第12話:泥濘の真珠、飢獣の肝 / THE FALLEN CHERUB
「生きろ」
柔らかな光の奥で、ヤマトの声だけが響いた。
伸ばした手から、温もりが滑り落ちていく。
追いかけようとしても声が出ない。
強烈な衝撃が、世界を蒼白く塗り潰した。
「……ヤマト……ッ!」
カケルは乾いた喉を震わせ、勢いよく目を開けた。
「……目が覚めたのね」
知らない天井。
錆びた梁。
壁は、異なる色の鉄板を継ぎ接ぎして作られていた。
点滴台は古びた配管を曲げたもの。寝台の脚には、役目を失った歯車が高さを揃えるために噛ませてある。
部屋の隅には、解体途中の義手や義足が、眠る人間のように壁へ立て掛けられていた。
高天原なら「不良品」として即座に焼却されるものばかりだ。
だがここでは、捨てられたものが別の役目を与えられ、誰かの命を支えている。
視界を覗き込んできたのは、額にゴーグルを乗せた少女──クシナだった。
彼女はカケルの額に手を当てて熱を測ると、手際よく左肩の包帯を確認し始める。
「助かったみたいね。危なかったけど。……傷口は洗浄して縫合したわ。感染止めも入れてある。生きているだけマシでしょ」
少女の淡々とした言葉に、カケルはハッとして自分の体を見下ろした。
左肩には、何層にもわたる厚い包帯が巻かれている。
「……ぁ……」
震える右手を、左肩へと伸ばす。
脳はまだ、そこにあるはずの指先を動かせという信号を送り続けている。
だが、手を伸ばした先にあるのは、耐え難い「空白」だけだった。
「……ない。僕の、腕が……」
包帯の先に虚空しかないことを悟り、カケルは右腕で空っぽになった左肩を強く掴んだ。
そこには感覚だけが幽霊のように残り、実体がないという、身を切るような喪失感があった。
──だが、それだけではない。
切断された断面の奥、皮膚の下で、あの「月白の稲妻」の余韻か、不自然なほどの「熱」が脈動しているのをカケルは感じていた。
それは生き物の呼吸というよりは、暴走寸前の機関が発する不気味な排熱に近い。
少女はカケルの動揺を待たず、医療機器を片付け始める。
「まだ寝てなさい。余計な力を使うと、縫った場所が開くわよ。私はクシナ。ここから一歩も動かないで」
「待って、答えて……! 二人は、どうなったの!? ヤマトは……サクラちゃんはどこ!?」
カケルが無理に身を起こそうとしたその時。
重厚な金属音と共に、部屋の分厚い扉が、乱暴に蹴り開けられた。
「ガッハッハ! その少年は起きたかい!」
豪快な笑い声が鼓膜を震わせ、部屋の空気が一変した。
蹴り開けられた扉の先に立っていたのは、油の染みたタンクトップ一枚で、巨大な戦槌を軽々と担いだ女だった。
逞しい腕には古い機械の焦げたような匂いが染み付き、彼女が動くたびに熱風が部屋に流れ込む。
あまりに場違いな熱量と豪快な笑い声に、カケルの意識は追いつかず、ただ呆然と彼女を見つめることしかできなかった。
昨日の凄惨な墜落劇と、この騒々しいまでの生命力。
そのあまりの乖離に、脳が拒絶反応を起こしているようだった。
「おい少年! 生きているならまずは笑いな! 死神を追い払うにゃあ、景気のいいツラが一番なんだからよ!」
「お母さん、静かにしてってば。まだ目を覚ましたばかりなんだから」
少女──クシナが、使い古された医療用ピンセットを盆に置き、ため息混じりにたしなめる。
だが、女の勢いは止まらない。
彼女はドスンと戦槌を床に下ろすと、身を乗り出してカケルを覗き込んできた。
「いいかい、食欲が戻ったら、あたし特製の精強肉湯を作ってやるよ! 飢獣の肝に、そこらの汚泥で育った根性野菜をぶち込んだやつだ。胃袋から魂を叩き直してやるからな! 今はとにかく寝てろ。……しかし、廃材回収に行ったら、とんだ拾い物をしたもんだよ」
「拾い物……」
カケルはその言葉の意味を咀嚼できず、力なく首を傾げた。
