Log2-21//屈従のリビドー
ミカミの管理する教会は帝都から離れた田園風景の続く田舎街の中にある。これまで訪問してきた教会とは異なり、質素で慎ましやかな小さな教会だった。けれどその見た目とは裏腹に屋内に入れば厳かで祭壇を飾る花々は清々しく、邪心などたちどころに浄化されてしまいそうなほどだった。
神のことなど微塵も信じていなかったアルフリーナだったが、何度か訪れるうちに、少しは祈りでも捧げてみようかと思えるほどに清らかに過ごせる場所になっていた。
いつしか法衣を引きずる音を耳にするだけで、鼓動が高鳴るようになった。
そして、今日もそれを抑えようと、咄嗟にアルフリーナは胸元を抑えた。
「最近やっと暖かくなってきて訪問者も増えて来たね。君が来てくれて助かるよ」
「私の働きぶりがいいからね」
彼の藍色の髪から覗く瞳が、自分の瞳を捉えるたびに、胸が苦しくなった。
「そうだ、君に渡すものがあったんだ」
そう言ってミカミは小箱を取り出すと、そっとアルフリーナの手に載せた。中からは、以前踏まれて壊れた耳飾りと似たようなものが入っている。
「わざわざ買ってくれたの? あんなの言えば新しいものが来るのに……」
「いや、壊したのは僕だし。ちゃんと弁償したかったんだ」
ミカミはどこまでも真面目で、聖職者だった。そんな彼の素直さと純粋さが時々、アルフリーナの心を傷つけた。
耳飾りを手にしたアルフリーナはポツリとつぶやく。
「本当はこんなの……着けたくないのよ……」
その言葉に、ハッとしたように振り向いたミカミの表情が胸に刺さる。
「すまない……」
アルフリーナは心を切り離したかのように、笑顔を作った。
「じゃあ、島に戻るね。頃合いを見てまた呼び出してもらえれば」
メビウスへ戻るときは、必ず島の監視が迎えに来ていた。監視に引き渡す前に、ミカミはヴォイドリンクの情報をいつも偽情報に書き換えている。静かに書き換えが終わったことを告げられると、二人の時間がまるでなかったように消えてしまうことが、アルフリーナの孤独を呼んだ。事務的な会話が続き、静かにその場を去ろうとしたときだった。ミカミの呼び止める声が響く。
「まって!」
「どうされましたか。外に迎えが来ているので、あまり時間がありませんよ」
アルフリーナは淡々と答える。
ミカミは俯いたまま、椅子の下から青紫色の花束を取り出した。
「これ、教会の庭で綺麗に咲いたんだ。カキツバタという名で、僕の故郷の花なんだ」
差し出された花は、ミカミの瞳と同じ色だった。
「……摘んでしまってよかったの?」
少し困ったような表情で、ミカミは頭を掻きながら言った。
「耳飾りのこと、無神経ですまない。本当は君に……花を贈りたかったんだ」
純粋な彼の真っ直ぐで誠実な気持ちがアルフリーナの中を駆け巡る。
素直にありがとうと返せばよかったのに。
彼の優しい気持ちが自分の心を強く掴んで離さない。
アルフリーナの気持ちが大きく揺れる。
「そんな……そんな同情いらない」
藍色の瞳が一瞬にして曇ったのがわかると、アルフリーナの言葉は鋭さを増した。
「あなたの善良を受け取るために私はここにいるわけじゃない」
そう言って、アルフリーナはミカミの手を払いのけ、監視と共に教会を出て行った。
「僕はどうしたら君を、解き放ってあげられるのだろう」
ミカミは散らばった花を拾い集めながら、見えなくなるまでアルフリーナを見つめた。
欲や悪意に塗れた人々の中で生きてきたアルフリーナにとって、清貧に生きる彼の姿はどこか幻想的で自分の生きてきた世界の人間とは、かけ離れたものだった。
彼の振る舞いを目の当たりにすればするほど、人間というものに心を許してしまう自分が許せず、未知の感情に恐怖すら感じていた。
メビウスに戻り、いつもの日常が始まると、その感情はアルフリーナを支配し始める。
