の隙間から、ひゅうひゅうと寂しげな音を立てて入り込んでいた。
◇
どれほどの時間、泣き続けたのだろうか。
腫れ上がった瞳をこすり、カケルはふらつく足取りで部屋を出た。
残された右腕で、壁を支えにしてヨロヨロと歩みを進める。
重油と焦げた鉄の匂いに導かれ、カケルが辿り着いたのは、リビングを兼ねた広々とした工房だった。
立ち尽くしたまま室内を見渡す。
そこは、まさに「鉄の臓物」をぶちまけたような空間だった。
天井をのたうつ真鍮の配管からは、不規則に白い蒸気が「プシュッ」と鋭い音を立てて漏れ出し、壁に並んだ圧力計の針が小刻みに震えている。
「おっ、起きたか豆もやし! すぐに飯を作ってやるからそこに座っときな!」
工房の主である女が巨大なフライパンを振りながら、背中で声を上げた。
女が振るう巨大なフライパンからは、荒々しいオレンジ色の爆炎が立ち上がっている。
カケルは、そのあまりに場違いな明るさと「豆もやし」という妙な呼び名に、一瞬だけ思考が止まる。
それとは対照的に、作業台ではクシナが並べた真空管が、脈動するような蒼白いフィラメントの光を放ち、剥き出しの歯車が噛み合う鈍い影を壁に刻んでいる。
カケルは、消え入りそうな声で呟いた。
「……あそこにいたのは、僕だけ……?」
女が火を止め、フライパンを置く。
クシナもまた、視線だけをカケルに向けた。
「……ほかに、女の子と……僕の親友は、いなかった? 一緒に落ちたはずなんだ」
カケルの瞳に、縋るような光が宿る。
クシナが薬品の瓶をコト、と置き、ゆっくりと顔を上げた。
「言ったでしょ。私たちが拾ったのは、あんた一人だけよ」
「……そんな……」
「それより、あんたのその右肩。……一体どんな無茶な使い方をしたら、あんな酷いことになるの? 筋肉があちこちズタズタに断裂して、ボロボロだったわよ。……到底一人では支えきれない『何か』を、死ぬ気で掴んででもいたの?」
カケルは、自分の右腕を見つめた。
指先一つ動かすだけで、肩の奥で焼けるような激痛が走る。
あの日。
自分よりもずっと大きな身体のヤマト、そしてその腕に抱かれた小さなサクラ。
二人分の命の重みが、右腕一本にのしかかった。
ミシミシと骨が軋みを上げ、筋繊維が一本ずつ引きちぎられていった、あの地獄のような感触が脳裏に鮮烈に蘇る。
「……掴んで、いたんだ。……離したくなくて……」
カケルは震える右手を、自分自身の左胸に強く押し当てた。
ヤマトを掴んでいた右腕の痛みは、そのまま、彼を失った心の痛みとして、カケルの身体を内側から苛んだ。
「……あんただけだよ、豆もやし」
女の低い声が、工房に重く響いた。
彼女は腕組みをして、真剣な眼差しでカケルを見る。
「あの高さから落ちて、生きてるだけで奇跡なんだ。あんたを庇った奴がいたのか、それとも運が良かっただけか……。どっちにしろ、この下界の底で重傷を負って、別の誰かが生き延びられるほど、ここは甘い場所じゃないよ」
カケルは、力なく椅子に座り込んだ。
自分が生きていることへの罪悪感と、親友を失ったかもしれない絶望。
自分だけが、この鉄の墓場に取り残された。
空っぽになった左肩の「軽さ」が、今は耐え難いほどの重圧となって、彼の小さな身体を押し潰そうとしていた。
その時、ガシャン! と威勢のいい音を立てて、目の前に大皿が置かれた。
「しみったれた顔してないで、ほら、食いな!」
女が差し出したのは、溢れんばかりの肉と見たこともない野菜が、濃いソースで煮込まれた特盛のスープだった。
煮え立つスープの表面には、獣の脂が赤錆色の輪となって浮き、立ち上る湯気は鼻腔を灼くほど刺激的なスパイスと、鉄分を含んだ肉の生々しい芳香を運んでくる。
「見ただけで涎が垂れるだろ!? これで精をつけて元気におなりよ!」
女は腰に手を当て、自慢げに鼻を鳴らした。
その瞳には、下界を生き抜く者特有の、野性的で力強い光が宿っている。
「……これは……?」
カケルは、目の前の「物質」を凝視したまま固まった。
彼が育った天上界での食事は、栄養学的に完璧に管理された、栄養食や無機質なタブレットばかりだった。
彼にとって「食べる」とは、生命維持のための単なる効率的な栄養摂取であり、視覚や嗅覚を震わせるような概念は、この世界に墜ちるまで存在しなかったのだ。
だが、目の前にあるのは、野性的で、無骨で、生命力そのものを煮詰めたような「未知の塊」だった。
「毒なんて入ってないわよ。……もしかして天上界のお上品な天使には、この『命の味』は刺激が強すぎるかしら?」
少女が薬瓶を振りながら、皮肉っぽく口角を上げた。
カケルは戸惑いながらも、備え付けられた無骨なスプーンを手に取った。
震える手で肉の一片を掬い、おそるおそる口に運ぶ。
「──っ!?」
噛み締めた瞬間、脳を突き刺すような衝撃が走った。
複雑に絡み合うスパイスの刺激、肉の脂が持つ濃厚な甘み、そして噛めば噛むほど溢れ出す熱い肉汁。
「……あ、つい……。でも、なんだこれ……すごく、濃い……」
「ガハハハ! そりゃあそうさ、あんたたちが食べてた『餌』とは気合が違うんだよ!」
カケルは、止まらなくなった。
絶望で何も受け付けないはずだと思っていた胃袋が、暴力的なまでの美味を前にして歓喜の声を上げる。
ひと口食べるごとに、冷え切っていた指先まで熱い血が巡り、身体の芯から細胞が叫び始めるのが分かった。
「……おいしい……。……おいしいです、これ……」
むせ返るような香りに包まれながら、カケルは夢中で皿に向き合った。
ひと口ごとに、空っぽだった胃の腑に重い石を置かれたような、けれど確かな「生存の重み」が宿っていく。
それは、絶望で浮き上がりそうだったカケルの魂を、強引にこの泥濘の地に繋ぎ止めるための、最初の楔だった。
──涙が、再び溢れてきた。
今度は悲しみだけではない。
この圧倒的な「味」と「温かさ」によって、自分がまだ「生き物」として機能していることを、残酷なまでに、そして愛おしく分からされているような──そんな不思議な涙だった。
カケルが泣きながら、しかし何かに取り憑かれたように必死で皿を空にする姿を見て、女は腹の底から豪快に笑った。
少女もまた、その無骨な食事風景を見守りながら、表情に微かな安らぎを浮かべる。
絶望の底に沈み、ただの「豆もやし」でしかなかった少年に、下界の泥臭い飯が、ようやく人間らしい温もりを灯し始めた瞬間だった。




