Log1-04//勝負
「ねぇ、ねぇダイアンに聞きたいことがあるんだけど」
まつ毛をしばたたかせながら、レンユウが補給食のパウチを握りしめ、ヘーゼル色の瞳を向けてきた。少し嫌な予感はしていたものの、まだたっぷりと残量のある補給食を片手に耳を傾ける。
「何だよっ、変な質問は受け付けないぞ」
そう言ってレンユウを見返すと、なんの悪意も持たない顔で言った。
「アマヨリのこと、好きなの?」
目の前には本人もいるというのに。あまりにもストレートな質問に飲みかけていた補給食を吐き出しそうになった。その瞬間、レンユウが視界から消え、隣で聞いていたアルヘニクスがダイアンが答える間もないほどの速さでゲンコツを落としていた。
「そんな大事なこと、みんなの前で聞いたらダメだよ、レンユウ」
このメンバーの中で最年長であるアルヘニクスは、みんなをまとめてくれる兄のような存在だ。まだまだ幼いこのメンバーの中心となり、ダイアンの憧れの存在でもあった。ゲンコツを食らったレンユウは、しゃがみ込んだまま、またなんの悪意も持たない顔で言った。
「痛い〜、だってヘリヌールがアル兄のこと好きっていうから、ダイアンにも聞いてみただけだよ」
「へっ!?」
アルヘニクスの顔がみるみる烈火の如く紅く染まっていった。ヘリヌールに至っては青ざめて、今にも泣き出しそうになっているようにも見える。色白の手が顔を覆ったが、耳まで赤く染まっているのは隠しきれていない。
ダイアンに至っては石像のように固まったまま。
向かいに座る当の本人は、頬杖をついて言った
「アル兄は人気者だね、私もアル兄大好き。テーヴァもレンユウもヘリヌールもダイアンもみんな大、大、大好きだよ!」
この場をどう収めようかと、皆が言葉を選んでいるなか、無邪気に笑いながら全員に告白するアマヨリ。うなだれていたヘリヌールが小刻みに肩を揺らしながら顔を上げた。
「ほんとアマヨリってば。そうだね、私もみんな大好きよ」
「お、おい。レンユウ、そんな当たり前のことを聞くなよな。俺たちは同じOMEGA9(オメガナイン)のグループで育ったんだ。好きじゃないわけがないだろう!」
ヘリヌールもアルヘニクスも、アマヨリの突拍子もない言葉に救われた。もちろんみんなのことは大好きだし大切な存在だ。
けれどレンユウの言った言葉の意味はきっとその〝好き〟ではないことはお互いにわかっていた。この想いの終着点が、自分たちには与えられてはいないことなど、年長者であるアルヘニクスもヘリヌールも理解していたのだ。だからこのまま何もなかったように振る舞い、今まで通り顔を合わせることを選ばざるを得なかった。
レンユウに一撃を喰らったダイアンと、流れ弾に当たったアルヘニクスとヘリヌールはどこか上の空になってしまった。
すっかり時間がなくなり、昼食を急がなくてはいけなくなった。全員は無言のまま、一斉にパウチを握りしめ、急いで体に流し込んだ。
皆が慌ただしく補給所を出ていくなか、ダイアンはアマヨリがまだ席に残っていることに気がついた。手元には膨らんだままの補給食が見える。
「どうしたの? 早く飲んじゃいなよ。もうすぐ午後の日課が始まるよ」
「うーん……。飲みたくない」
口をへの字に曲げながら、しかめ面で銀色のパウチ相手に睨めっこをしている。
「さては盗み飲んでお腹いっぱいなんだろ〜?」
アマヨリのことだから、何個かくすねて時間外に補給をしたのだろうと気楽に考えたかったが、懸念していたとおりの答えが返ってくる。
「違う……あの実が食べたい、これなんか口に入れても酸っぱいとか甘いとかが違う」
「やっぱり。言いたいことわからなくはないけど、これも甘いとか酸っぱいとかしょっぱいとか〜色々あるじゃん? あの実の栄養バランスがいいかもわからないし」
アマヨリはあのプラントで育てられている桑の実の味を知ってから、日々の食事が少しずつ細くなっていることにダイアンも気づき始めていた。