「ねえ、最近様子がおかしいけど、大丈夫?」
向かいのベッドからハクが興味本意で声をかけてきた。
「なんでもないわ、人間が鬱陶しいだけ」
「ふーん、前はそんなことどうでもいいって言ってたのに。辛いなら私代わるよ?」
比較的上級階位の人物を抱え込んでいる、アルフリーナの客人を気にしていたハクが、彼女からそれを巻き上げる機会を狙っているのが透けて見えた。
アルフリーナはキッパリと断る。
残念そうにするハクを横目に、ミカミから渡された耳飾りをそっと握りしめた。
(ずっと今まで何でもなかったじゃない……。どうして今になって……)
ふと、前にハクが言っていた〝逃げ出して死んだ〟という言葉が頭をよぎる。
あの頃はまったく馬鹿らしいと思っていたが、今はそう思うことがどうしてもできない。むしろバカなのは自分自身だったと。心から今の自分を恥じるほどに。
♢♢♢♢
沈黙の星での活動を始めてから二年が過ぎようとしていた。その頃になるとクローニング局は勢いを増し、たくさんのプラントが生まれていた。メビウスで管理されるクローンの数もそれなりの数になり、多くを抱えたことで脱走を試みようとする者も増えていった。監視の目は一層厳しくなり、少女達にはお互いを監視し合うシステムで情報漏洩を防ごうと様々な予防策が設けられていた。
ところが、システムの穴をかいくぐり逃げ出す者や、情報を売ろうとする者が現れ始める。その度に、教会は資金と労力を注ぎ隠蔽することを強いられ、ついに、教会は新たな取り組みを行うこととなる。
「ミルザム様、それは本当に行われるのですか!?」
司教の集まる会議でそれを聞いたミカミは、思わずミルザムに意見した。
「どうせ逃げ出しても処刑という扱いなのだ。それなら民衆の前で華々しく捧げ物として消えていくなら神も許してくれよう」
「そんな……、星核柱などに落ちれば灰も残らない。あまりにも罪と罰がかけ離れているではありませんか」
誰も意見する者などいない中、ただ一人懸念を示したミカミは、機嫌を損ねたミルザムにくってかかった。しかし、当然の決定であることを覆すことなどできず、これ以上の意見は己の身を危険に晒すだけだった。
力及ばず、足取り重く教会へ戻ると、アルフリーナが祭壇の前でひざまづき、珍しく祈っている姿が目に入る。
その後ろ姿は、羽をもがれ飛び立つことのできない蝶のように映った。
自由になりたいという、たった一人の少女の願いすら叶えられないのだと、絶望が波のように押し寄せた。
「あれ、戻っていたの? 声くらいかけてよ。びっくりするじゃない。会議はどうだったの?」
いつも気丈で気の強い彼女が、何か不安を感じ取ったのか心配そうに顔を覗き込んでくる。
何もできなかったと言うべきだろうか。
そしたら彼女はなんと言うのだろうか。
いつも通り変わったことはないと言っても、局へ戻ればすぐに知ることになるだろう。 アルフリーナであればそのくらいの情報なら容易く仕入れられることは、ミカミにも想像がついていた。
「次の式典から、数名の少女が選ばれて、神への生贄として星核柱に捧げられる……」
「……そう」
思いがけない返答に、ミカミは驚き、彼女の顔を恐る恐る見た。怯えることも悲観することもなく、ただその運命を受け入れているかのような。何も感じようとも、見ようともしないただの無がそこにあったのだ。
アルフリーナは、既にこのことを知っていたのかもしれない……。
「君が選ばれてしまう可能性だってあるんだ。どうにかして君を逃したい」
静かに祭壇を見上げたアルフリーナは、力なく答える。
「不思議ね。死にたくないと思って、こうやって生きてきたのに。なんだか今はどうでもいい気さえする。それがなぜなのか考えることも……」
――違う。アルフリーナ。
――無なんかじゃない。
――君はずっと自分を、静かに殺し続けているんだ。
