第42話 安管受付、推しに労われて深夜残業する
「遅くまで、ありがとうございます」
稲垣徹は、受付越しに小さく頭を下げた。
攻略を終えた天使マリーと、その専属サポートがゲート事務所へ戻ってきたのは、夜も深くなってからだった。
攻略者にとっては、帰還した時点で一日の仕事が終わる。
だが、受付職員にとっては違う。
帰還確認。討伐記録との照合。回収素材の受領。計測。撮影。状態確認。保管部署への引き渡し。
持ち帰ったものが多いほど、こちらの仕事も増える。
「受付の人たちがいてくれるから、俺たちも安心して戻ってこられるんですよね」
「そうね」
隣に立つマリーも頷いた。
「帰る場所が管理されているのは、大事なことだわ。いつも感謝しているわよ」
「い、いえ。こちらこそ、いつもご協力ありがとうございます」
大塚愛理は、業務用の笑顔で答えた。
声は震えていない。頬も引きつっていない。
受付業務に就いて四か月。
推しを前にしても、職員として振る舞える程度には成長していた。
――天使マリー本人に労われた。
――いま、私、天使マリーに感謝された!
内心では両手を上げて走り回っている。
もちろん、顔には出さない。
「それでは、今回の回収素材をお願いします」
「ええ。こっちよ」
マリーが振り返った。
受領区画の奥から、今回の成果が姿を現す。
最初に見えたのは、長い尾だった。
続いて、傷の少ない翼。
硬い鱗に覆われた胴体が運び込まれ、最後に首が現れる。
全長は、ざっと五メートル。
ワイバーンだった。
「…………」
愛理の笑顔が消えた。
代わりに、眉間へ深い皺が寄る。
普段の天使マリーが持ち帰る素材は、もっと原形がない。
素材保全を考えるより先に、敵ごと周囲を消し飛ばすからだ。
ところが、目の前のワイバーンには頭も翼も尾も残っている。
致命傷になった箇所以外、目立った損傷さえ少ない。
「今回は、できるだけ傷を増やさないようにしてもらいました」
徹が説明した。
「状態がいい方が、素材として扱いやすいですよね?」
「それはもう、とても」
素材価値は高い。
研究用途も含め、喜ぶ部署は多いだろう。
そのためには、全身を計測しなければならない。
写真も一枚や二枚では足りない。
傷の位置。鱗の状態。翼膜の破損。素材として利用できる範囲。
すべてを記録し、受領票と照らし合わせ、保管部署へ引き渡す。
しかも、五メートルある。
推しに労われた。
珍しくきれいに残ったワイバーンを見られた。
そして、これをいまから自分たちが処理する。
どこから感情を整理すればいいのか分からない。
「大塚さん?」
徹が心配そうに覗き込んできた。
「どうかしました?」
「いえ」
愛理は真顔のまま答えた。
「少々、仕事量を計算していただけです」
「そんなに大変ですか?」
「そうですね」
受付を労った直後、その受付へ特大の仕事を持ち込んだ少年へ、愛理は静かに微笑んだ。
「とても状態がいいので、通常より細かく記録できます」
「よかったです」
徹が安堵する。
マリーも満足そうに頷いた。
二人とも、愛理の言葉をそのまま喜んでいる。
推しが嬉しそうだ。
ファンとしては嬉しい。
受付職員としては泣きたい。
「それでは、確認が終わるまで少々お待ちください」
業務用の笑顔を作り直し、愛理は端末へ向かった。
その夜、彼女がゲート事務所を出たのは、日付が変わってからだった。
◇
翌朝。
大塚愛理が目を覚ましたのは、午前十時だった。
「……ねむ」
枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。
寝坊ではない。今日はもともと遅番勤務である。
とはいえ、昨夜のワイバーン処理がなければ、もう少しすっきり目を覚ませたはずだった。
愛理はベッドから這い出し、着替えを抱えて浴室へ向かった。
熱いシャワーを浴びる。
髪から肩へ落ちる湯が、眠気の残る体を流れていく。
鏡に映っていたのは、制服姿でも隠しきれないお姉さん体型と、それにまるで似合わない寝ぼけた顔だった。
「これで天使マリーと同じ画面に映ったら、社会人として負けるなあ……」
もっとも、受付にいる自分が配信へ映ることなど、ほとんどない。
シャワーを終えて居間へ行くと、母が用意した朝食兼昼食がテーブルに並んでいた。
「おはよう。昨日も遅かったの?」
「ワイバーン……大物が来たからねえ」
「天使マリーさん?」
「なんで分かったの」
「そんな大物、他に誰が持ってくるのよ」
もっともな話だった。
愛理は椅子へ座り、味噌汁に口をつける。
「もっと楽な仕事ないの?」
母が言った。
責める調子ではない。