残量が一定量を超えるとアルダナリ達から指摘される。面倒な指摘は避けたいと思っていた。いつもダイアンがこっそりアマヨリの残したものを代わりに飲んで誤魔化す。そんな方法も長くは続かず、こうなるのは目に見えていた。
「みんなには先に行ってもらったよ。そしたら後でまた、あの部屋に行こうよ」
「本当?」
さっきまでの浮かない表情から一変、嬉しそうな顔をこちらに向けるアマヨリ。
ダイアンの中で作戦が成功に変わる。
「でもそれには条件がある。ちゃんと残さないで補給食を摂ること。そしたらまた袋いっぱいに取ってこよう!」
顔を上げたアマヨリは希望に満ちた表情で、手元のパウチに口をつけると一生懸命に飲み始めた。それを見てダイアンは胸を撫で下ろした。
♢♢♢♢
午後の日課は運動場と呼ばれる施設で体を動かすことだった。黒一色の柔軟性のある運動着に着替えるとアルダナリに誘導されてダイアン達は運動場へ向かう。
「やっぱりこの場所苦手だ……」
テーヴァの隣で準備運動を始めたダイアンだったが、へなへなと床にしゃがみ込んだ。
室内は、床も壁も天井さえも真っ白で、そこに立つと平衡感覚を失う人が続出する。
操作パネルの方ではアルダナリが設定を入れているようで、地面がサッカーコートになったり、テニスコートになったりと忙しなく切り替わっていく。それが余計に足元をふらつかせた。
「なんか気持ち悪…」
気づいたテーヴァが面白がって背中に体重を乗せてくる。
「なんだ、ダイアンは弱っちいなぁ」
「しょうがないだろ、酔うんだよここ」
「こんな無駄な広さで俺たち以外誰が使うんだろうな〜」
そんな疑問ですら、ここには答えられる者はいない。
テーヴァは無駄な設備をぐるりと見渡すと、つれない相手に退屈したのか、アルヘニクスたちのいる方へ走って行ってしまった。
「なんだよ、テーヴァのやつ」
眩しいくらいの真っ白な空間に入ると、まるで全てを裸にされたような気持ちになる。持っている能力も、積み重ねた強さも何もかもを意味のないものにして、弱さだけを浮き彫りにする白さが、底知れぬ無力感を呼ぶ。
「これのどこが最新設備なんだよ、吐き気しかしない…」
ダイアンはよろよろと立ち上がり、襲ってくる吐き気と無力感に打ち勝とうと背筋を伸ばし深呼吸をした。
アマヨリはテーヴァ達とふざけながら準備運動をしている。ダイアンもその横でいつもどおり体を動かしながら、動きづらい制服から解放された爽快感と吐き気を味わっていた。そこへアルヘニクスが小走りにやってきて話しかけた。
「持久走するっていうから、どっちが早いか勝負しない?」
乗らない理由がどこにあるんだ。と、ダイアンは少しワクワクしながらアルヘニクスの勝負を受けることにした。
今日は体力作りの一環で、真っ白な空間にトラックが映し出されると、皆興奮ぎみに走り込む準備を始めた。この場を盛り上げるためなのか、大勢の観客まで映し出すというアルダナリの配慮まである。
「みて〜! 応援されてるみたいだね」
「ほんとだ、すっご!」
レンユウとはしゃぎながら偽りの像の中にアマヨリはすっかり溶け込んでいる。
「星空にして欲しいな〜」
「あたしは、草原とか森の中を走りたいな」
この部屋での活動を誰よりも喜んでいるのはアマヨリだった。
ぼんやりと二人を眺めていると、アルヘニクスがニヤリとして上から顔を覗き込んできた。
「ハンデはいるかな?」
「え、いらないよ。アル兄には負けないと思うよ」
「おお! 言うようになったな」
最年長のアルヘニクスはここ最近でまた、少し背が伸びた。ダイアンと去年まで変わらぬ背丈だったのに今ではすっかり追い越された。
「へへへ。そのうち背も抜かすから」
ダイアンは、アル兄の背中を見上げながらぼんやりとアル兄のことを思い出していた。
ここにいる子供たちとは五歳からずっと一緒に育ってきたが、アルヘニクスだけは違っていたことを。
