Log1-20//一歩
リラ・ランブラの管轄する開発局の本部は、最上階に置かれている。そこから見おろした景色は、雲居を望むものとは全く異なり、幾層にも重なるジオフロントの街区が静かに広がる。その灯りは人々の営みを映すかのように脈打ち、鮮やかな色となって明滅している。ここで起きている出来事の全てが、ただの微細な揺らぎに過ぎない程に。
自らがその中心に立っているのだと錯覚するかのように、ダイアンはまるでこの世界を手のうちに収めたような気分になった。
けれど、その気分もリラ・ランブラの言葉一つで色を失う。
「Ω9_03-1001(オメガナインゼロスリーワン)、まずは三ヶ月ほどデータ収集し、私の実験に参加してもらいましょう。その体であれば色々と耐えられるでしょう」
ガラス張りの窓からは下層の人々が点のように見えている。ここにいると、人を人とも思わなくなるのか。と、目の前で目も合わせず画面越しに話すリラ・ランブラに早速、嫌悪感を抱いた。
それを注意する術も権限も持たないダイアンには、ただ受け入れるしかなかった。
「ひとつ聞いておきたいんだけど、ぼく、いや、俺は生きていられるの?」
もう、どうにでもなれと言うような投げやりな態度で尋ねると、リラ・ランブラは相変わらずこちらに目を向けることなく答えた。
「それを今調べている」
「は?」
クリプタからは、開発局局長である彼に対しての言葉遣いは気をつけろ。と言われていたが、いつものクリプタとの語調で受け応えしていた。ダイアンは少し気まずさを覚えたが、当の本人は全く気になどしていないようだ。
「まだ解らないのだよ。ユイさえ、ユイさえいれば……。すぐにでも計画を実行できるはずだったのだよ」
「ユイって誰だよ。俺はとにかくお前のおもちゃじゃないんだ、命の保証がないならこっちにも考えがある」
やっと会話というものをする気になったのだろうか。リラ・ランブラは作業の手を止めてダイアンの方を向いた。ピンク色に光る眼鏡には自分が写り込んでおり、じっとこちらを見据えているようだ。
「ユイは……、美しく崇高な女性だ。その遺伝子を持てたことに感謝するがいい」
「女性? 遺伝子?」
ダイアンがその言葉の意味を瞬時に理解するには、あまりにもこの世界の仕組みは複雑すぎていた。以前、アマヨリから見せられたあの本の話と少し繋がったのは、新しい部屋に戻ってしばらくしてからだった。
結局、リラ・ランブラとはあまり血の通った会話はできなかったが、命の保証はされるようでそこは一安心できそうだった。あとは、自身が開発局でどんな立場を与えられるのか。彼の計画の詳細を探るためにもはっきりしておかねばならない。
ダイアンはここにくる前、クリプタからは三つのことを最初に明確にするよう言われていた。
――回想
「いいか、まず一つ目だ」
クリプタは真剣な眼差しでダイアンを見据えた。
「〝命の保証〟があるか。彼の非道な実験の道具にされてはたまらない。さすがに無いとは思うが念のため確認しておく方がいい」
ダイアンの背中をスッと汗が落ちていく。
「それ、本気だったらどうするんだよ……」
なぜか黙り込むクリプタ。
「お、おい…」
「緊急時用のヴォイドリンクを渡す。あれはごく短時間であれば監視網にかからない。それで助けを呼べ」
どこか他人事のように考えていた自分がいたことに気がついた。クリプタの顔を見てこれは遊びでは無いのだと。それを見抜いたかのようにクリプタは言った。
「間違っても自分の実力を試すようなことをするな」
小さく頷くダイアンにクリプタは話を続ける。
「それから二つ目。〝自分の立ち位置〟お前がただの実験材料じゃない場合だ。リラの元でどういった役割を与えられるか。もしくはその役を自分でどう作るかだ」
実験材料という言葉がやけにひっかかる。リラが呼んだからには、なにもせずに意思のある者を隠したままにするというのも考えづらく、偽装の身分が与えられ平然と局内に置かれるのでは。というのがクリプタの考えだった。ただ、ダイアンは幼少期の体験から再びどこかに閉じ込められて、ほったらかしにされるのではと戦慄していた。
「ふうっ」
リラとの面談を終え疲労困憊したダイアンは、用意された自分の部屋を見て驚いた。
無駄に広い空間にはベッドと机の他にも家具が置かれ、シャワールームにキッチンまである。クローゼットを開けると新品のタオルや着替え類、必要なものが全て揃っているようだった。