愛理がこの仕事に就いてから、何度も繰り返されている会話だった。
「好きでやってるからね」
「好きでも、体を壊したら続かないでしょう」
「分かってるって。昨日はたまたま」
「そのたまたま、先月も聞いたけど」
「先月はボストロールだったから別件」
「別件ならいいって話じゃないのよ」
母は呆れた顔で、愛理の皿へ卵焼きを一つ増やした。
楽な仕事ではない。
攻略者が予定どおり戻らなければ、帰還まで気を揉む。
無事に帰ってくれば、今度は提出物と素材の処理が待っている。
それでも、彼らを送り出す人間がいる。
戻ってきた彼らを迎える人間もいる。
愛理は、その一人であることを気に入っていた。
「友紀は?」
「とっくに学校。今日は朝練だって」
「一年生なのに大変だねえ」
「南高校は今年も勝つんだって張り切ってたわよ。ほら、勇者マイト君がいるでしょう?」
「ああ」
弟の友紀は、同じ南高校に通うマイトをかなり慕っている。
家でも、彼の配信や戦い方についてよく話していた。
「姉ちゃんの職場にはマイト先輩もマリーも来るのに、ずるい、だっけ」
「そうそう。昨日も言ってた」
「仕事だからねえ」
愛理は卵焼きを口へ運んだ。
昨夜の自分は、かなり立派だったと思う。
五メートルのワイバーンを持ち込まれても、眉間に皺を寄せるだけで耐えた。
「……よし」
小さく自分を褒め、愛理は出勤の支度を始めた。
◇
家を出た愛理は、バスでゲート事務所へ向かった。
車内には、買い物へ向かう人や学生の姿が多い。
その中へ混じれば、愛理もただの二十二歳だった。
窓の外へ顔を向ける。
ゲート事務所が近づくにつれて、攻略用の装備を持った乗客が増えていった。
杖をケースに収めた学生。
防具を鞄へ詰めた会社員。
大きな盾を抱え、周囲へ何度も頭を下げている男性。
愛理の意識が、少しずつ仕事へ切り替わっていく。
バスを降りるころには、昨夜の推しを思い出して緩んでいた口元も、いつもの形へ戻っていた。
◇
職員口からゲート事務所へ入り、愛理は更衣室で制服へ着替えた。
髪を整え、名札の傾きを直す。
鏡の前で表情を確認する。
家にいた大塚愛理から、安管受付の大塚職員へ。
「おはようございます」
「おはよう。昨日は大変だったねえ」
「最後までいたんですか?」
「途中で帰れる空気だった?」
「ですよねえ」
同僚と挨拶を交わし、前の担当者から引き継ぎを受ける。
現在の利用状況。
装備貸出の状況。
帰還予定時刻を過ぎている組。
注意が必要な利用者。
確認を終えると、愛理は受付へ入った。
ここからは、いつもの仕事である。
一般利用者への案内。
攻略申請の受理。
装備と状態の確認。
予定経路についての質問。
一人を送り出し、次の一人を呼ぶ。
しばらくその繰り返しが続いたところで、受付前の空気が少し変わった。
背の高い金髪の少年が、こちらへ歩いてくる。
勇者マイトだった。
「あれ、マイト君だね。相変わらずかたそうだなあ」
隣の窓口にいる先輩職員が、本人に聞こえない声で言った。
マイトは受付へ必要な書類を出し、確認事項へ短く答えていく。
姿勢がいい。
受け答えにも無駄がない。
書類の並べ方まで整っている。
「あの子、うちの弟の高校の先輩なんですよね。学校でもあんな感じらしいですよ」
「うっわあ~、疲れるう~」
「弟は、そこがまた好きらしくて」
「男の子って、ああいういつもすました顔しているタイプが好きだよね。私だったら、ああいう年下見てるとヤになっちゃう」
「嫌ではないですけど、無理しちゃってるなあとは思っちゃいますよね」
愛理には、そう見えた。
本当に無理をしているのかは分からない。
受付で見るのは、相手の生活のほんの一部だ。
マイトは最後まで姿勢を崩さず、手続きを終えると受付へ軽く頭を下げた。
硬い。
だが、礼儀正しくはある。
友紀が憧れるのも、少し分かる気がした。
マイトを見送ったところで、今度は小柄な少女が受付前を横切った。
制服の上に、垂れ耳のついた大きなパーカーを着ている。
「あれ、ゴスロリ渋谷だ」
先輩職員が、また小声で言った。
「ちっちゃいですねえ。カワイイ」
「性格は私嫌いだけどね」
愛理は返事をしなかった。
渋谷芽衣と直接話したことはない。
同僚の好き嫌いは、あくまで同僚個人のものだ。
ただ、配信や広告で見るよりも、ずっと小さく見える。
あの体で円卓に席を持つほどの攻略者なのだから、やはり見た目だけでは分からない。
渋谷が長い袖を揺らして通り過ぎる。
その姿を見送る間もなく、次の利用者が受付前へ立った。
男が差し出した申請を受け取った瞬間、愛理は眉をひそめそうになった。
酒の匂いがした。