もともと、アルヘニクスは〝別のエリア〟にいた。
ダイアンたちのところに来たのは今から何年も前のことで、途中からオメガ9のメンバーに加わった。
グループに新しい子供が加わることは、ここでは日常茶飯事のこと。アルヘニクスは九歳でオメガ9の新入りだった。皆は驚き、一時期彼はこのオメガ9注目の的となった。なぜなら、普通は五歳でここへ来るはずだから。
ダイアンの肩に腕を回したアルヘニクスは、耳元でこっそりと言った。
「うおーし、俺の秘密を共有した仲だ。俺が勝ったらお前の秘密も教えろよ」
ダイアンたちにだけ打ち明けた『アルヘニクスが全く別の場所から来た』という秘密は、メンバー全員に天地を揺るがすほどの驚きを与えた。
ここに住む者達がこの幾重もの厳重なセキュリティ扉をくぐり、他のエリアに行くことが難しいことはもちろんのこと。それ以前に別の場所にも人が存在していること自体を知ることが無かった。自分たちが全てだと思っていた。
ダイアンとアマヨリが、桑の実の部屋を見つけたのも、このアルヘニクスの秘密がきっかけとなったのだ。
ダイアンはアル兄の腕の重さを感じながら、不満を口にする。
「ええ! 秘密なんて無いよ。それにアル兄の秘密を聞いたのは俺だけじゃないから不公平だ」
アルヘニクスはそんなことはわかっていると言わんばかりに、腕に力を込めて耳元でもう一度言った。
「俺が負けたら……、とっておきの秘密を教えるぞ?」
「わっ、わかったよ」
ここ最近ダイアンは秘密という言葉に敏感になっている。
アマヨリの持ち込む秘密のおかげで秘密に対する期待度が上がっていたのだ。
結局、アルヘニクスの誘いにまんまと乗ったダイアンは、深呼吸してトラックのスタート位置に着いた。
ちらりと隣を見るとアルヘニクスは真剣な表情で前を見据えている。ピンと伸びた腕や体を支える脚には、いつの間にかしっかりとした筋肉を蓄え、幼かったはずの横顔は鼻筋がくっきりと浮かび上がり精悍さが際立つ。そんなアルヘニクスの姿を見てダイアンは少しドキドキした。
スタートのブザーが響くと同時に皆が一斉に走り出した。ペース配分や位置取りなど考えていたが、そんな作戦も通用しない速さでアルヘニクスはどんどんとペースを上げていく。そして、あっという間に距離を離していった。
外周では、女子や低年齢の子供たちが黄色い声を上げながら楽しそうに応援していた。
♢♢♢♢
「随分と甘やかしてますね、施設長」
運動場施設の上階からガラス越しに子供たちを見下ろした男は、隣に座る無精髭の男にため息まじりに言った。
無精髭の男は、ガラス越しの景色には目もくれず、ため息をこぼした灰色の髪を束ねた男を一瞥した。
「いいんだよ、束の間の幸せだ。それより今日は?」
「学会発表のついでに寄ったのですが……」
灰色の髪の男は音の止まないヴォイドリンクが気になり会話を止める。
一方の無精髭の男はそれが日常であるかのように無視をする。
「……、開発局のリラ局長に枢密府の宰官が、議会を通さずに直接指示を出している案件があると耳にはさみまして、施設長はご存じで?」
無精髭の男は、目の前のエアビューを眺めたまま答える。
「把握はしている。リラ側を調べようと思ったが開発局には厄介者がいるんでね」
「近衛団ですか…」
ヴォイドリンクの音がピタリと鳴り止む。
二人の間を事の複雑さを示すように静寂が広がる。無精髭の男は、その静寂を破るように重い口を開いた。
「ああ、それも枢密部隊が紛れ込んでるようだ。下手に動けない」
帝国の仕掛けるさまざまな防衛策には無精髭の男もうんざりしていた。
政治的なしがらみから、情報収集を行うには重大なリスクを孕んでおり、特に開発局においては帝国の根幹に関わる部分があるため、簡単にはその内を知ることができない。
お手上げというような表情を見せた無精髭の男を前にして、灰色の髪の男は自分の把握できているだけの情報を伝えた。
