第17話:滋養の苦汁、龍の胎動 / BITTER REBIRTH
工房の空気は、鉄錆の匂いと未知の薬草が放つ鼻を突くような香気、そして絶え間なく響く機械の駆動音で満ちていた。
テーブルには、見分けのつかない茶褐色のスープが二杯、湯気を立てていた。
「おおっ、できたかい! 待ってました!」
クレハはその一方を引き寄せ、カケルが席に着くより早く匙を突っ込んだ。
熱さなど微塵も感じさせない様子でスープを一口啜る。
途端、その戦場を潜り抜けてきたような豪快な顔が、嘘のようにとろけるように緩んだ。
「う、うまい……! なんだい、クシナ。これ、ただの滋養強壮スープじゃないね。素材の苦みを絶妙に消して、滋味が五臓六腑に染み渡るようだ……。こりゃあ、いい嫁になるよ。あたしゃ今から想像するだけで、嬉しくて泣けてくるねぇ!」
「お母さん……想像力が豊かすぎて、もはや病気ね」
クシナは呆れ果てた様子で肩をすくめ、手際よく次の薬品を調合しながら、カケルの前にそのボウルを突き出した。
「ほら。さっさと飲みなさい。冷めたら成分が凝固して、さらに悲惨なことになるわよ」
カケルは、クレハのあの大仰な反応を見て、少しだけ期待を込めた。
クシナがカケルのために丹精込めて作った温かいスープ。
突き放すような彼女の口振りとは裏腹の優しさが、カケルの心に温かな火を灯す。
彼は期待を込め右手に匙を取り、スープを勢いよく口にした。
だが、その瞬間。
カケルの顔面が劇的に歪んだ。
「──っ……う、うぐっ……あ、がっ……!?」
良薬は口に苦し、などという生易しい表現では追いつかない。
舌に乗せた瞬間に、脳の芯を直接太い針で刺されたような、暴力的な苦み。
泥と枯れ草を限界まで煮詰め、そこに焦げた鉄屑を混ぜ込んだような強烈なエグみが、逃げ場のない口いっぱいに広がった。
胃が拒絶反応を起こし、思わずえずきそうになるカケル。
しかし、追い打ちをかけるようにクシナの冷徹な声が鼓膜を打つ。
「吐き出さない。一滴でも無駄にしたら、あんたの細胞のリハビリ計画が一日遅れるわ。我慢しなさい。それは、あんたの激しく消耗した内臓と神経を再構築するために、私が計算し尽くした配合よ。余計な『味』という不純物を取り除いた結果、こういう必然的な味になっただけ」
「で、でも……さっき、クレハさんは……美味しいって……っ」
カケルが涙目で隣を見ると、クレハは大きな肉を頬張りながら、ケロッとした顔で笑い飛ばした。
「ガハハハ! 悪いね豆もやし、あたしのは『お母さん専用・味重視』の別物だ! あんたのはクシナの『愛情100%・苦み200%』の地獄特製薬膳だよ!」
「愛情なんて入ってないわ。……さあ、それを食べきったら即座にトレーニングよ」
クシナは淡々と、使い込まれた電子手帳に表示されたリハビリメニューを指でなぞった。
「まずは片腕の欠損による重心のズレを脳に再認識させるための平衡感覚トレーニング。体幹と下肢、それから残った右腕の筋力強化。それと……断端部の圧迫と、義手を装着するための皮膚の慣らし。いい?一日でも早く自分の足で立つ。泣き言は聞かないわよ」
クシナの指が、包帯に巻かれたカケルの左肩を冷たく指し示した。
「まずは壁を背にせず、自分の足で一分間、真っ直ぐ立てるようになって。揺れたらやり直し」
「う、うん……頑張るよ……」
「頑張るのは前提条件。できないなら、明日からスープの苦みを、今の配合比率の倍にするから。不味すぎて気絶する準備はできてる?」
クシナの容赦ない宣告に、カケルは喉の奥を焼かれるような苦みと戦いながら、必死にボウルの中身を胃に流し込んだ。
その光景を、クレハが自慢げに腕組みをしながら見守っている。
「いやぁ、見てなよ豆もやし。我ながら自慢の娘だよ。顔よし、器量よし、技術よし! ったく、その辺のただの男にくれてやるわけにはいかないねぇ!」
クシナはすでに完全な無視モードに入り、その横顔は、母親の騒がしさを完全に遮断していた。
カケルは最後の一滴を飲み干した。
舌の上に残る凄絶な苦み。
だが、それと同時に、信じられないような変化が起こり始めた。
ボウルを置いた瞬間、胃の底から広がった熱が、冷え切っていた指先へゆっくりと戻っていく。
意識を覆っていた霧が薄れ、呼吸も僅かに深くなった。