「どういうつもりなんだ…」
リラからは、身を切り刻むとか、薬を投入するとか、そんなことはしないと言われたのは、恐らく本当のようだ。ただ、ダイアンが一つ気になったのは、実験材料ではないが、研究材料であるという微妙な回答をもらったことだった。
ダイアンは緊張で疲れた体をすぐにでも癒したくてベッドに横たわる。真新しい冷たいリネンの匂いはクリプタと灯台に来た日の記憶を呼び起こす。
――ヒッ、ヒッ、ヒック……。
初めてクリプタから真実を聞いた日。
ダイアンは真新しいベッドの上でひとり、声を殺して泣いた。
真実という鋭いナイフが容赦なくダイアンの幼い心を突き刺し、
自分ではどうすることもできない現実が純粋な心を切り裂く。
ポツポツと流れ落ちたものが真っ白なシーツに灰色を残してゆく。
声が漏れそうになるたびに奥歯を強く噛みしめた。
すると、毛布の上から体を押さえつけられるような感覚が走る。
ダイアンはこの感覚に覚えがあった。
噛みしめた奥歯からスッと力が抜ける。
その瞬間、ダイアンは声を上げて泣いた。
「辛いな…、我慢しないで、泣いていいんだ」
クリプタに抱きしめられたダイアンは、幼い子供のようにわんわんと泣いた。
空が闇を失い、暁月色に染まるまで。
翌朝、ダイアンは目を覚ますとリラの元へ足を運んだ。
そこまで彼も非道ではないのか、自分の利用価値を考えているのか、ダイアンの所属は、公には研究助手として開発局員となり、白衣を着用してリラ・ランブラの手伝いをするというものだった。リラ・ランブラの行動パターンや、研究内容そのものを把握するチャンスがかなりありそうだ。
「なあ、俺にお前の手伝いなんてできるのか。それを口実にどこかに閉じ込めるのはやめてくれよ」
エアビューを食い入るように覗き込んでいたリラは、鼻で笑いながら言った。
「来たばかりの人間に何かを求めるなんてことはしませんよ」
人間扱いされているんだ。
ダイアンは鼻で笑われたことよりも、人間と言ったリラの言動の方が気になった。
「うーん」
しばらくリラの様子を見ていたが、できそうなことと言ったら、部屋の掃除と整頓くらい。実験でもして機材をいじくりまわしているのかと思っていたら、一日中、デスクでエアビューを覗き込んで作業をしているだけ。
(クリプタと同じだな…)
早速、自分の存在意義を失いそうになったダイアンに、リラはずらりと並ぶ棚を指差して言った。
「あの中にある本を読んで勉強してください。あなたならそれができるはずですよ」
棚の中にはびっしりと日課の教材のような書物や学術書が並んでいる。
ダイアンは言葉少なげに、理解したように返事をする。
「わかったよ、でも一日中それじゃ暴れたくなる。なんかもう少し俺が今からできそうなことはないか」
リラは手を止め、ゴーグル越しにダイアンの顔をまじまじと見る。向こうから目を合わせるようなことをするのは初めてかもしれない。
ダイアンもそれに応えるように視線を逸らさずじっと見つめる。
「あなたの教育係は、そう教えたなら失敗ですね」
すぐにクリプタの顔が浮かんだダイアンは、彼の悪口を言われたようで口元を固く閉じた。
「ここは遊び場ではありませんよ。指示されたことをきちんとこなせてこそ、次があるのですから」
「……」
彼の言っていることは正しかった。
今はあの書棚に詰められたもので知識をつけろと言われているのだ。ダイアンは少しリラを勘違いしていることに気がついた。
「他になにか?」
「意外に、まともなこと言うんだな」
特にリラから返事が返ってくることはなく、ダイアンは大量の書物類を持って部屋へ戻った。
がらんと空いた本棚はこの為のものだったのか、と合点がいく。デスクに広げた本に圧倒されて、しばしやる気を失いかけたが、そんなことを言っている暇はダイアンにはない。
「やらないとな、先に進めないんだ」
リラから与えられた課題は決して容易なものではなく、今まで以上の時間を費やさねばならなかった。食事や睡眠の時間さえ惜しみ、時にはバスルームで眠っていることもあった。
幼い日の平穏な日常を思い出しては、全てを投げ出したくもなった。
そんなとき、決まって浮かぶのはあの夜空のような瞳で話す彼女の〝待ってるね〟の言葉だった。
(あと少し……)
結局、ダイアン自ら部屋の中に籠るという、生活が訪れてしまった。