「その研究を、どうやらこの局の管理区域に隣接する研究所で行っているようです」
「あの場所か、宰官が絡むなら尚更だろうね」
デスクの前で立ったまま灰色の髪の男は続ける。
「開発局の職員たちの会話からなのであくまで噂を耳にした程度ですが」
しかし、既にその情報を掴んでいたのか、無精髭の男は興味を示さない。
伸びをしながら椅子を回転させ、ガラス窓の方に体を向けて言った。
「枢密府の動きは読めないからなぁ。どうせ新しい武器か兵器の開発だろうけど、指示をしている宰官が誰かははっきりしておきたいかな」
「恐らく、ノクトリア宰官だと私の勘が働きますが……」
「なるほど。勘か……」
顎を撫でるようにして無精髭の男は少し考え込む。
「すみません、証跡を見つけられていないのでなんとも。しかし、議会を通せないようなものを作ってどうするつもりなのでしょうか。これ以上、一体何を望むというのか……」
灰色の髪の男は落胆した声で帝国の状況を憂いた。そんな彼を見て無精髭の男はなだめるように言う。
「時の権力者は皆、欲深くなければ国を成し得ないのだろうね、週明けになるがリラの方をもう少し調べてみるよ」
「頼みました。こちらは一旦フェードアウトしますので」
「ああ。ありがとう、セネリス」
セネリスと呼ばれた灰色の髪の男は一礼すると、音も立てず部屋を出ていった。
ガラス越しには持久走がクライマックスを迎えたのか、先ほどよりも興奮して大騒ぎする子供たちが見て取れた。無精髭の男は立ち上がり、ポケットに手を入れる。ガラスの壁に寄りかかり、しばらくその様子を眺めた。時折クスリと笑いを浮かべながら。
部屋は運動場をよく見渡せるが、運動場側からこちらに気付く者はいない。指紋一つなく磨かれたガラスの壁面に、自身が映り込んでいることに気がついた無精髭の男は、視線を映り込んだ自分へ移し、こう言った。
「つくづく嫌な顔になったな……、クリプタ・ヴェリラキア」
♢♢♢♢
アルヘニクスは堂々の一位でダントツだった。今回ダイアンは少々自信があったにも関わらず、一周以上の差をつけられてしまっていたのだ。
ゼーゼーと息を切らし喘いでいると、トンっと背中をアルヘニクスが叩いた。彼の呼吸は全くと言っていいほど乱れておらず、ますます差をつけられた気がして悔しさが汗のように滲み出た。アルヘニクスはダイアンの走りを褒め、また勝負しようと満面の笑顔で、勝負の相手を労う。
滲ませた悔しさは汗と一緒にすっかり流れてしまった。
「全く敵わないや。ハンデもらえばよかった」
「身長だって違うんだ当たり前だよ。すぐに俺なんて追い越すさ。この後は女子が走るから応援しよう」
「秘、秘密はいいのかよ……」
競走に負けたら自分の秘密を教える約束だったので、ダイアンは頭の中で何の秘密を話そうかと考え込んでいた。
みんなが持っていない持ち物を持っていること、日記をつけていること、密室の少年に桑の実の部屋。割と秘密は持ち合わせているほうだと思っていたが、誰かに話せる秘密は限られている。
密室の少年のことなんて絶対に話してはいけない。
桑の実部屋もアマヨリと二人だけの大切な秘密だ。
あれこれと真剣に悩んでいたのに、アルヘニクスから返ってきた言葉は意外なものだった。
「どうせ、ダイアンの秘密なんてたいしたこと無いだろう。それにさっき最大の秘密はレンユウがバラしちゃっただろう? だから俺の秘密を教えてやるよ」
前者の発言を弁明したい気持ちと、後者の発言で昼間のことを思い出し、何も言い返せないもどかしさがダイアンの言葉を詰まらせた。そしてアル兄の揶揄に、ただ赤面するしかなかった。
「なんだ、かわいいなお前」
ダイアン達がなんだかんだとしている間に、アマヨリ達もトラックを既に走り始めていた。小さい体のアマヨリに長距離は酷だろうと考えていた。根を上げることなく先頭を走る少女達について走っている。レンユウとヘリヌールに至っては二キロで既にコースアウトして走ることを諦めていた。頬を赤らめながらペースを落とさず、先頭集団に食いついていく姿を見てダイアンは思わず声をあげた。
