第52話 無能力サポート、天使の料理スキルを知る
準備室のテーブルの上に、細長いパウチが三本並んでいた。
マリーが、そのうちの一本を手に取る。キャップを外し、当たり前のような顔で吸い上げた。
徹は、装備リストのチェックを止めて、それを眺めた。
「マリー」
「何」
「いつもゼリーですけど、大丈夫なんですか?」
「何が」
「食事です」
マリーは、パウチを傾けたまま、意味が分からないという顔をした。
「糖質はゼリーで、タンパク質はプロテインバーで摂ってるから問題ないわ」
「それって健康にいいんですかね……」
「必要な栄養素は摂れてるでしょう?」
言い切ってから、マリーは残りを一気に吸い上げた。空になったパウチを、几帳面に折り畳んでゴミ袋へ入れる。所要時間、四十秒ほどだった。
「それに、早いのよ」
「早い」
「作る時間もいらないし、食べに行く時間もいらない。移動もしなくていい。その分、攻略に使えるわ」
「……なるほど」
徹は、二本目のパウチを手に取ったマリーを見た。
この人にとって食事とは、燃料の補給なのだろう。攻略の合間に挟まる作業のひとつ。それ以上の意味を持っていない。
徹は、特に深く考えずに言った。
「じゃあ、俺がお弁当作ってきましょうか?」
パウチのキャップを外す手が、止まった。
「…………」
「マリー?」
「…………」
「マリー?」
「なななな何を言ってるの!?」
声が裏返っていた。
「え?」
「そ、そういうのは……!」
「そういうのは?」
「そういうのは、その」
マリーは、パウチを両手で握ったまま、視線をあちこちへ泳がせた。
徹は、状況が理解できなかった。
「駄目でした? 俺、料理そこまで得意じゃないですけど、卵焼きくらいなら」
「そういう問題じゃないわ!」
「じゃあどういう問題ですか」
「……」
マリーは答えなかった。
答えないまま、パウチを持ち直して、そっぽを向いた。ゼリーを吸う速度が、さっきより明らかに遅くなっている。
(怒らせたかな)
徹は、装備リストに視線を戻した。
視界の端で、マリーの口元がわずかに緩んでいたことには、気づかなかった。
◇
翌週の調理実習は、定食だった。
ハンバーグ、味噌汁、ご飯。班ごとに調理台が割り当てられ、材料は各自が分担して持ってくることになっている。
徹と茉莉と誠は、同じ班だった。
エプロンを結びながら、誠が茉莉の方を見た。
「綾瀬、料理できんの?」
「栄養管理なら問題ないわ」
「いや、そうじゃなくて」
「一食あたりのタンパク質量と、加熱後の残存率なら把握してるけど」
「料理できるか聞いてるんだけど」
徹が横から言うと、茉莉は少し考えるような顔をした。
「……調理という工程を、どう定義するかによるわ」
「定義でごまかそうとしてる」
「してないわ」
「してるよ、絶対」
誠が笑いながら、まな板を出した。
茉莉は、それ以上答えなかった。答えないまま、袖をまくって、包丁の前に立った。
◇
結論から言えば、茉莉の知識は異様だった。
「玉ねぎって、どのくらい炒めればいいんだ?」
誠が聞くと、茉莉は即答した。
「透明になるまで。糖化が始まるのは百四十度前後だから、中火なら五分程度。焦げると苦味が出るわ」
「詳しっ」
「ひき肉の加熱は、中心温度七十五度で一分以上。それ以下だと食中毒のリスクがあるわ」
「先生かよ」
「あと、ハンバーグは常温に戻してから焼いた方が、中まで火が通りやすいわ。冷蔵庫から出してすぐ焼くと、外側だけ焦げる」
徹は、感心して聞いていた。
自分よりずっと詳しい。
そう思っていた矢先だった。
「じゃあ、玉ねぎ切ってもらえる?」
茉莉が頷き、包丁を握った。
握った瞬間、誠が「うわっ」と声を上げた。
持ち方が、明らかにおかしい。刃の側を親指で押さえるようにして、上から振り下ろそうとしている。
「待って待って待って」
徹が慌てて止めた。
「なに」
「その持ち方は危ないから」