表情ひとつ変えない、アルフリーナ。
ミカミは名を呼んだ。
「アルフリーナ」
自分を見つめ返した瞳がみるみる歪んでいくのがわかる。
「違う……ごめんっ。私、あなたを……」
そう言いかけるとアルフリーナは教会を飛び出し、暗闇の中へ消えていった。
慌てたミカミはすぐに追いかけたが、途中で見失い、墓地の中を彷徨った。
木々の合間からは、こぼれ落ちそうなほど星が覗き、無力な人間を見下ろして笑っているようにも見える。
「アルフリーナ! どこだ! 返事をしてくれ」
長い法衣が邪魔をして、進路を阻む。
一度はためらったものの、ミカミは法衣に手をかけると、勢いよく脱ぎ捨てた。
脱ぎ捨てた法衣から経典が滑り落ちる。
パラパラと風の勢いでページが捲れ、乾いた紙の音が風の音と混ざりあうようにミカミの元を通り過ぎていく。
「あっ……」
すぐにでも拾い上げなければ、風の勢いで破れてしまう。
ミカミは伸ばしかけた手を、すぐに引っ込めた。
何かを断ち切ったように立ち上がり、疾風のごとく森の中を駆け抜けた。
――それでいい。
もう何の迷いもない。
靴のヒールで抉れた地面を頼りに、ミカミはしばらく走った。
ピシャリとかすかに水のはねる音が耳をかすめる。
「アルフリーナ! 何をしてるんだ!」
暗闇の中で湖に浸かるアルフリーナを抱き止めたミカミは、力ずくで彼女を引っ張り上げた。
「……お願い……死なせて」
わけもわからずその言葉に驚いたミカミは、再び彼女が飛び出して行かないよう手首を強く掴み続ける。力なく涙を流し続けるアルフリーナ。
初めて目にする彼女の涙だった。
「何があった、君らしくない。式典のことなら必ずなんとかするから」
「違うの。私……私ね、もうあそこへは戻れない。苦しいの……これ以上失いたくない」
顔を逸らし、自分の顔を見ようとしない彼女が何を言おうとしているのか気づいたミカミは、彼女の手をそっと離した。
自分を戒めるように拳を力一杯握りしめる。
けれどその戒めは、強くなればなるほど、ミカミの本心を炙り出していく。
「瞳を閉じるたびにあなたの顔が浮かんでしまうの。メビウスにいる間もずっとあなたのことを考えてしまう。こんな自分があなたの隣にいることが辛い。あなたのこと、好きになればなるほど孤独になっていくの。こんなに苦しいのならもう、生きていたくなんか……」
力強く引き寄せた彼女はあまりに冷たく、小さく、壊れてしまいそうなほどだった。それでもミカミは力いっぱいにアルフリーナを抱きしめた。
地位も、身分も神さえも、もう全てがどうでもよかった。
ただ目の前の彼女を抱きしめたかった。
――ずっとこうしたかった。
都合のいい理性で、彼女を直視することを避けていたことが情けなかった。
「すまない。僕は君をこんなにも傷つけていたんだね。君の優しさに僕は甘えていたんだ。もっと早く動かなければならなかったのに」
「ミカミ……、私、わたし……」
離れようとするアルフリーナを、ミカミは離さなかった。
「あなたまで穢してしまう。お願い離して……」
「君は綺麗だよ。僕は君のために法衣を纏う、すげ替えられた神などただの偶像に過ぎない。たとえそれが星神に背くことだとしても、僕は構わない」
湖面に映る星達は高みの見物を終えたのか、次から次へと空の端端へと消えていった。それを真似るかのように、見上げた瞳からも次から次へと光の粒がこぼれ落ち、暗闇へと消えてゆく。
「僕は、君に触れず見守ることが君を傷つけない方法だと思っていた。けれどそれは逆に君を傷つけ、聖職者という仮面を隠れ蓑に自分の気持ちを隠していただけなんだ。僕は……僕は君に触れたいと思ってる」
冷たい頬を温めるように両手で包み込むと、ミカミはアルフリーナの唇にそっと口付けた。
優しい口付けはアルフリーナの孤独な心を溶かし、血潮を通わせ、暖かな感情を運んだ。