「アマヨリーがんばれー!!」
誰よりも大きな声で叫んだために、一斉に皆がこちらを凝視した。恥ずかしさで身をかがめようとすると、声が届いたアマヨリはこちらを向いて笑顔で手を振る。
一歩、二歩と踏み込むたびに紫紺色のくせっ毛がふわふわと左右にゆれ動く。そんなアマヨリがどこか眩しくて思わず目を瞑ってしまいたくなった。
「やっぱりアマヨリには敵わないね。テーヴァなんて男のくせに三キロで泣きそうだったよ」
レンユウが汗を拭いながら、ダイアンの隣に座り込んだ。ヘリヌールも息苦しそうにテーヴァへもたれかかっている。
ダイアンは疲れ切った二人を見て、いつも後先を考えずに行動するアマヨリのことだから無理をしているのではと少し心配になっていた。
残すはあと一周。アマヨリはペースを変えずに未だ走り続けている。同じ年齢の子供たちはすでに全員が脱落しているようだった。
年長組の中で、小さな体で走るアマヨリを次第にみんなが応援するようになる。
がんばれーという声援があちらこちらから聞こえ、声援に応えるようにアマヨリもペースを上げようとしたのがダイアンには伝わった。
しかし、ゴールまであと数メートルの所で、アマヨリはバランスを崩し、勢いよく宙を舞った。大慌てでテーヴァとレンユウが駆け寄っていくのを目前に、ダイアンはあまりに驚いて動けなくなっていた。
アルヘニクスの背中には足首を腫らしたアマヨリがしょんぼりとした様子でおぶられていた。医務室に行くこととなり、みな心配でゾロゾロと後を続いた。
アルダナリはこういうときあまり役に立たない。目の前で怪我人がいても心配の声すらくれないのだ。こちらから怪我の申告をすれば医務室に連れて行ってくれるが、処置は医師や看護師が対応する。困ったときにどうしたらいいか、という判断は子供たちに委ねられていることも多い。だからアル兄のような年長者がいると、とても心強い。
ダイアンは軽々とアマヨリをおぶるアル兄の後ろ姿を見ながら、早く自分も彼のような大人になりたいと強く願う。
「大丈夫かー? 結構捻ったんじゃないか、足首が腫れてきてる」
「アル兄どうしよう〜。だんだん痛くなってきた」
「ええ〜! 骨折れてたら、医療棟に連れてかれるんじゃないか」
二人の何気ないやりとりを聞いていて、ダイアンは途端に血相を変えてアルヘニクスの前に飛び出した。
「だっダメだ! あそこに行くと言って帰ってきた奴いないだろ!」
アルヘニクスは少し驚きながら足を止め、何かを思い出したようにダイアンの言葉の意味を理解したようだった。
キョロキョロと辺りを確認しながら言った。
「……そうだったな、そう言われたら全力で止めよう。とりあえず、腫れも酷いし、俺たちじゃあどうにもできないから、まずは医務室に急ぐぞ」
ダイアンの鼓動は医務室に近付くほど早くなった。頭の中で、もしもアルダナリ達や医師達に医療棟に送ると言われたらどうしようかと不安で一杯になった。
もしもそうなったとき、事務的でシステマチックなアルダナリたちを、医療棟に行かせるのを止められるような決定的な文句が思い浮かばない。鼓動が邪魔をして考えもまとまらない。
ふいに、昔クリプタにアルダナリや管理官に言っても解決しないトラブルはどうしたら良いのか相談したことを思い出した。その時に言われた言葉が頭の中を光の速さで駆け巡る。
――今、自分にできることだけを考えるんだ
――感情と事象は切り離し、冷静にものごとを見る
ダイアンは冷静さを失わないよう、その言葉を呪文のように繰り返した。
「今できること、今できること……冷静に、冷静に」
一人呟きながら歩くダイアンを、怪訝そうな顔でレンユウが覗き込んだ。
「ちょっとダイアン、ぶつぶつ独り言、大丈夫?」