だが、立ち上がろうとした脚はまだ頼りなく震えている。
「……力が、少し戻ってくる」
カケルは驚きに目を見開いた。
視界を覆っていた霞が、わずかに薄れた。
壁を這う錆びた配管や、外から漏れ聞こえる雨音が、先ほどよりもはっきりと意識に届く。
「……少し、身体が軽くなった。クシナさん、ありがとう」
カケルが素直な感謝を口にすると、作業をしていたクシナの手が一瞬だけ止まった。
「……効いたならさっさと動く。お礼を言う暇があるなら、新しい重心に合わせた姿勢制御と、平衡感覚の再学習に全神経を使いなさい。その元気は、トレーニングで使い果たすためにあるんだから。……さっさと始めるわよ」
クシナは乱暴に椅子を引き、カケルの前にリハビリ用の重りや、平衡感覚を測るための不安定なディスクを並べた。
カケルは苦みと戦いながら、そして失った左腕の痛みを抱えながら、この騒がしくも規律ある親子に囲まれている幸運を、体の中を駆け巡る熱い「生」の感覚と共に噛み締めていた。
少年の顔に、微かな、だが消えることのない希望の火が宿るのを、クレハは見逃さなかった。
それまでの死人のような蒼白さは消え、頬にはクシナの薬膳スープによる熱が差し始めている。
その瑞々しい生命力の萌芽を目にして、クレハは安堵と共に、技術者としての、いや、表現者としての業を疼かせた。
(……この坊やには、ただの鉄屑じゃあ釣り合わないね)
クレハは、頭の中で「いつか彼に装着するであろう義手」の設計図を猛スピードで展開し始めた。
天上界・高天原から墜ちてきた、あまりに儚く、けれど芯に強烈な光を秘めた貴公子。
これまで彼女が作ってきたのは、スラムの荒くれ者が重機を振り回すための、油塗れの無骨な「道具」ばかりだった。
だが、カケルという素材を前にして、クレハの脳裏には不思議と、機能美と神々しさが同居する「芸術」の構想が溢れ出してくる。
(白銀の装甲に、蒼い霊子の回路を走らせるかい。あるいは、龍の鱗を思わせる積層装甲か……)
無骨で荒々しい義手とばかり向き合ってきたクレハの唇に、自然と笑みがこぼれる。
それは、最高級の宝石を見つけた彫金師のような、純粋な歓喜だった。
「こんなにワクワクするのは久しぶりだよ! おい豆もやし、聞こえたかい。とっとと強くなりな! 基礎トレーニングが終わったら、このあたしが直々に訓練してやるからね!」
クレハは丸太のような筋肉質な腕にグッと力を込め、カケルの背中を豪快に叩いた。
その衝撃でカケルの華奢な体は前へつんのめるが、今度はすぐに踏みとどまる。
「じ、直々に……? クレハさんに……?」
「ああ! あたしの訓練はクシナのスープより苦いよ。けどね、それを乗り越えた時、お前さんのその欠けた左肩には、神様も驚くような最高の『力』を授けてやる。約束だ!」
カケルは、これから待ち受けるであろう地獄の訓練を予感し、身震いした。
かつてのカケルであれば、その厳しさに怯え、辞退していたかもしれない。
だが、今の彼に留まるという選択肢はなかった。
左肩の喪失感。
指先から滑り落ちたヤマトの、あの最後の眼差し。
「生きろ」と伝えてくれた、親友の顔。
彼に再び会うまでは、たとえこの身が泥を啜り、鉄の味に染まろうとも、倒れるわけにはいかないのだ。
「……やる。……頑張るぞ。ヤマトに、また会うために」
カケルは、残った右の拳を強く握りしめた。
その清廉な決意に呼応するように、カケルの魂の深淵に潜む力が、静かにその顎を開いた。
それは、高天原の科学が調律し、去勢してきた「秩序」の力ではない。
怒り、悲しみ、そして「意思」を糧にして成長する、原初の荒ぶる神性。
クシナの薬膳が供給した熱量を吸収し、カケルの体内を巡る血流が、微かに蒼白い発光を伴いながら加速する。
バチ、と。
誰も気づかぬほど小さな静電気が、カケルの空っぽの左肩から放たれ、虚空に龍の爪の残像を描いた。
「よし、いい返事だ! 気に入ったよ!」
クレハの笑い声が、工房の騒音をかき消すように響き渡る。
酸性雨が降り注ぐスラムの底。
かつて高天原を照らしていた「太陽」は今、冷徹な秩序から自らの意思を取り戻し、失った親友を追う「嵐」へと変わり始めていた。
カケルは重力に抗うように、泥にまみれたその足で、新しい運命の一歩を踏み出した。