「そう?」
「そうです」
持ち方を直させてから、改めて切らせてみた。
切れた玉ねぎは、厚さが三ミリのものと一センチのものが混在していた。
「均等に切って」
「均等の定義がないわ」
「同じ厚さってこと」
「同じ厚さの定義が」
「見た目で同じくらい!」
茉莉は、少し不服そうな顔をして、また包丁を動かした。
二度目も、同じ結果だった。
「なんでそこまで知ってて料理できないの?」
徹が聞くと、茉莉は手を止めて、真顔で答えた。
「知識と実技は別でしょう」
「開き直った!」
誠が声を上げて笑った。
「泳ぎ方の本を百冊読んでも泳げないのと同じよ」
「例えが妙に正しいのが腹立つ」
茉莉は、それには答えず、三度目の玉ねぎを切り始めた。
結果は、やはり同じだった。
塩を「少々」と指示されて、大さじで掬おうとしたところで、徹が止めた。火加減を「弱火」と言われて、つまみを最大まで回したところで、誠が止めた。
それでも茉莉は、まったく動じていなかった。
「初めての作業だもの。誤差が出るのは当然でしょう」
「誤差の幅が大きすぎるんだよ」
◇
いよいよ、ハンバーグの本体に取りかかる段になった。
徹が、フライパンの火加減を確認しながら言う。
「じゃあ誠、ひき肉お願いします」
「おう」
誠が、自分の鞄の方へ歩いていった。
ファスナーを開ける音。中をかき回す音。
止まった。
もう一度、かき回す音。
また止まった。
「誠?」
「…………」
「誠?」
「…………忘れた」
徹の手が、フライパンの上で止まった。
「何を?」
「肉」
調理台に、沈黙が落ちた。
茉莉が、ゆっくりと誠の方を見た。
徹も見た。
誠は、鞄を持ったまま、気まずそうに立っている。
「ハンバーグで一番忘れちゃいけないやつ!!」
徹が叫ぶと、周囲の班からどっと笑いが起きた。
「マジかよ、山口!」
「肉なしハンバーグって何!?」
「野菜炒めじゃん!」
「悪い! ほんとに悪い! 朝、冷蔵庫から出したところまでは覚えてる!」
「出しただけかよ!」
誠は、本気で謝っていた。ふざけている様子はまったくない。両手を合わせて、頭を下げている。
徹は、教室の時計を見た。実習時間は、あと四十分。買いに行く余裕はない。予備の材料も、各班が使い切っている。
先生が、こちらへ歩いてきた。
「山口くん、忘れ物?」
「すみません」
「まあ、そういうこともあるわね」
先生は、調理台の上に残った材料を眺めた。
「ある材料で工夫してみたら?」
そう言って、あっさり次の班へ行ってしまった。
三人で、調理台の上を見た。
玉ねぎ。パン粉。卵。塩。胡椒。味噌汁用のだしと、わかめと、豆腐。
「……終わったな」
誠が呟いた。
「まだ終わってません」
徹が言ったが、正直、案はなかった。
◇
そのとき、茉莉が動いた。
調理台の端に置かれた、味噌汁用の豆腐のパックを見ている。
「……豆腐でいいんじゃない?」
「え?」
徹と誠の声が、同時に出た。
「植物性タンパク質は摂れるでしょう」
「いや、栄養の問題だけじゃなくて……」
「大豆タンパクのアミノ酸スコアは八十六。動物性には劣るけど、必須アミノ酸は一通り含まれてるわ。パン粉と卵を組み合わせれば、補正もできる」
「そういう話をしてるんじゃなくて」
徹が言いかけると、茉莉は豆腐のパックを持ち上げた。
「水切りして、つなぎを入れて、成形すれば焼けると思うけど」
徹は、その言葉を三秒ほど考えた。
できる。
理屈の上では、できる。
「綾瀬、お前豆腐ハンバーグ作れるの?」
誠が聞いた。
「作れないわ」
「なんで知ってんだよ!」
「知識と実技は別だと言ったでしょう」
「さっき開き直ったやつをここで使うな!」
徹は、豆腐のパックを手に取った。一丁分。三人前のハンバーグには、明らかに足りない。
「量が足りないですね」
「そうね」
「あと二丁くらい欲しいです」
三人で、また調理台を見つめた。