「あった!」
ダイアンはレンユウの顔を見るなり、何か思いついたように走り出そうとした。
そうだ。クリプタを呼んでくればいいじゃないか、彼ならなんとかできるはずだ。そう思いつくと、あとは彼のいる部屋まで走っていくだけだった。
けれど、医務室の前まで来るとダイアンの心配と作戦は徒労に終わる。
「随分と無茶したね」
扉の前には、いつものスラリとした長身の無精髭の男が立っていたのだ。
「クリプタ! なんだ、部屋まで走っていく所だった」
「アルダナリから報告は受けてるから大丈夫だ、今日は腕利きの医師もいるからすぐに処置できるよ」
――最悪の事態も想定し、受け入れる覚悟を持て
相談したときにクリプタが最後に言った言葉。その時は何の実感もなかったその言葉の重みが今になって、ほんの少しだけわかった気がした。
ダイアンは胸を撫で下ろすと、いつの間にか追い抜いていたアルヘニクス達がゾロゾロと医務室に入っていく。
薬品の匂いが充満し、見慣れない機器がそこかしこに並べられた部屋。クリプタの机とは比べ物にならないほどに、整頓されて清潔感のあるデスク。そこには、クリプタとは違うオレンジ色のラインの入った制服に、白衣を羽織った見慣れない人物が座っていた。
灰色の長い髪はどこかミステリアスで、憂いを含んだ顔は女性と見間違うほどに端整だ。
「どうしたの? 大人数で。急病かな?」
優しげで落ち着いた声はクリプタとは違う知性を感じる。
「さっき運動場で足を捻ったみたいで、本人は至って元気なのですが……」
アマヨリはアルヘニクスの背中からひょっこりと顔を出すと、嬉しそうに目の前の男の名を呼んだ。
「セネリス! どうしたの⁉︎」
「どうしたのは君の方だろう、足を見せてごらん」
セネリスと呼んだ男とは知り合いのようだった。アマヨリは幼少の頃からクリプタ
の元にいたせいか、自分の知らない人物や世界が彼女にはある。そんなアマヨリをときどき羨ましく思うときもあれば、その世界を自分とは共有できないことが寂しく、ダイアンは置いて行かれたような気持ちになることもあった。
セネリスはアマヨリを診察台に座らせると、足首を曲げたり伸ばしたりと怪我の具合を確かめながら、骨折や筋の損傷がないかを医療用スキャナーで念入りにチェックしていた。セネリスの怪訝そうにしていた灰色の瞳が、少し緩むのがわかるとダイアンは内心ほっとした。
「しばらく薬を飲んで、治療用ブーツを履いて安静にしていればすぐに良くなるよ」
「よかったぁ! もう走れなくなったらどうしようかと思った。またクリプタに怒られちゃう」
ダイアンが後ろを振り向くと、クリプタの姿はもうなかった。辺りをキョロキョロとするダイアンに気づいたセネリスが優しく声をかける。
「心配で見にきただけだよ。あとは私が対応するから安心して」
セネリスの言葉に安堵すると、何だかどっと疲れた気がした。肝心のアマヨリは怪我人かと疑いたくなるくらいにけろりとしている。
目の前ではアルヘニクスが治療用ブーツの履かせ方をセネリスから教わっている。きっとこの手順を同室である自分が後でアル兄から教わるのだろうと思っていたが、アル兄はアマヨリに一緒に覚えるように促していた。
ほんの少し前まで、一緒に部屋の中を走り回ったり、武術の稽古でふざけ合ったりしていたのに。アル兄がすっかりあっち側に混ざっていってしまうのは、何だか寂しい気持ちと、羨ましい気持ちが入り混じり、ダイアンの心は置いてけぼりになった気がした。
そんな中、唐突に、ぎゅるるる。という音が部屋中に響き渡った。皆が互いの顔を見合わせ、一人真っ赤に頬を染めたレンユウが、
「なーんか、心配したらお腹すいちゃった!」
と、恥ずかしそうに告白すると、医務室の中はどっと笑い声で溢れた。
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