第11話:泥濘の洗礼、鉄屑の揺り籠 / THE SCAVENGERS
暗い森の奥。
一人、野営の火を見つめるカケルの姿があった。
高天原の皇太子だった頃、必要なものはすべて、望む前に与えられてきた。
清潔な寝所、完璧な栄養バランスの食事、淀みのない空気、不純物を徹底的に排した水。
しかし今、カケルは煤に汚れた手で自ら火を起こし、凍える体を温めている。
何ひとつ自分で選ぶことのなかったあの頃と比べれば、今の自分は、呼吸一つでさえ自らの意思で掴み取らねばならない。
その過酷な自由が、皮肉にも彼を「戦士」へと変貌させていた。
しかし、自ら運命の糸を手繰り寄せてきた結果が、あれだ。
最悪な形で、最も会いたかった友との再会を果たしてしまった。
揺らめく炎。
パチパチと爆ぜる音を立てて、静かに燃え続ける火。
その熾火の赤さは、朱雀門を襲撃したあの日──神機兵の重厚な装甲をその拳で砕いた、ヤマトの燃えるような髪色を鮮烈に思い出させた。
張り詰めた緊張を解くため、カケルは深く、長く呼吸をする。
しかし、瞼を閉じればその裏側には、自分の顔を認め、金色の瞳を激しく揺らしたヤマトの──あの凍りつくような表情が、消えない残像となってこびりついて離れない。
「……俺は、君を殺さなければいけないのか」
独り言は、湿った夜の森に虚しく吸い込まれていった。
三年の月日。
それはカケルにとって、まさに試練の日々だった。
下界へと落ち、楽園を追放されてからの記憶が、重い扉をこじ開けるようにして溢れ出していく。
夜が明ければ、再び「白銀の八咫烏」としての任務が始まる。
友を殺すための、終わりのない葬列が。
パチッ、と焚き火が大きく弾けた。
その火花が、紅蓮に染まる廊下を駆け抜けたあの日を思い出させる。
耳の奥で蘇るのは、廃棄ラインに迫るサクラを救うため、限界を超えた『ジャンク・ドライブ』から焦げ付いた白煙を吹き上げ、神機兵を粉砕していたヤマトの咆哮。
そして、琥珀の論理障壁を強引に抉じ開けるため、ヤマトが肉眼で追えぬ速度で叩きつけた、あの銃声のようなキーボードの打撃音だ。
あの時、ヤマトは妹を救いたいというただ一つの渇望のために、その底知れぬ知性と牙をすべて剥き出しにして戦っていた。
その背中に、カケルは圧倒されることしかできなかった。
左肩の義手の接続部が、親友との絆を引きちぎられた瞬間と同じ熱を持って疼き出した。
意識が、火の粉の舞う夜空から、絶望の底へと叩き落とされる。
◇
──三年前。
下層界・葦原中国。
火の爆ぜる音は、いつしか鈍色の天を叩く冷酷な雨音へと変貌していた。
頬を打つのは温かな火の粉ではない。
皮膚を焼き、鉄を腐らせる重い酸性雨だ。
どこともわからぬ、腐った油と鉄の臭いが立ち込める場所で、カケルは死の淵に立たされていた。
左腕がじわじわと圧殺されていく痛みと重圧で、身動きが取れない。
降り注ぐ酸の雨が傷口を苛み、混ざり合った血が不気味な泡を立てて流れていく。
視界が、真っ赤だ。
重い瞼を押し開けても、あの「終焉の瞬間」の残像が網膜に焼き付いて剥がれてくれない。
高天原、最終処理区画。
すべては管理官であり、カケルの教育係である琥珀の掌の上だった。
廃棄ポッドに閉じ込められたサクラを救うため、ヤマトは己のジャンク・ドライブを暴走させ、焼けるような腕で妹を抱き上げた。
その直後、足場が消失した。
墜落するヤマトの手を、カケルは必死に掴んだ。
カケルの細い右腕に、二人分の体重がのしかかる。
ミシミシと骨が軋みを上げ、筋繊維が一本ずつ断たれていく感触が脳に直接響く。
「死んでも離さない」
その誓いだけが、カケルの腕を繋ぎ止めていた。
だが、無機質な電子音が静寂を切り裂く。
琥珀による「強制排除」のコマンドが実行された。
「──あ」
瞬間、感覚が消失した。
腕を駆け抜けた強烈な電流。
人知を超えた斥力が加わり、カケルの指先から、文字通り一切の力が奪われた。
掴んでいたはずの親友の手は、無情にも滑り落ちた。
遥か奈落の底、下界の闇へと、ヤマトは飲み込まれていった。
カケルは、迷わなかった。
彼らを追うように、自らも重力という名の絶望へと身を投げ出した。
自身の姿が異形へと変貌していることにも気づかぬまま、空中でヤマトの姿を追う。
己の全身から月白の稲妻が激しく吹き出した。カケルはそこで初めて理解した。
自分の中の「何か」が、取り返しのつかない姿へと自身を造り変えていることを。
暴走した力が、親友を葬り去ってしまうかもしれない。
その恐怖に絶叫したとき、強大な力に弾かれ、カケルの意識は一度、深い闇に沈んだ。
──奈落の底への激突。