今の自分は、拾い上げられるほどの価値があるものなのだろうか。
そんなカケルの心中を見透かすように、クシナが淡々と事実を告げる。
「あんた、ゴミ捨て場で飢獣に狙われて死にかけてたのよ。お母さんが見つけて、見捨てるのも寝覚めが悪いからって、ここまで連れ帰って処置させてもらったわ。ここはハイヴ北地区の端っこ。あんたが落ちてきた奈落の底よりは、いくらか空気が吸える場所よ」
「飢獣……。拾われた……?」
カケルは、自分の体の左側に意識を向けた。
ない。
重みすら消えた肩が、妙に軽い。
その欠損を確かめるたび、夢の中で見たヤマトの顔と、自らの力で友を葬りかけた恐怖が蘇った。
掌に残っているはずの親友の熱は、今は冷たい空気に溶けて消えていた。
「ま、何があったか知らないけど、とりあえずここは安全だから。今はゆっくり休んで」
クシナが毛布をかけ直そうとした時、女が再びグイと顔を寄せてきた。
「それにしても、あんたみたいに上品な顔は、この辺じゃ珍しいねぇ。汚泥の中にポツンと真珠が落ちてるみたいだよ。顔立ちも、残った右手の指も細くて綺麗だ……。もしかして、天上界から落ちてきた天使様かい?」
天使。
かつて自分たちがいた、あの傲慢なほどに白い楽園を皮肉るような言葉に、カケルの喉がひきつった。
答えは出なかった。
言葉にしようとすれば、喉の奥からせり上がってくるのは血の味と、形容しがたい悲鳴だけだったからだ。
カケルの瞳から、大粒の涙が溢れ、枕を濡らしていく。
声も出さず、ただ静かに、止めどなく泣き続ける。
その姿に、さっきまで豪快に笑っていた女も、少しだけ眉を寄せて黙り込んだ。
「……とりあえず今は寝てて。ほら、行くよお母さん」
クシナに促され、女は「なんだい、景気が悪いねぇ。あたしの自慢の腕前を見せてやったのに」と不器用な照れ隠しのように呟きながら、部屋を後にした。
バタン、と重い鉄の扉が閉まる。
だが、扉の向こうからは、まだ二人の話し声が遠く響いていた。
「おいクシナ、景気付けにスープに飢獣の肝を生でぶち込んでやるか! 精がつくぞ!」
「やめてよ、今のあの子にそんな刺激物は毒だってば。普通に野菜を煮込みなさいよ」
「硬いこと言いなさんな、肝は鮮度が命なんだから。あの天使様も、これ一杯でシャキッとするさ!」
遠ざかっていく、騒がしくも温かな日常の音。
それが消え去ると、今度は静寂が、恐ろしいほどの重圧となってカケルの鼓膜を押し潰し始めた。
カケルは、嗚咽とともに溢れ出す涙を止めることができない。
存在しない左手の指が、何かを掴もうとする。
脳は確かに命令を送っているのに、応える指先はどこにもなかった。
それでも幻の手は、何度も暗闇へ伸びていく。
奈落へ消えたヤマトとサクラを、今度こそ掴み直そうとするかのように。
だが、何ひとつ触れることはできない。
助けられなかった。
唯一無二の親友も、守ると誓ったその妹も。
左腕を失った空白よりも、その事実の方が遥かに痛かった。
「う……っ、ヤマト……サクラちゃん……」
絶望の重力が、カケルの心を暗闇の奥底へと引きずり込んでいく。
そこにはもう、光の一片すら残されてはいなかった。
「なんだか……深い事情がありそうね」
クシナが廊下で、今しがた閉めたばかりの扉を振り返った。
その向こう側にいる少年の、あまりにもか細い気配を案じるように目を細める。
「ケッ、訳アリなんてのはこの下界じゃ珍しいことじゃないさ。死に損なった理由をいちいち数えてりゃ、指がいくらあっても足りやしない。とっとと元気になって、あたしの特製肉料理でも食らえば、どんな悩みも雲散霧消よ!」
女は豪快に笑い飛ばし、大きな手でクシナの肩を叩いた。
その手の熱さに、クシナは少しだけ安心したように息を吐く。
「……そうね。そうだといいけど」
クシナはもう一度だけ扉を見つめ、母の後に続いて廊下の奥へと消えていった。