追い打ちをかけるように、高天原が吐き出した「不要物」──巨大な廃棄ポッドが、カケルの左腕を根元から圧し潰した。
「……ぁ……あ……あああああ……っ!」
左側を向く。
見たくない。
だが、目は離せなかった。
泥の中で銀色に光るコンテナが、巨大な歯車のようにカケルの肉を、骨を、完全に噛み潰している。
冷たい装甲を、自分の血が温かく汚していく。
遅れてやってきた神経の悲鳴が、脳を真っ白に焼き尽くす。
だが、カケルは叫ぶことさえ忘れた。
潰れた腕の先、泥濘の中から這い出しつつある「何か」が、彼の正気を奪ったのだ。
自分の腕を噛み潰しているポッドの扉が、衝撃による故障か、あるいは内側からの力か。
ギィィ……と錆びた音を立て、数センチだけ開いた。
そのわずかな暗闇の隙間に、「それ」はいた。
闇の中から、一つ。
じっとこちらを覗き込む、瞳。
ポッドに腕を潰され、泥の中で悶絶するカケルの無様な姿を、その瞳は瞬き一つせず、冷徹なまでの静寂を湛えて見つめていた。
カケルの鼓動が跳ね上がる。
それは、高天原の秩序が切り捨てた「生きた廃棄物」。
慈悲なき重質量に圧殺され、泥に還るのを待つだけの存在。
かつて天空の頂で「太陽」と仰がれた皇太子を、その「廃棄物」は、深淵よりも昏い眼差しで静かに射抜いていた。
「ヤマト……、黒鉄……ッ!! 誰か、助けて……!!」
届くはずのない名を呼ぶ。
泥濘の中に消えていくその声は、高天原の栄光への、あまりにも惨めな決別だった。
ガサリ、と。
背後のゴミ山が不気味に蠢いた。
「……ヤマト?」
カケルは、しゃくり上げるように声を絞り出した。
だが、闇の中から現れたのは、親友の温もりではなく、下界の捕食者「飢獣」だった。
捨てられた重機や神機兵の残骸を自らの血肉として取り込んだ、醜悪な異形。
機械と獣が混ざり合った怪物は、墜落したばかりのカケルの「新鮮な血」に反応し、その鉄の牙を剥いた。
「……あ……」
死が、鼻先まで迫っていた。
その時、不意に視界を遮っていた酸性雨が、嘘のように止んだ。
瓦礫を叩き続けていた喧騒が消え、辺りを支配したのは、肺を刺すような冷たい静寂。
雨上がりの湿った空気が、怪物の喉から漏れる腐敗臭を色濃く運び、カケルの死への恐怖を増幅させる。
指先一つ動かせない絶望の底。
体から熱が失われていく。
(お母様……。僕は……ここで、死んでしまうの?)
思考が闇に塗り潰されようとした、その時だった。
「──愛羅武勇ッ!!」
闇を切り裂く、場違いなほど豪快な咆哮。
直後、空気を震わせる熱線が飢獣の眉間を貫き、その巨躯を内側から爆破させた。
「ガッハッハ! 景気のいい花火だねェ! クシナ、今の見たかい! あたしの新型バズーカの威力!」
焦げた火薬の煙を吐き出しながら、地響きを立てて現れたのはド派手な電飾を散らした超大型トライク。
ハンドルを握るのは、逞しい腕に刺青を刻み、肩に巨大なバズーカを担いだ女だ。
「うむ! あたしの愛の咆哮との同調率もバッチリ! 天国の神様にも──」
「お母さん、待って! まだポッドを動かさないで!」
左肩から先にあるはずの腕は、ポッドの下で完全に断ち切られていた。
巨大な重量そのものが傷口を押さえ込み、辛うじて出血を堰き止めている。
「左腕は肩口から欠損してる。今これを退かしたら、一気に失血する」
サイドカーから降りてきたのは、長い髪をなびかせ、額にゴーグルを乗せた少女。
彼女は泥にまみれたカケルの顔を覗き込み、その瞳の奥に宿る「消えかけの灯火」を見つめた。
「……いい目をしてる。絶望の底にいるのに、まだ、誰かを探して手を伸ばそうとしているわ」
クシナは腰のケースから緊急用の凝血剤を抜き取り、ポッドと肩口の隙間へ慎重にノズルを差し込んだ。
「先に傷口を封鎖する。引き上げるのはそれからよ」
傷口を灼く凝血剤の痛みを最後に、カケルの意識は静かに途切れた。
傷口の封鎖を確認すると、クシナは続いてバイタルスキャン用のデバイスを取り出した。
しかしその瞬間、少年の身体から月白の稲妻が鋭利な破片のように吹き出し、不可視の圧力で機械を焼き切った。
「きゃっ!!」
少女が咄嗟に手を放すと、黒焦げになったデバイスは地面に落ち、物言わぬスクラップと化した。
「お母さん。……この子……」
意識が消失しているカケルの首筋。
皮膚の下から、鱗のような痣が浮き出て、確かな脈動を打っている。
クシナと呼ばれた少女は、困惑と共に母を見上げる。
女は深くため息をつき、鈍色の天を仰いだ。
「……やれやれ。廃品回収に来たつもりが、何やらとんでもないもんを拾っちまったね」
絶望の底でカケルの消えかけた命が、母娘の手によって、強引に繋ぎ止められようとしていた。




